わたしの社会人としてのデビューは追浜が初任地でした。約10年弱、そこで汗を流しました。なので当然その地域のことについてはとても詳しい。(次の任地は逗子)
交通安全教室なるものが、自動車教習所で開催されたことがあります。今では考えられないことですが、本物の自動車がぶつかるとどうなるかを、交通事故の恐ろしさを実際に見るということで、日産が工場から出来立ての車つまり新車を提供してくれて、実施されました。記憶では数台がぶつけられたように記憶しています。
わたしを含めて教習生が実際にそれらをみると、声を失い恐ろしくなります。安全運転の効果はそれなりどころではなく、絶大でした。
日産工場の工場へのトラック入場は付近の渋滞の元凶でした。トラックごとに時間で入場が決められていて、入場門前の道路はその順番待ちでデカイデカイトラックが何十台も停車しているためです。
工場の周りは当然、車関係の諸部品製造の工場も多く、付近はそのための営業や運搬の車で混雑がひどいものでした。
追浜付近とその一帯、浦郷・田浦から横須賀まで、戦争当時は軍の戦闘機や軍艦など開発や製造・修理の拠点でしたので、それらの町工場にはそういった技術の蓄積があって、それらはそのまま戦後の追浜日産工場へつながっているのです。
日産がスカイラインという車を開発販売しましたが、なんで車なのにスカイなのだとそのときよく言われました。いわれるまでもなく、戦争で飛行機の開発が禁止され、それら技術者たちが今度は車へ専念して、空への思いを込めたのでありました。
余談ですが、米国が飛行機の開発を禁止したのですが、こんどはそれから数十年後に日本車の攻勢で米国の車産業がめちゃくちゃになるという、なんとも皮肉な結末になるとは米国はこれっぽちもおもってなかったことでしょう。
さて、そのような追浜工場近辺の道路事情の中で、すぐ近くにある自動車教習所でわたしは免許をとりました。自動車免許は絶対にとらないと決めていたのですけど、働き出し生活事情も変わって、そんなわがままは言えなくなってしまったのでした。
仮免での路上教習が何度かあり、最後の試験を迎えました。ついてないことに、工場近辺の道路がめちゃくちゃになる時間帯があたってしまいました。検定試験の道路はどこを走っても大型や小型のトラックの路上駐車だらけ、ハンドルを握る手も脇の下も汗でじんわりでした。
検定試験の道路も混雑渋滞程度もすべて頭に入っています。試験の直前、どこも駐車車両だらけならば、速度はまず出せないので、とにかく丁寧に駐車車両をよけて、そのときに右折左折のウインカーを絶対に忘れないこと、と自分に命じて開き直りました。
結果は満点で合格♪試験官にも褒められました。
わたしの追浜勤務はずっと、午後からの夜勤務でしたので、自宅に帰るのはほとんどが最終電車だったのも懐かしい思い出です。最終電車の思い出も語りだすとまたそれはそれでひとつふたつの長い話になってしまいますので、それはまたいつか・・・
追浜駅前では「追浜駅交通結節点整備 事業計画(改定) 令和7年6月 国土交通省・横須賀市」というものが計画されています。
今回のこの件で、見直しを迫られることでしょう。
追浜工場の近くに夏島野島があって、その展望台から追浜工場テストコースを以前は望むことができました。また金沢八景を起点にして、夕照橋をわたり、海沿いにぐるっとまわって追浜駅へゆくコース、途中の下調べをしてゆけば見どころたくさんの楽しいコースです。さびれる前にハイキングするのもたのしいとおもいます。
0 件のコメント:
コメントを投稿