2019年6月30日日曜日

テープレコーダー その12


 父母と学生のボク3人とで京都へ出かけたときのことだ。
これは珍しい組み合わせなのだ。たった一度しかなかった。
東京駅の新幹線プラットホームが待ち合わせ場所だった。
切符はひとりひとりがすでに持っている。
父、ボクの順で着き、あとは母を待つだけとなった。
指定席に近い号車の入り口で待つ。
コナイナと父は呟き、列車に乗り込みボクが続く。
指定席に座ってすぐ、新幹線は静かに滑り出した。

 京都のホテルの夕食時、3人がそろった。

京都の観光は楽しかったですか。

母が誰に聞くともなくお皿に向かって話しかけている。
おいしそうに母の好物であるハンバーグをほおばっている。
ふだんハンバーグは食べないのだが、ここのホテルのは例外だそうで、ここにくると必ず注文する。

さっ、みんなも食べて。おとうちゃんも、お前も箸がすすまないねぇ。
歩き回ったからくたびれたんでしょうね。

遅れたことなど知ったことかいと超越して、無関心である。

わたしは悪いけどソーメンをもらおうかしらと、父とボクにかまわず注文している。

ここのソーメンは茹でるときに端を縛って乱れないようにする。
どうして断言できるかと言うと、以前にここの配膳してくれるボーイさんにきいたことがあったからだ。そのときボーイさんは料理長に確かめてきてくれて、さらに実際に縛ってある素麺をお盆にのせてテーブルまで持ってきて説明してくれたのである。

こんなふうに端をしばってから茹でるんです。
えっ、あっ大丈夫ですよ、こっちのしばってあるほうは、まかないで食べるので無駄にしません。

紅葉を飾り、氷の塊を岩のようにあしらい、そこから流れ落ちる小さな川を表現したように食前に供される。きれいなのだ。そしてうまい。

 父とボクは黙々と日本酒をあおる。



(つづく)


2019年6月29日土曜日

テープレコーダー その11


 父が機嫌よく江ノ島に海水浴へ行くぞと言ったことがあった。
一家そろってだ。
そんなことは我が家ではじめてのことだった。
前日から、ボクはウキウキだった。
父とボクたち兄姉弟は普段は仕事で使っている往診用の水色の車に乗り、あとは母を待つだけだった。
しばらくまっても、母は来ない。
すでにハンドルを握っている父がイライラしているのがわかった。
何やってんだ、と父がつぶやいたのと同時に車は発進した。

 ボクは後ろを振り返った。
車が角を曲がるとき、髪振り乱し車を追って走る母を見た。
手には大きなお弁当の袋がブランブランしゆれているのがみえた。

まって、まってってばぁー、ねぇ〜〜、

母の口がパクパクしているのがよく見える。母がだんだん小さくなってゆく・・・。
おとうちゃん、おかあちゃんが・・・。

 そのまま車は母を拾うことなく江ノ島へ向かってしまった。
母は江ノ島の海岸にあらわれなかった。

 海水浴から戻り、母はボクのおでこの傷のばんそこうをはりかえ手当してくれた。
その傷は、家の直ぐそばの道路でぶざまにころび、おでこを激しく石の角にぶつけてしまって、5針も縫う怪我をしたものだった。

海水浴はたのしかったかい、お昼は海の家で何をたべたんだい、

 手当をしてくれながら母はあれこれきいてきた。
海水浴が楽しすぎて、ボクの悪い癖、はしゃぎ回りすぎて迷子になって保護されたなんて
帰ってから母には言えるわけがなかった。

 夕飯のちゃぶ台にはのせきれないほどのごちそうが並んでいた。
おかあちゃん、これってお昼のお弁当のときの・・・、とききそうになった。
兄が目顔で厳しくボクをにらんでいた。

 母は自分のことはおいておいて、何度も海水浴は楽しかったかい
と聞くだけだった。
髪振り乱し車を追っかけたことなどこれっぽっちも、そんなことなかったかのような顔をしていた。
でも、車を追いかけたときの水色のワンピースのような洋服は着替えずにそのままだった。



(つづく)

2019年6月28日金曜日

テープレコーダー その10


 そんなことがあったときから、約20年後
ボクの結婚式で父がウナッていた。

たーーーかーーさぁーーごーや〜〜〜あ〜〜
こぉーーのーーうーらーーふーーねーーに〜〜〜

 これは録音ではない。
実演である。

 あのときのことを思い出していたのは言うまでもない。
右手人差し指を左手でつつみこみ、さすった。
やはりスコシミジカクナッテシマッタヨウナキガスル
気のせいだけだろうか。
はたして兄は思い出していたかどうか、兄の方をチラッとみた。
いつもどおりだった。
酒をたらふく飲んだのか顔が赤い。珍しいことである。

 披露宴の前の結婚式に母はいなかった。
遅刻したのだ。

母は遅刻グセなどというものではなく、病的に遅れるのだ。
大切なときほど必ず遅れる。
だからボクはほぼ100%の予測で母は間に合わぬだろうとおもっていた。その通りになった。
たとえ我が息子の結婚式だろうが、遅れるときは遅れる。

遅れてきた母は素知らぬ顔をしている。何もなかったかのように。
その日、父は何度も母を促したらしい、早くしろ早くしろ遅れるぞ。
父は怒って先に出かけてしまった。
家に一人になってしまった母は一体そのあと何をしていたのだろう。
地元での結婚式である。土地勘はある。どこで混むかも知っている。どうすれば混雑を回避できるかも知っっている。どれくらい前に家をでなければならぬかもわかっていたはずだ。


 若い頃、中国の戦地では軍隊同様の看護婦生活をして、時間を守らねば命にかかわることの経験など肌身にしみて骨の髄まで染み付いているはずじゃないか。

 戦地の病院で一緒に働いていた婦長が横浜駅に帰還したとき、新聞でその名前を調べ
汽車が来るのを今か今かと待ち構え、停車したその窓にやっと婦長の姿をみつけ、
婦長殿Tでありますと名のりをあげ、直立不動の姿勢で出迎えたことがあったではないか。
そのときは遅刻なんてしなかったよね。


(つづく)

2019年6月27日木曜日

テープレコーダー その9


 ボクの傷は全快した。
怪我をした右手の人差指となんでもなかった左手の人差し指をくっつけて比べてみた。
なんか、右のほうがみじかい、ミジカイヨウナキガスル。

 ねぇおかあちゃん、ボクの右の人差し指みじかくなっちゃったような気がするんだけど、
なにをいっておいでだい、もともと人間なんて右と左はおんなじにできてなんかいやしないんだよ、
足の大きさだって右と左じゃ、大きさちがうだろ、
わかったかい、そんなこと、気にすんじゃないよ。

 ボクは納得した。
でも、両方の人差し指をもう一度くっつけてみていた。

それから数カ月後。
夕食後に、兄があのテープレコーダーを出してきた。
母にまた戦時中の話をされてはたまらんとおもったからかもしれぬ。
何本かあるテープの中から、何かラベルの貼ってあるものを選んでセットした。

 ガチャッと再生の音がした。
このときのテープレコーダーの操作は鍵盤のような指で押すものではなく、昔のテレビのチャンネルを回すような仕組みだった。
いきなり、「〜〜〜」の、あのボクがうなっている部分の声が流れた。
母の顔が白くなった、ボクの方をにらんだ。
ボクは固まった。
兄は停めようとしたが慌てていてテープリールの部分に手が触れてしまい、「〜〜〜」が余計におかしな音声になってしまった。
テープリールに貼ってあるラベルのところが血の痕で少し汚れていた。

ボクの笑い声が爆発した。ブハッ。
ちゃぶ台の向かいに座っていた母のおでこの右上の生えぎわのところにご飯粒がくっついた。
アレッ、ボクの口からとんでいっちゃったのかな。
また笑いたくなるのを我慢しながら、母のそのあたりを見ていたら、

そんな目でおかあちゃんをみるのはおよしって怒られてしまった。

なんでおかあちゃんはすぐにボクのことをおこるんだろう。
ボクはどうしておかあちゃんをおこらせてしまうんだろう。


 兄はあせりながら、テープリールに貼ってある文字を確かめ、ひとりうなずいて
もう一度つまみを再生の位置にガチャリとまわした。

たーーーかーーさぁーーごーや〜〜〜あ〜〜

父の声だ。
父が謡(うたい)の練習で吹き込んだものだった。
いったいいつ練習で録音したものだったのだろう。

 うなっていることはうなっていたが、
ボクはおとうちゃんのことを(いくらおにいちゃんにいえっていわれたからといって)あんなふうにいってしまって、ゴメンナサイを何度も頭の中で繰り返していた。

母は黙って、縫い物の針を動かし続けている。
でもボクにはきこえた。
母は小さな声で、高砂やぁ〜と変な節回しでうなっていた。


(つづく)


2019年6月26日水曜日

テープレコーダー その8

 ボクは母が33歳のときの子どもである。
たったその10年前は、中国戦線の野戦病院同様のところで看護婦をしていた。

 空爆の下で診療や手術をおこなったこともある。
ボロの木造の診療所が空爆の進路になり、すぐ手前までドカンドカンとしだした。
母は院長が見当たらないことに気づいた。大声で院長の名前を叫ぶ。
どこですか〜、院長どの、どこでありますかぁ〜
ココだーココだー、

 爆撃の大音響の下、母はあらん限りの大声で院長に呼びかける。
院長の声は外にしつらえた便所からだった。
母は匍匐前進のようにして、野外便所に近づき、院長を確かめた。
院長どの、ぶじでありますか〜
いまわしが爆撃中じゃぁ〜、もう2,3発落としから退避じゃぁ〜。

 母は、大笑いしながらこんなはなしを食事中にするのだった。
お母さん、食事中にする話じゃないでしょう、それにそんな命がけのことなのに、
姉はプリプリしている。

 グラマンに機銃掃射されながら、逃げまどったこともある。
機銃掃射の弾痕が、これくらいの幅でねと両手をひろげ、
90cm位の間隔で土埃をあげてビュンビュンビュンってなるんだよ、
この部分の話になると母の目はいつもまんまるだった。

 たとえ我が子の人差し指が少々短くなってしまうくらいのたいしたことのない手当であっても、
母は思い出してしまうのだろう。
麻酔もなく片足を切り落とさなければ助からぬ兵隊さんの苦しみ気絶してしまった表情を。
母がその脚を持ち、切り落とされたときの脚の重みに腰が抜けてしまいそうになったことを。

 輸血せねばならぬが、その血液がない。
元気そうな兵隊さんを見つけ、負傷してくたばっている兵隊さんの脇に並べてねかせ、直結して輸血したことを。
たくさんの兵隊さんが死んだのを見た、でも誰一人天皇陛下万歳などと言わなかったことを。


 そんな話を聞かされたのは、小学校高学年になってからのことであった。
夕食のときそういった話をした。
朝食でも昼食でもない。
裸電球の明かりと夕ご飯の炊きたての白米の匂いが母の記憶を刺激したのかもしれなかった。

(つづく)


2019年6月25日火曜日

憲法改正だってさ

 安倍ちゃんしつこいね。
わたしはめったに大声でしっかたりすることのない人間ですなんていっているけど、誰も信じちゃいないよね。予算委員会で首相自らヤジをとばしてるんだからさ。あとでさ子分共を集めて、ヤジはああやってやるんだぞって、そっくりかえってたんだろうな。

 憲法改正改正ってしつこいっ!
敗戦後、日本の将来は米国に任されてさ、戦前の国体は解体されて新しいことや今までのものが改造されたりしたことは確かなことだよ。うん、現行憲法は押し付けられたものであるかもしれない。
日本人自らが一条一条ウンウンうなりながらさ、絞り出したものではないことはこれもまた確かなことだ。まぁ押し付けられたものだと受け入れよう。しょうがない、うん。

 でもさ、もうひとつ、民主主義っていうもの、これも押し付けられたんじゃねえの。
で、これも素直に受け入れたんだよね。
ねぇ、安倍ちゃんキイテル!
こっちは改正っていうか、反対っていうか、民主主義はよそうって国会で演説しないの?

 首相御自ら憲法改正っていうこと自体なんか変だし、公務員は憲法遵守の義務があるんじゃなかったっけ。首相なら言っていいの。難しそうな議論になるから、まぁいいや。よくないけど。

 安倍ちゃんが憲法改正で第一条「天皇」を改めようと言うなら賛成するよ。
モシカシタラホントハソウナノ?

 だってさ憲法第14条に「社会的身分または門地に差別されない」ってあるじゃん。
小学校の高学年で憲法前文や憲法の主だったものって学習するんだよ。
ねえってばっ、安倍オキロッ!
小学生は、「先生、門地ってなんですか」って質問するんだよ。
「それはですねぇ、家柄(いえがら)とか生まれということです」
キンコン〜カンコン〜
「あっ、チャイムがなってしまいました。質問や疑問はいろいろあるとおもいますが、今日はこれまで。さぁ、じゃ給食の準備をしましょう」
「規律。礼」

 社会科のこの単元の授業は、日本国中の小中学校では4時間目の給食前におこなうってしってた?
ねぇ、安倍ちゃんキイテル!!

 でも、今気づいたんだけど、なんか身震いしちゃった。
もしかして民主主義のほうはもうカタがついたんで、憲法の方をいじっているわけ?ナンデスカ??


2019年6月24日月曜日

テープレコーダー その7


 母は帰宅して、包帯でぐるぐる巻きのあげたままのボクの右手をみて、固まった。
どうしたの、今度は何をしたのっ、
母はボクの右手の血がにじんできていた包帯をほどきながら、兄のボソボソした声をきいていた。
母の声は落ち着いていた。
縫ったほうがいいかしら、うーん、これくらいなら圧迫しておけばくっつくわ。
母は丁寧に消毒して、また包帯で右手をぐるぐる巻きにした。
兄が巻いてくれたより、きつく巻かれているような気がした。
ボクの右手はあげっぱなしになっていた。

 それからというもの、兄の元気がどことなくなくなった。
ボクをかまってくれることもなくなった。
ボクが兄のそばにいくと、目玉だけギロッと向けるだけで、しゃべってもくれなかった。
どうしたんだろう、おにいちゃん、
ナニカカンガエゴトヲシテイル。

 傷の手当は、母が毎日してくれた。
なんかうれしかった。お母ちゃんがボクの手を毎日優しく消毒してくれて、お母ちゃんの手はあったかかった。

 ねぇ、おかあちゃん。ボクの人差し指、なんか少し短くなっちゃったような気がするんだけど、
トカゲのしっぽみたいにもとどおりになるよね、ね、ね、なるよね。
おまえ、バカだねぇ、短くなってなんてないよ、あんしんおし。
そぉかなぁ。

 お母ちゃんはボクがショックをうけないようにごまかしているんじゃないかと心配した。
だって、お母ちゃんは手当をしてくれているときの顔がどこか引きつっていたんだもん。


(つづく)


2019年6月23日日曜日

テープレコーダー その6


 ボクの手のしびれ感はますますひどくなってきていた。
それに、なんか痛い。
兄は救急箱を持ってきていた。
いったいいつの間に持ってきたんだろう。

 我が家は貧乏であることは確かだったが、救急箱の中身はジュウジツしていた。
母は少し前までバリバリの看護婦だったのだ。
それも戦争のときは外地である中国のある都市の病院に勤務していたんだ。
空爆や戦闘機の銃撃にもあっている。
百戦錬磨の戦う看護婦だったのだ。

 兄は手早くガーゼやらなんやらでボクの人差し指の手当をしていた。
あれ、なんでボクの手をふいてんの、おにいちゃんの手が真赤なのに・・・。

 必死の形相である。兄の両手はボクの血で真っ赤になってしまっていた。
包帯でぐるぐる巻きに強くまかれた右手を上に上げたままにしてろと怒鳴っていた。
バカッ、そっちは左手だろ、箸を持つ方の手だっ、こっちを上げるんだ。

 指先がドックンドックンしている。
ボクは兄が茶色い瓶の液体でテープレコーダーまわりを拭いて掃除をしているのをながめていた。
アルコールの匂いがしていた。

お兄ちゃん、なんか疲れてきたよ〜、
バカッ、下ろすな、上げるんだ、上げたままにしてろ。

(つづく)


2019年6月22日土曜日

テープレコーダー その5


 その瞬間、ボクの左足スネ部分が真っ赤になった。
テープレコーダーも真っ赤になっている。
兄はあっと声を出し、慌てた。

 ボクは何がなんだかわからない。
200を超えただろうかと、そればかりを考えていた。
血圧でも心拍数でもない。
カウンターの数字である。
うふふ、おにいちゃんたら、ボクが200をこえそうないきおいなんであせってるんだ。
勝ったとおもった。おにいちゃんに勝った。

 と、まもなく、痛みが・・・
どうしたんだ、なんか右手の人差し指がいたい、
それに、短くなってしまったような気がする。
どうしたんだろう、しびれてきた。

 兄がひどくあわてている。
それに、テープレコーダーのまわりをキョロキョロして、何かを探しているようだ。
どうしたのだろう。
いつもなら、こんなときはシランプリンしてとぼけるか、片付けるかしてるんだけど。
ボクの右手をつかんで、兄の手までもが赤くなってきている。

 血だ!
兄の手の赤いものを見て気づいた。
お兄ちゃんが怪我したんだ。大変だ。ボクは一気にドキドキ、心拍数はきっと200を超えている。
こんなとこ、お母ちゃんに見つかったらヤバイ、
やばいよねお兄ちゃん、ねぇってばぁ。


(つづく)


2019年6月21日金曜日

テープレコーダー その4


 お前はまだまだだなと兄が回す
カウンターは「0238」。
す、す、すごすぎる。
ボクは力いっぱいやっても「0157」だった。

 兄がレクチャーしてくれた。
ありがたい。

ここに指をかけるだろ、でさぁ、この向きに力をかけるのがコツさ
こっちじゃないぞ、こうやってこっちの方だぞ、
接線方向にこうやるんだ、イイナ。

セッセンホウコウってなんだ?!、おにいちゃんなんだかむずかしいことをいっている、むずかしいことはわからないけど、こっちの向きだよね。

力いっぱい指先に力を込めてさ。
そういって兄がやる

「0256」。
おぉ〜、やっ、やっぱ、お、おにいちゃんはすっ、すごっ、すごすぎっ。

 よしボクの番だ。
アドバイスどおり、力いっぱいやった。
「0175」、おぉー、200に近づいたぞ。
おにいちゃんのおかげだ。

 ちがうちがう、指先をここにしっかりとひっかけろ、ここだよ、ココ。
兄は汗をかき、目がキラキラしている。真剣そのものだ。
テープリールの内側のヘリの部分に指をかけて教えてくれる。

 何度も練習して、ボクは汗びっしょりになっていた。
部屋が熱気に満ちている。
こういうのがジュウジツしてるっていうんだ。
何かひとつのことをなしとげつつあるという、ワクワク感にひたっていた。

 うん、なんかわかったような気がしてきた。
畳の上におかれたテープレコーダーにかぶさるように
立腰になって指をテープリールにかけ、
息をおもいっきり吸い込み、体全体で回転させた。
エイヤァ〜〜〜。


(つづく)


2019年6月20日木曜日

テープレコーダー その3


 ボクはうなだれ、涙ぐんでいた。
おかあちゃんをおこらせて泣かせてしまった。
もう母を悲しませるようなことはすまいと決心した。
「〜〜〜」をおもいっきりウナッていたので、喉がまだ痛かった。

 それからまもないある日。
兄は兄なりにほんの少し反省したのだろう。
ストローのときには食べ物で遊ぶという粗末な罰当たりなことをしてしまった。
テープレコーダーでは父の尊厳をそこなった。

 方針を転換したのだ。
道具はまたしてもテープレコーダーだった。
テープレコーダーにはカウンターというものがある。
カウンターに表示される数字を目安に、どのあたりから何が録音されているかがわかる。

 空のテープリールを回すとこのカウンターも数字が通常と同じようにカウントされる。
軽く回すとカウンターの数字は「0022」、少し勢いをつけると「0041」、
もう少し強めに回すと「0059」のように表示されるのだ。
クルクルっと小気味よく数字が上がってゆく。

 兄が実際にやってみせ、
なっ、おもしろだろ、おまえもやってみろ、
とボクにふった。

 うん。
やりだすと、すぐにボクは夢中になってしまった。
夢中になったけど、テープリールがクルクル回りだしてから止まるまでの間に
ボクは考えた。
今度は大丈夫だよな、
食べ物は粗末にしてないし、お父ちゃんをバカにするようなこともしてない、
ダレモキズツケルヨウナコトハシテイナイ・・・

 もう一度回して、ボクは念じるようにそのことを繰り返していた。
カウンターは「0063」で止まった。


(つづく)


2019年6月19日水曜日

テープレコーダー その2


 当時、というかボクが生まれてからずっと、父とは月に数度会えればよいほうだった。
お家の事情と言うやつだ。
難しい年頃にさしかかっていた兄が日頃感じていたことを脳天気な弟に代弁させ、父が衝動買してきた機械でその言葉をおかしく出力させ、暗い歪んだ気持ちをマイナスに発散させていたのだろう。
しかし、弟のボクはノリにのってしまい手がつけられなくなってしまっていた。
こいつ、ほんとにバカだな、もうしらねぇ。

 そんなバカっ面をしているところに、母がお使いから帰ってきた。
なんかこんな場面がちょっと前にあったなと、頭の隅をかすったが、
アカンベーをして目を白目にむいて「〜〜〜」状態のボクは母の声はきこえるが姿は見えるわけがない。

 そのときは、テープレコーダーは止まっており、ただボク一人が
とぉーーーーーちーーゃーーんわぁ〜〜〜、と真っ赤な顔でうなっているところだった。

 母はストロー事件のときより怒っていた。
おとぉちゃんがなんだってぇ〜!!!カネをはこぶぅ〜、なんていっておいでだい!!!
えぇっ、なんていってんだいっ!!!

 バカっ面のまま、ボクはかたまった。
兄は素知らぬ顔でテープレコーダーを片付けている。

 ボクはさっと、両手を後ろに回しお灸のあとに重ねた。
またお灸かと覚悟したが、母はしなかった。

お父ちゃんが働いてくれているから、お前たちは食べることができているんじゃないか。
どうしてそんなことがわからないんだ。
たしかに、お父ちゃんが汗水働いているところをお前はみたことはないだろう。
でも、はたらいているからこうしてお金を家にいれてくれているんじゃないか。
それくらいのことが、それくらいのことが、どうしてわからないんだい・・・。

 お灸のかわりは母のちょっと涙声の説諭だった。
まだ、耳に残っている間延びした低音のセリフが母の嘆きと重なっていた。


(つづく)


2019年6月18日火曜日

テープレコーダー その1

 父が道楽でオープンリールのテープレコーダーを買ってきたのは、ボクが小学校2年生くらいのときだったとおもう。

 母はこんなものを買ってきてと見向きもしなかった。
喜んだのは兄とボクである。

 兄は何か機械仕掛けのものがあると、どんな新品でも分解してからまた組み立てることが大好きで得意だった。しかし、このテープレコーダーは手強いと見たか、今までのようなことはしなかった。

 何をしたか。
テープレコーダーは録音した音声を早回ししたりすると声の高さが変わって早口に音声が出力される。またオープンリールなので無理やり回転を変化させておかしな抑揚で出力させることもできる。
今風にいうと、LPレコードを手でいじくって調子を変化させるのと同じことだ。

 兄はこんなセリフをボクに喋らせ録音した。
「父ちゃんは金を運ぶ機械だ」
これを10回近く連続して吹き込んだ。

 早回しにして再生すると、甲高い声で恐ろしく早口で、10回のセンテンスがすぐに終わる。
おかしくって何度も兄にせがんた。
ケラケラ、笑い転げた。

 今度は回っているオープンリールの部分に手をかけ遅くして再生させた。
とぉーーーーーちーーゃーーんわぁ〜〜〜かーねーーぇーーを〜〜〜はーこーぶーぅ〜〜〜
きーーーかーぁーいーーーぃーだぁ〜〜〜
腹が痛くなるほど、涙が出るほど笑い転げた。畳をバンバンたたいた。

こっちのほうがおもしろいね、おにいちゃん。

ごきげんだった。
テープレコーダーから出力される音をまねて、ボクは実際に声をだし、語尾を伸ばす「〜〜〜」のところで、なぜかアカンベーをして目を白黒させてふざけまくった。


(つづく)


2019年6月17日月曜日

「純血種という病」 Michael Brandow を読んだ 3

 夢から覚めて、再び現実に。
今度は優生学。
世界で最初の断種法制定は1907年米国インディアナ州で、さらに同州ではその8年前に断種手術がおこなわれていた。そのことを知って今まで見ていた夢はいっぺんに覚めた。
目はパッチリ。

 ヒトラーは著書「わが闘争」のなかで、米国のこの状況をたたえた。
そしてこんどは1940年ナチスが障害者をガス室で殺害し始めたとき、
米国優生学協会はこのことをたたえた。
ナチスは負け、ニュルンベルク裁判で戦犯の一人が言う。
優生保護を合法としたのは米国が先ではないか。なぜ自分たちが後からして裁かれねばならぬのだ。


2019年6月16日日曜日

純血種という病 Michael Brandow を読んだ 2


 夢想する。
ある日、Breeding により恐ろしく知能の高い運動能力もあり超能力的能力をもつ犬が生まれる。
その犬は生まれ落ちて最初に周りの犬たちか犬らしい振る舞いはどのようなものであるかを学んだ。
そのように振る舞っている限り、自分が周りの犬たちとかわらずに暮らせることを了解した。
その犬は自分の能力を隠し続け仲間を増やすことに専念する。

 十分な頭数になったとき、自分たちを生んだブリーダーたちすべてを殺し、自分たちの手だけでさらに繁殖を続ける。敏捷で賢く人の命令もすぐ覚え何より忠実である。犬売買の取引を繰り返し世界中に仲間が増えた。彼ら同士はテレパシーで連絡ができる。お互いの状況を一瞬にして連絡しあえる。

 超能力の種類は様々で、瞬間移動、人の心を読み自在に人間を操る、人を殺すことなどたやすい。
相当な頭数がそろった頃、全世界で一斉に新ワンコが蜂起した。彼らは形態的に人間の言葉はしゃべることはできないが、テレパシーで意思を通じあえるし、相手の考えていることが読めてしまうので、人間はどうやっても太刀打ちできなくなっていた。

 新ワンコは最先端のAIコンピュータとも意思疎通ができた。
コンピュータがあらゆる分野に浸透していた人間社会は、皮肉にも新ワンコ族に乗っ取られるのはわけもなかった。一瞬にして人類と新ワンコ族は立場が逆転し入れ替わった。

 よくも宇宙船スプートニクでワンコを実験台にしてくれたな、彼女はオレのご先祖様だぞ。

 新ワンコ族は人類よりはるかに高い知性をもつようになっていた。
が、人をブリーディングをすることは決してしなかった。

もしかしたらわれわれ新ワンコ族をこえる新人類が生まれてしまうかもしれぬ。

 新ワンコ族が全世界を治めた当初は、いままでの鬱憤もあって人間たちを奴隷のように扱った。
しかし、しばらくすると彼らの知性はそれでは人間たちがしたことと同じことであり、繰り返しになってしまうことに気づくのはそれほど時間のかかることではなかった。

 新ワンコ族は、その超能力的能力で、人を自由に操り思い通りのことをさせることができた。
ところがどうしてもできなかったことがあった。
新ワンコ族は人の手をもつことができなかった。
サイボーグ的にほとんど人の手と同じに機能するものを手術で取り付けることは簡単だった。
しかし、それではダメだ。
生まれたときに人の手をしてなけれならぬ。
どんなに工夫しても人の手を持つワンコを誕生させることができなかったのだ。
種を超えることは不可能だった。

あの手がほしい、あの手が・・・。
あの5本の指がある手、両の手がほしい、あれで物をつかんでみたい、
くわえるのではなく、強く握ったり、そっとなでたり、両手で温かいマグカップをくるんでみたい。
ここほれワンワンなんて、できなくなったってかまわん。

 新ワンコ族は世代を重ねるごと次第に人類と共存してゆくことが、結局は自分たちのためであり人類のためでもあると学んでいった。
コンピュータで様々なパターンを入力しシミュレータを何億回試しても、出力は同じであった。
共存である。

異なったものが存在すること、多様なものが共存すること、それこそが安泰なのだと。

 数世紀がたった頃、新ワンコ族の一頭が、人間家族と一緒に暮らしていた。
夕食もおわり、居間で昔の映画を見ていた。
猿の惑星だった。


(つづく)


2019年6月15日土曜日

「純血種という病」 Michael Brandow を読んだ 1

商品化される犬とペット産業の暗い歴史
白揚社 2019.3
マイケル ブランドー 著
夏木 大 訳


 なるほど暗い。とっても暗い。胸糞悪くなるくらい暗い。
ジジイが子どもの頃は、近所で飼われている犬はほとんど雑種だった。
そこらの野良犬を捕まえて家で飼う人なんてざらだった。

 業者が野犬狩りするところなんて、見ものだったので遠くからながめていた。
そんなに珍しいことじゃなかったな。

 日本が高度成長期の右肩上がりの曲線と一緒に、
飼い犬はスピッツになり、コリーになり、シェパードなどになっていった。
これらは珍しかったな。
テレビのラッシーや名犬リンチンチンなどの影響もでかい。
でもララミー牧場がはやっても馬を飼う人はそれほどいなかったようにおもう。

 どこにでもペットショップががあり、ウインドウショッピングで犬や猫を飼(買)うようになってしまって、この産業が社会経済にしっかり組み込まれている現在、どうしたら犬をはじめ他の動物達もふくめて、ブリーディングをやめさせることができるのだろうか。
ため息しかでない。

 この本は様々な角度からこの異常な状況を糾弾しているのに、そうしているがために、簡潔に要点を突いたリーフレットのような啓蒙書になっていないのがとても残念である。
是非とも本書の核心だけの小冊子を出版してほしい。

 馬や家畜はいうまでもなく、鯉や金魚、メダカ、熱帯魚なども養殖し売れ筋を開発している。犬と同じようなものかもしれぬ。
米、小麦などたくさんの農作物も同様なのだが、どうなのだろうか。

(つづく)


2019年6月14日金曜日

麦わらのストロー(straw)その5


 ちゃぶ台にヨーグルトの瓶をおいた。
牛乳瓶のフタを開けるのと同じようブスッとさして開ける。
ヨーグルトの瓶の口は牛乳瓶よりも大きい。
麦わらのストローを入れる。
段取りはすべて整えた。
心を落ち着け集中した。

 ふぅ~と息をはきだし、吸った。
うっ。
強く吸い込みすぎたようだった。
シバラクブリダッタノデ カゲンヲマチガエタ

塊のヨーグルトが喉の奥まで・・・
うっ、くっくっ苦しい。
いっいっイキガデキナイ。

 咳き込み吐き出そうとするが、逆にそうするたびに奥に入ってゆくようだった。
息継ぎが・・・、ヤバイ、
ナンカクラクナッテキタ・・・。

ヨーグルトの瓶とストローを前に倒れてたら、いっぺんに何をしていたかバレちゃうじゃんか
ヤバイ・・・。
キガトオクナッテユク。

 はっと気づいたとき、ボクは逆さまにされ背中をバンバンたたかれていた。
母だった。
母はどうやら便所にでもいたのが、家にいたようだった。母の長便所をうっかりしていた。
ボクの名前を必死に呼び、背中をたたいている。
フッと息をするのが楽になり、口の中が甘酸っぱいのとヨーグルトが混じった味がした。

 またお灸をすえられるかと覚悟したが、母は台所から小さなスプーンを持ってきて手渡してくれたのだった。
これでお食べ、ヨーグルトはストローで吸って食べるんじゃないよ、イイネ。

 瓶の中に残っていた、ヨーグルトをカチャカチャ音をさせながらそのスプーンでボクは食べた。
これが我が家に配達されたヨーグルトのくいおさめであった。

 母は昨年から介護施設に入った。それまで兄の世話になりながらも一人暮らしだった。
来年100歳になる母は、子育てのときのこんな一コマを覚えているだろうか。

(おわり)


2019年6月13日木曜日

麦わらのストロー(straw)その4


 牛乳は配達されなくなったが、何か違うものが玄関先に毎朝配達されだした。
牛乳瓶より高さがない。
瓶には違いないが、底が厚い。
ヨーグルトだった。
ヨーグルトとはじめの遭遇だった。

 ストローは残っている。
気持ちがうずく。
スイタイスイタイスイタイ。
我慢しないでやってみろと、今度は兄姉がはやしたてるのではなく、もうひとりの自分がささやく。

 兄や姉を巻き込むことはしたくない。
お灸の罰、その教えはしっかりとボクの脳髄にも両手にも刻み込まれている。
家で一人になったときを待って、ボクは実行した。

 ヨーグルトをストローで吸う。
母に叱られてから、吸うことをしてなかったボクは、想像するだけでゾクゾクしていた。

 ヨーグルトは液体ではなく半個体のような豆腐のようなものだから、少し強く吸わないと
口の中に入ってこない。
うん、スコシツヨクスウンダ。
何本もつなげたストローで牛乳を吸うという貴重な体をはった経験と知識をもとに、
この行為を繰り返し繰り返し思考実験した。

 兄や姉の手伝いなど必要ない。
ひとりでするのだ。
やればできる。


(つづく)


2019年6月12日水曜日

麦わらのストロー(straw)その3


 姉と兄が、どこの誰がみたってお釈迦様がみたって、はっきりボクにやらせているのがわかろうとおもうのに、兄と姉はすべてボクのせいにした。
何回止めても、そんなことするなとひっぱたいても、やっちゃうんだ、
こいつがいろいろ命令したんだ、
おねえちゃん、もっと瓶をしっかりささえないとだめだよ、ゆれないようにして、両手しっかり、
おにいちゃん、ボクをもちあげて、しっかりだいてよ、あっ、あんまりおなかおさえるとでちゃう、

 兄は必死に言い訳をつらねている。
姉はいちいちその一言ごとに首をカクカクしてうなずいている、目に涙までためいた。

 ボクは口の周りも服も牛乳まみれになって、呆然としていた。
あと少しで、ほんとにあと少しで・・・。
牛乳瓶の中味全部をす、す、すいとれたのに、な、なん、なんで・・・。

 母は子どもを叱るとき、ひっぱたいたり蹴飛ばしたり殴ったりつねったり水をぶっかけたりの体罰はしない。
子育てで体罰反対論者だったのかもしれないが、ボクに下した罰はお灸だった。

 今でも両手の甲の人差し指と親指の股の部分にその跡がくっきりと残っている。
こんなジジイになってもまだ残っているのだ。
お灸とは名ばかりの火刑である。焼け火箸よりはマシかも知れぬがその一種であることに間違いはあるまい。別にうらんではおらぬ。

 お灸だから、てんこ盛りにされたモグサはちょっと暴れるか吹き飛ばしてしまえば、この状況から逃れることはできる。
あちーよー、おかあちゃん、あちーよー、
でも、ボクはけっしてそんなことはしなかった。反省し悔いていたからではない。
ボクは根っから素直でいさぎよいのだ。
手の甲の上の噴火中の小火山をボクはピンと突き出して耐えた。

 見つかってすぐに翌朝から牛乳は配達されなくなった。
麦わらのストローはまだたくさんあり、ボクは何でもよいからおもいっきり吸い込みたくてたまらなかった。

(つづく)


2019年6月11日火曜日

麦わらのストロー(straw)その2


 はじめはちゃぶ台の上に牛乳瓶をのせストローをさして飲む。こんなの簡単だ。
次に膝立ちになり、ストローを継ぎ足して長くなるにしたがい、気をつけの格好で首だけカクンと下げストローをくわえる。ボクの身長で足らなくなると、瓶をちゃぶ台から下ろし、畳の上に直接置き、それでも足らなくなると、ちゃぶ台の上にたち、最後は椅子の上にたって頑張った。

 ボクは何事も突き詰めてまっしぐらに挑戦することが大好きなのだ。
その日の分を失敗したり不本意な結果に終わったときは、
翌朝は失敗するもんか絶対うまくやってやる、と寝るときに固く誓ったものだった。
翌朝が待ち遠しかった。

 兄や姉はボクが脇目も振らず、顔を真赤にしてストローをつなげ咳き込んだり口をすぼめて
吸い込んだりする様がおかしかったのだろう。盛んにボクをはやしたて、ストローをつなぎ足してボクにわたした。

 飽きずにそんなバカな罰当たりなことを何度も何度もやっていた。
牛乳を普通に飲むことはなくなっていた頃、母に見つかってしまった。
よりによって、今までで最高の長さに挑戦しているときでボクはもう有頂天だった。
牛乳瓶は畳の上にあり、姉が倒れないように腹ばいになって両手で支え、兄は椅子の上に立ち上がりボクを両手で抱きかかえているところだった。
がんばれ、もっとおもいっきり、あとすこしだ、ほらどうした、がんばれ、おまえならできる、
兄と姉も興奮してボクをはげましていた。

 あのときの母の表情は今でもはっきりおもいだせる。
見てはいけないモノを見てしまい、一度は顔をそむけたようにおもう。


(つづく)


2019年6月10日月曜日

麦わらのストロー(straw)その1

 ジジイが子どもの頃のはなし、小学校に上る前くらいのはなしかなぁ。

 貧乏な家なのに母が何をおもったのか、森永牛乳の牛乳配達をお願いしたことがあった。
子どもだって、そんなことする余裕がないことくらいわかっていたのにだ。

 でも、牛乳は美味しかった。
牛乳と一緒に、お願いすると麦わらのストローを付けてくれた。
牛乳瓶は少し厚い紙で蓋をされ、薄いビニールで瓶のくびれたところでキュッとすぼめて瓶の口が汚れないようにしてあった。
開けるときは、専用の先が尖った針がついている目打ちみたいなものでビニールの上からそのままブスッと蓋の紙まで突き刺して開ける。
牛乳瓶は毎朝2本か3本だったろうか。
夏の配達のときは瓶の表面が汗をかいていたっけ。

 はじめは恐る恐る飲んでいたものが、だんだん当たり前になり、そのうち兄がこんなことをやれとボクに命じた。

 ストローをつなげて飲むのだ。
何本つなげて、どれくらいの長さまでできるかをやれという。
ボクは喜々として挑戦した。
おもいっきり吸い込んでタイミンが悪いと、ひどくムセて咳き込むことになる。
何がおもしろかったのか、牛乳瓶の周辺がとびちってよごれるのもかまわず、ボクは励んだ。

(つづく)


2019年6月9日日曜日

6月6日 D-Day 75年 その4


 パリが解放されたとき、マリオはジープのボンネットに腰掛けしがみついて
シャンゼリゼを凱旋したと言っていた。
その太い通りから脇にそれた迷路のような石畳の狭い小路はマリオが子どもの頃、友達と走り回ったところである。あっちの壁の落書きも、いつも壊れかけて閉まらなかったあの窓もみんなそのままだったといっていた。パリ市街はドイツ軍がめちゃくちゃにしてしまって諦めていたとマリオはきいていたからだ。

 こんな諸々の記憶の断片はマリオの自宅のバルコンで聞いたこともあるし、南仏の別荘のテラスで話し込んだこともあった。地中海の青緑のような色がマリオの瞳の色と同じだったな。

 マリオの青春時代と重なっていた戦争。彼の義父は第一次世界大戦のときドイツ軍の捕虜になってしまった。ボクがドイツ語を学習していくらかわかるといったら、その義父は捕虜生活の楽しい話をドイツ語を交えていっぱいきかせてくれた。やはりその義父にとっても青春時代の忘れられぬ記憶なのだった。

 パスティスを飲みながら、テラスでそんな話しをしていら、マリオがパッと遠くのボートを指さして「あいつは漁師なんだけど、あのボート、とんでもない音で明け方出てゆくんだ。それで目が覚めて頭にくる。いつも次の日にあいつのボートの船底の栓を引っこ抜いてやる!とおもうんだけどな」。数年後に退職予定のマリオは幸せそうだった。


 マリオはテレビから流れてくるノルマンディ上陸記念日の映像をジッと見ていたという。
その数日後、生まれ故郷に避暑にでかけたと連絡があった。
北イタリアはマジョーラ湖のそば、風光明媚なところである。

(おわり)

2019年6月8日土曜日

6月6日 D-Day 75年 その3

 マリオはノルマンディ上陸作戦の2日前に先遣隊として秘密裏に上陸していた。
上陸したときは3ケ国語が話せる通訳将校だったらしい。このあたりは詳しいことは知らない。
ただ、それ以前に搭乗機が撃墜されて目が飛び出してしまうほどの重傷であったとはきいた。

 ボクが大学生の頃、ノルマンディ上陸のあった戦地を何度か訪れたことがある。
きれいに十字架が整然と並んでいる墓地もあった。ただ静かに芝地が広がっていた。
横浜の権太坂そばの英連邦戦没者墓地とは全く異なる。ここは戦地ではない。


 あれだけの激戦がこんな浜辺で行われたのだな。
何度もよせてはひく波でなにもかも流してしまったのだろうか。
でも、浜辺にはなくともそのまわりの小高い丘にはちょっと探せば薬莢かなにかが見つかるとおもった。もともと北西フランスノルマンディ地方は夏でも小寒い、霧がかかっているいるようなところだ。

 映画や写真集で何度も見た浜辺。実際の浜辺は静かな波の音だけしか聞こえなかった。日本ならハマユリでも咲いていそうだが、何もなかった。
 
 偶然にきまっているが現在、姪がその戦地ダンケルク近在に住んでいる。



2019年6月7日金曜日

6月6日 D-Day 75年 その2

 おじさんのそのレストランには、たくさんの芸術家が来たという。
売れっ子もいれば極貧のその日暮らしの絵かきもいた。そういった絵かきがほとんどだったのだろうとおもう。

 ある日、イタリアの味に飢えた乞食同然の絵かきが来た。
レストランの親父さんとはもう顔なじみである。言葉も母国のイタリア語だったはずだ。好きなものを好きなだけ食べさせた。金はない。

 親父さんは金なんてとる気もない。貧乏画家は何度か自分の絵を親父さんに渡した。
とてもすまなそうだったという。そんなことをずっとしていたのだから、絵はかなりな量になってしまっていた。

 マリオは親父さんからその絵を引き継いだ。ボクも見せてもらったことがあった。
見せてもらったときに、その画家が誰であるかすぐにわかった。
ボクがモジリアニと独り言のようにささやいたとき、マリオはニヤッとしてすぐにしまったっけ。


 マリオは戦争前にアメリカの大学に留学した。アイスクリームのバイトもしたと言っていたが、仕送りもふんだんにあったに違いない。車で全米の州すべてを旅したと話してくれたことがあった。

 大学を卒業するころ、戦争が始まった。
彼は生粋のイタリア人だが、育ったのはフランスはパリの下町である。
留学して米語は第三の母国語になっていた。父母叔父や親戚の国であるイタリアは米国の敵対国だ。
米国育ちの日系人だけではないのだ。

 米国は人種の坩堝(るつぼ)。移民の国だ。たくさんの米国人が移民してきた国と戦う。
移民してきた国により差別は歴然とあった。
その差により激戦地へ送られることもあったろう。

 マリオはボランティア(志願兵)で欧州戦線へ参戦した。
米国空軍のパイロットになっていた。


2019年6月6日木曜日

6月6日 D-Day 75年 その1

 ノルマンディ上陸記念日。
 現在フランスでもうじき百歳にならんとするお世話になっている方がいる。
このかた、ゲームのマリオブラザーズ主人公にそっくりなので、マリオとしておきます。

 マリオのおじさんは19世紀末から20世紀初頭、非常に有名なレストラン経営者で、マリオの父親も同業者だった。出身は北イタリアで、大都会パリで一旗あげようと、誰もが上京してきている時代だった。北イタリアからは男はレストランなど飲食業の出稼ぎか自分の店をと、女は家政婦が多かったときいた。
 叔父は一代で成功し財を成した。

 そのおじさんは自分のやりたいことを成し遂げて、事業を拡張してさらにもうけて資産家になろうとなどこれっぽっちもおもわなかったようだ。
あるとき誰もその名前を知らないものはものはいないというレストランをたたんでしまった。
オコションドレというフランス語の名前そのままの子豚の丸焼きが有名なレストランだった。
店の調度品什器は現在でも超がつくほど有名なレストランに売った。
また手持ちの高級ワインもそれらの店に流れた。

 それでもマリオの家には、当時のレストランで使用していた什器が残っていた。
Baccaratのワイングラスやシャンパングラスなど、ナイフやフォークなど銀食器など普段の生活で使っていた。
そのおじさんは、船で世界一周の旅に出た。日本にも立ち寄っている。
ボクが学生のときや勤め人になって長期休暇のときに何度か滞在した。いっぺんに300年くらい戻ったかのような小さな屋敷だった。家の外壁の厚さが1m近くもあり、驚いたものだ。
地下の貯蔵庫も天井が高く、小さな体育館くらいあった。

 そのおじさんの書斎だった部屋には日本旅行で買い求めた土産物がたくさんあった。
みな一昔前のものだ。夏目漱石の本もあった。
他の国々の土産もあったが、日本のものが目立った。最近知ったのだがおじさんが活躍した時代、
フランスではジャポニスムの嵐が吹き荒れていたのだ。現在の日本礼賛とは桁が違っていたようだ。

 おじさんはその後は生まれ故郷に帰り、余生を楽しんだ。
おじさんの墓参りに行ったことがある。
おじさんの親類のおばさんとご一緒したとき、「インテルナツィオナール」を連呼し、ここもインターナショナルになったものだとニコニコ顔だった。
おじさんのお墓は簡素なものだった。

 このとき、このおばさんは屋敷の2階にある部屋で暮らしていたのだが、もう高齢で階段の上り下りがきつくなり、1階の居間の脇にベッドをおろし、そこで暮らすようになっていた。
あるときおばさんが熱心に読書しているので、その表紙をそっとみたら、「長生きの方法」と書いてあった。


2019年6月5日水曜日

ユニクロ半ズボン返品交換

 昨日無事終了。
お店引き渡しで取りにいったのが6月3日。
この日が特売日の最終日とは知らず、レジの前で約10分並んだ。
試着するつもりだったのだけれど混んでるのでやめた。

 返品交換がネットではなくお店でもできると知って、出かけたのが翌日4日。
開店直後に行ったので空いてました。

 ネットで買ったので、てっきりネットでまたお店引き渡しになるのかとおもっていたらお店の在庫を確かめてくれました。
めでたく一つ上のサイズで色も同じものがあったので、一度の来店で済んでしまいました。

 テキパキ片付けてくれるとうれしいね。
お店のお兄さんありがとう。


2019年6月4日火曜日

ユニクロネットで半ズボン買ったけど

 サイズがウエストサイズがきつかった。
サイズはJIS規格で比較的統一されているけど、やはりメーカーによって大小差が出る。
ユニクロとはどうも相性が悪くて困ってる。
もちろんねらったサイズ通りピッタシもあるにはあるけど。

 それに送料を節約して、近隣のユニクロのお店受け取りにしているので、これから出かけなくちゃならん。ふぅ~、まぁ暇だから。

 そろそろ梅雨に入るかしらん。

2019年6月3日月曜日

2020年東京オリンピック

 ジジイの記憶を耕してそのどうでもよい土塊を壊してみた。
小学校5年生のときかもしれない。
動員され横浜市街の繁華街の通りに聖火ランナーを見に行った。行かされたが正確な表現だな。
特段なんの感動も興味もわかなかった。
往復歩きだったのはよく覚えている。

 その記憶よりも、そのあとのこれも学校で小さな映画館を貸し切って見た、記録映画100メートルのスタートのあの画面は鮮烈に思い出せる。気持ちがワクワクドキドキして感動していたかもしれない。確か監督はあの怪獣映画の円谷監督じゃなかったっけ。
ポスターにもなっていたようにおもう。

 父か購入したのだろうか。
東京オリンピックのカラースライドをどこかから仕入れてきて、家で大きく映して見た。
色がついていてきれいだったこと、青空に五輪マークが描き出されたこと、
そういえばあのスライドはどこにいってしまったのだろう。

 来年2020年、東京オリンピック、2度目になる。
関心はないし、やらないでほしいと今でもおもっている。
関心がないというのは、嘘になるか。
積極的にオリンピックはもうやめろと考えているのだから、負の関心はとても高い。

 様々なスポーツ種目の世界選手権があちらこちらで開催されているのだから、
もうそれで十分だろう。あんな利権権威でがんじがらめになった組織は解体するべきだ。
わずか2,3週間のために一体どれくらいのお金をかけるのだ。同じ金を保育園の充実などこれからの子どもたちのために使えばどれだけよいかとかんがえてしまう。

 どうしたらオリンピックを止めることができるのだろうかと、結構真剣に悩んでいる。


2019年6月2日日曜日

車検完了

 一昨日5月31日に出して、昨日6月1日に完了。

 車は2014年4月に契約して6月に納車だった。
退職したら、あの車を買おうと決めていたので、翌日この車を下さいと展示品を指さして求めた。

 車検支払額は¥114,244円。

入れ歯代金、車検代、自動車税etc、ここのところ大枚がとんでいってる。


2019年6月1日土曜日

携帯料金 今日から最大4割値下げ

 何度もこの件をを取り上げ、われながらしつこい、とおもう。
しかし、ジジイはかっての電電公社に約10万円の債権をチャラにされた憤りがまだあるのだよ。

 どうして、かっての固定電話のように(今でも同じだとおもうが)、
または現在のPC(パーソナルコンピュータ)とプロバイダーのような、販売形態をとらないか不思議でならないのだ。不思議を通り越して、詐欺だと思わざるを得ない。ひどい。

 まずは、携帯電話機またはスマホの機械は単体で販売して、何が問題があるのだろうか。
携帯各社の回線に機械を購入と同時に加入すれば、機械は無料か大幅に割り引くなど、そのようなことはしなくてよい。機械購入と回線加入契約を分離するば単純にできるではないか。
それをわざわざからませてわかりにくく意識計略的に販売方針でそうしているのだから詐欺同様と罵られても致し方ない。
 PCを購入するときに、同時に指定されたネット回線に加入すればPCはほとんどタダなどという販売方法もしているが、主流となってないし、人気がない。

 次に、固定電話では基本料は定額支払うが、あとは通話に使用した分だけを支払うという、わかりやすい明瞭会計になっていた。
これが携帯になるとなぜできぬ。

 意識的にそのようなプランを作ろうとしないところが詐欺行為に等しい。
携帯電話の社長さん、説明してくださいよ。

 PCでプロバイダーに加入し、インターネットをする。
メールも無制限にできる。
スカイプなどを使えば無料でテレビ電話ができる。
両方共世界中とほぼ無制限にできる。
料金体系は明確である。
PCの購入代金+プロバイダー料金だけ。
ちなみに、これって、かっての固定電話と同様です。

 それがスマホや携帯になるとなぜかくも複雑な料金体系になるのですか、説明してください。
もちろん許認可している国もグルになっている。
こんな国民をだますようなことを認めているのだからな。