父が機嫌よく江ノ島に海水浴へ行くぞと言ったことがあった。
一家そろってだ。
そんなことは我が家ではじめてのことだった。
前日から、ボクはウキウキだった。
父とボクたち兄姉弟は普段は仕事で使っている往診用の水色の車に乗り、あとは母を待つだけだった。
しばらくまっても、母は来ない。
すでにハンドルを握っている父がイライラしているのがわかった。
何やってんだ、と父がつぶやいたのと同時に車は発進した。
ボクは後ろを振り返った。
車が角を曲がるとき、髪振り乱し車を追って走る母を見た。
手には大きなお弁当の袋がブランブランしゆれているのがみえた。
まって、まってってばぁー、ねぇ〜〜、
母の口がパクパクしているのがよく見える。母がだんだん小さくなってゆく・・・。
おとうちゃん、おかあちゃんが・・・。
そのまま車は母を拾うことなく江ノ島へ向かってしまった。
母は江ノ島の海岸にあらわれなかった。
海水浴から戻り、母はボクのおでこの傷のばんそこうをはりかえ手当してくれた。
その傷は、家の直ぐそばの道路でぶざまにころび、おでこを激しく石の角にぶつけてしまって、5針も縫う怪我をしたものだった。
海水浴はたのしかったかい、お昼は海の家で何をたべたんだい、
手当をしてくれながら母はあれこれきいてきた。
海水浴が楽しすぎて、ボクの悪い癖、はしゃぎ回りすぎて迷子になって保護されたなんて
帰ってから母には言えるわけがなかった。
夕飯のちゃぶ台にはのせきれないほどのごちそうが並んでいた。
おかあちゃん、これってお昼のお弁当のときの・・・、とききそうになった。
兄が目顔で厳しくボクをにらんでいた。
母は自分のことはおいておいて、何度も海水浴は楽しかったかい
と聞くだけだった。
髪振り乱し車を追っかけたことなどこれっぽっちも、そんなことなかったかのような顔をしていた。
でも、車を追いかけたときの水色のワンピースのような洋服は着替えずにそのままだった。
(つづく)
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