2019年6月26日水曜日

テープレコーダー その8

 ボクは母が33歳のときの子どもである。
たったその10年前は、中国戦線の野戦病院同様のところで看護婦をしていた。

 空爆の下で診療や手術をおこなったこともある。
ボロの木造の診療所が空爆の進路になり、すぐ手前までドカンドカンとしだした。
母は院長が見当たらないことに気づいた。大声で院長の名前を叫ぶ。
どこですか〜、院長どの、どこでありますかぁ〜
ココだーココだー、

 爆撃の大音響の下、母はあらん限りの大声で院長に呼びかける。
院長の声は外にしつらえた便所からだった。
母は匍匐前進のようにして、野外便所に近づき、院長を確かめた。
院長どの、ぶじでありますか〜
いまわしが爆撃中じゃぁ〜、もう2,3発落としから退避じゃぁ〜。

 母は、大笑いしながらこんなはなしを食事中にするのだった。
お母さん、食事中にする話じゃないでしょう、それにそんな命がけのことなのに、
姉はプリプリしている。

 グラマンに機銃掃射されながら、逃げまどったこともある。
機銃掃射の弾痕が、これくらいの幅でねと両手をひろげ、
90cm位の間隔で土埃をあげてビュンビュンビュンってなるんだよ、
この部分の話になると母の目はいつもまんまるだった。

 たとえ我が子の人差し指が少々短くなってしまうくらいのたいしたことのない手当であっても、
母は思い出してしまうのだろう。
麻酔もなく片足を切り落とさなければ助からぬ兵隊さんの苦しみ気絶してしまった表情を。
母がその脚を持ち、切り落とされたときの脚の重みに腰が抜けてしまいそうになったことを。

 輸血せねばならぬが、その血液がない。
元気そうな兵隊さんを見つけ、負傷してくたばっている兵隊さんの脇に並べてねかせ、直結して輸血したことを。
たくさんの兵隊さんが死んだのを見た、でも誰一人天皇陛下万歳などと言わなかったことを。


 そんな話を聞かされたのは、小学校高学年になってからのことであった。
夕食のときそういった話をした。
朝食でも昼食でもない。
裸電球の明かりと夕ご飯の炊きたての白米の匂いが母の記憶を刺激したのかもしれなかった。

(つづく)


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