2019年6月7日金曜日

6月6日 D-Day 75年 その2

 おじさんのそのレストランには、たくさんの芸術家が来たという。
売れっ子もいれば極貧のその日暮らしの絵かきもいた。そういった絵かきがほとんどだったのだろうとおもう。

 ある日、イタリアの味に飢えた乞食同然の絵かきが来た。
レストランの親父さんとはもう顔なじみである。言葉も母国のイタリア語だったはずだ。好きなものを好きなだけ食べさせた。金はない。

 親父さんは金なんてとる気もない。貧乏画家は何度か自分の絵を親父さんに渡した。
とてもすまなそうだったという。そんなことをずっとしていたのだから、絵はかなりな量になってしまっていた。

 マリオは親父さんからその絵を引き継いだ。ボクも見せてもらったことがあった。
見せてもらったときに、その画家が誰であるかすぐにわかった。
ボクがモジリアニと独り言のようにささやいたとき、マリオはニヤッとしてすぐにしまったっけ。


 マリオは戦争前にアメリカの大学に留学した。アイスクリームのバイトもしたと言っていたが、仕送りもふんだんにあったに違いない。車で全米の州すべてを旅したと話してくれたことがあった。

 大学を卒業するころ、戦争が始まった。
彼は生粋のイタリア人だが、育ったのはフランスはパリの下町である。
留学して米語は第三の母国語になっていた。父母叔父や親戚の国であるイタリアは米国の敵対国だ。
米国育ちの日系人だけではないのだ。

 米国は人種の坩堝(るつぼ)。移民の国だ。たくさんの米国人が移民してきた国と戦う。
移民してきた国により差別は歴然とあった。
その差により激戦地へ送られることもあったろう。

 マリオはボランティア(志願兵)で欧州戦線へ参戦した。
米国空軍のパイロットになっていた。


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