2019年7月31日水曜日

Makitaサイクロンアタッチメント A67169 を買った

 こんな便利なものが発売されているなんて知らんかった。
何かの拍子にネットで知って、ビックカメラで購入、申し込んだ翌日午前中に着、早いな。



 体感的に良く吸ってくれる。
取り回しも問題なし。
ゴミがクルクル回っているうちにまとまってくれて、ゴミ捨ても楽ちん。
ちょっと高いけど、使っているうちにまぁいいかになる。

 画像の左下に写っているのは、自作のサイクロン集塵機。
これなくしてはもう切削作業は行えなくなってるくらい便利で必需品になっている。
この集塵機は三代目。なのでサイクロンについてはいくらか詳しい。

 掃除機の管の途中に差し込んでサイクロンにするとは驚いた。
その仕様もだが、能力も大したものです。

 話変わって、こんなに素晴らしいものを販売できるのだから、
ジジイがずっと前からお願いしているアレを是非是非とも販売してほしい。
数年前、マキタのお客様窓口へお願いしたら、検討してみますと簡単にお役所的にあしらわれた。
残念、泣いたよ。

 アレってね。
14Vや18VのバッテリーをそのままACアダプターにしたもの、勿論海外対応で100V,220V。
ずっと以前に確かPanasonicで販売していたんだけど現在はない。
ネットなどでは、自作した方々が結構いらっしゃる様子。

 マキタ内部ではとっくにテストピースはできているはずです。
販売決定に至らないのは、本命のバッテリーの売上に響くからだろうことは想像できます。
でもね、マキタさん、バッテリーで使わなければならない所や使いたいところは、ACアダプターでは用をなさないんですよ。そういった所の需要は変わらないのだからバッテリーの売上には響かないということがどうしてわからないのかなぁ。
残念、泣きそう。

 アダプタータイプのサイクロン、こんなに素晴らしいものものを販売できるんだからさぁ
バッテリー型ACアダプターも販売しましょうよ、ね、マキタさん。



2019年7月30日火曜日

体調のこと 発作性心房細動

 今から5年前のこの頃、朝食に西瓜を食って、悪魔が持っているような三日月型の草刈り鎌のでかいのを、振り回した。朝とはいえ強い日差しだった。しばらくして朦朧としだし、通常の変調ではないとおもい部屋に入り休んだ。しかし体調はどんどんひどくなる。意識も危ない。救急車を要請した。
近くの病院へ運ばれた。

 熱中症とそれによる期外収縮の連続(不整脈)と見立てられ、点滴と心臓を落ち着かせるための薬を処置された。午後には家に戻った。

 しかし心臓が調子をくずした。その後11月までに3回救急車のお世話になった。
発作性心房細動と診断された。同じ街のクリニックで薬の処方による治療が始まったが副作用でフラフラになるだけだった。主治医も困って、大学病院でカテアブの手術へとなったのが2014年12月末だった。

 2015年2月に手術したが経過観察中に再発しているとのことで2回めを同年12月に行った。
翌年だったろうか、簡易心電計を購入した。不整脈治療は発作が起きたときの心電図がなければほとんど何もわからず、対処のしようがなさそうだとうことがようやくわかってきていた。
2016年から2017年の7月頃まで、脈が乱れたり頻脈になったりしたときの心電図を持って診察にかよった。主治医の判断は微妙なところだが心房細動ではなく期外収縮の頻発だった。頻脈は収まりつつあった。薬は2種類ずっと服薬していた。

 2017年7月過ぎ頃から、あれだけしつこかった期外収縮の頻発が突然なくなった。
おもいあたる原因はない。頻脈もその頃までにはなくなっていた。
そして一日2回のプロパフェノンは、晩に飲んだ後必ず少し心拍が乱れることがあったので自分の判断で止めてしまったら、その心拍の乱れはなくなった。診察時にそのことを主治医に告げたら、そのまま朝一錠となった。

 だいぶ落ち着いたようなのでということで、大学病院から街のクリニックへ戻ることになった。
その第一回目が2019年5月。その年の春頃に、朝飲んでいたプロパフェノンもやめていた。飲むとやはり乱れるのだ。服薬をやめたらその症状はなくなった。不整脈の薬はかえって症状を誘引することがるあことは承知していた。

 で現在。ビソプロロール2.5mgを朝服薬しているだけになった。
小さな期外収縮はたまにあるが、頻脈はない。
朝のゴミ出しや、庭の草刈りもできるようになった。
なんとか日常生活が営める健康があればそれで十分である。

現状はそんなところ、ありがたいなとおもっている。


2019年7月29日月曜日

シソの勢いがよい

 シソをもう一年分食ったような気がする。

 今年はシソが出だした頃、適当に肥料を与えた。
それが効いたのかそれとも気にしてやったことがよかったかはわからぬが、勢いと色艶がよろしい。
そして味もよし。

 食っても食っても葉が勢いよくつく。
小バッタが相変わらず食ってしまうが、これも例年より被害は小さい、のかシソの勢いがまさっているのかどちらだろう。

 まだまだ食えそうである。

2019年7月28日日曜日

ブルーベリーの粒が例年より大きいぞ

 ハーブ用の顆粒状の肥料を何度かあげたせいか、例年より粒が大きく身も柔らで
果汁も多いような気がする。

 色が変わって熟したものから収穫するのだが、毎回手のひらいっぱい片手分になる。
ヨーグルトと一緒に食す。

 目に良いと効くではなく聞く。
しかし、左程効果はなし。
まっ、うまいからよいか。

 ところで、塾した実を鳥がなぜついばまぬのかが不思議。


2019年7月27日土曜日

セミの初鳴き

 今年の梅雨は長雨つづきでセミも困ったようだ。

7月22日にひぐらしのカナカナカナとなく声が聞こえた。
翌23日明け方にもカナカナと響き渡っていた。明け方のひぐらしは4時過ぎのあるきまった時間に鳴き始め、また時計のように正確にこれまたきまった時間に鳴き止む。不思議なものだ。
またミンミンゼミも聞こえだす。

 昨年2018年は7月11日にミンミンゼミが13日にカナカナの初鳴きが記録してあった。

日本本州付近で台風になった6号は上陸して関東へ向かっている。
梅雨明け10日が定番であるが、珍しいパタンである。

 日本の亜熱帯化は確実にすすんでいるようだ。
もう少し若かったら、庭にパパイヤ、マンゴー、マンゴスチンなど植えていたところなんだがな、残念。


2019年7月26日金曜日

YAMAZEN 扇風機購入

 昨日到着。
ノジマからのメールを見ての衝動買い、
でもないか、以前からDCモーターの扇風機がほしかった。

 扇風機って名前、カタカナ英語で呼ばないんだな。
家電の中で横文字のカタカナになっているのとそうでないのとってあるけど
その境目ってなんだ?
冷蔵庫、洗濯機、ジャー、炊飯器、エアコン、テレビ、ラジオ、掃除機、ミキサー、除湿機、・・・
ね、なんだろうね。

 購入したのは YAMAZEN YLX-RD30-W ¥5480.
なるほど静か。
リモコンはいらなかったのだけれど、まぁ腰をかがめぬ分、楽といえばラク。
羽の裏表に縁にキヲツケロシールが貼ってあった。
これを剥がすときに手が滑って左足くるぶしあたりにあたって、バンドエイドの世話になった。
シールは剥がしの溶剤できれいにした。
羽表面にシールを貼るなど、流体力学を学んでない者の仕業である。
飛行機なら墜落するぞ。
まだ一日しか使ってないが、よくできておる。
満点の5点をあげたいところだが、斯様な理由で4.5。

 本日梅雨も開け、扇風機の本格的な出番となり活躍を願う。


2019年7月25日木曜日

幕末下級武士の絵日記




 「石城日記」としてネットで全文読める。
忍藩の尾崎石城なる藩士の文久元年(1861)から翌年までの178日間の絵日記。
とても愉快。

 こんな場面がある。
第四巻16頁。



櫓炬燵という向かいに座った人も見えないような背の高いこたつがある。
そこの脇で服を脱ぎ捨て、では風呂にいってくるよと手を振ってるのは猷道という坊さん。

「極月」とあるから12月だが、部屋は寒かろう。
気心知った友人の家なのだが、こたつの脇で脱ぎ捨て、皆に見送られ人様の家の風呂に浴する。

 なんか感動した。


2019年7月24日水曜日

公的年金流用問題


 年金騒ぎのついでに、
ほんの15,16年前程度に明らかになったことなのに、もう忘れ去られているようだ。
年金原資は将来の年金資産として給付母体としてのみ使用されるべきものを、職員や施設やその他諸々の給料や物品等、目的以外のものに使われていたという、とんでもない事件である。
それも何十年も年金制度が始まってからずっとだった。

 どれくらいの金額が流用されたかは明らかになることはならなかった。
天下りして連中に支払われた退職金等も戻されることはなかった。
すべてはうやむやのうちに、幕を閉じさせられた。

 高度成長を遂げた日本の年金制度を視察に来る国々の人々は驚愕したという。
どうどうと年金資産を流用していたからだ。
どの視察団も来てよかったと帰国時にコメントを残した。
一番やってはいけないことをこの目で確かめることができたと。

 まったくもって、クソ腹立たしい。

2019年7月23日火曜日

年金 2000万円云々

 バカでバチアタリな議論をしている、国もマスコミもだ。
退職後の試算をするのに、前提として「現役時代と同じ生活水準を保つ」だとさ。
給料取りでなくなったのだから、それまでの生活とはちがって
「分相応」とか「身の丈に合った」という生活があることを考えんのかね。


2019年7月22日月曜日

テープレコーダー その34


 結婚式で父が高砂を謡ったのはボクたち夫婦への祝言だけではなく、母への感謝もあったのではないか。いや、むしろほとんど気持ちは母へであったのではないか。
あの日あのテープを聴いたとき、母にはすぐにわかった。

わたしにはおとうちゃんに感謝されるようなことは何もしていません。
今この命があるのもおとうちゃんのおかげじゃないですか。
忘れてしまったんですか。
戦争のとき、中国で働いていたとき、わたしが腸チフスにかかって死にそうになったことを。
助けてくれたのはお父ちゃんじゃないですか。
輸血が足りなくって、お父ちゃんがサッと腕をまくって自分の血をわたしにくれたのはおとうちゃんじゃなかったんですか。
わたしがこうしていられるのは、みんなみんなおとうちゃんのおかげなんです。
感謝されるのなんかイヤです。バチがあたるっていうもんですよ。
あの子の結婚式でおとうちゃんのそんな謡いをきいたら、たおれちゃいます・・・。

ボクの結婚式、このとき父、64であった。
大陸の病院で勤務しているとき母は一度、日本へ戻っている。父とのやり取りは葉書か手紙であったろう。海を隔てての手紙、そして母は再び中国の同じ病院に戻る。
母は月見が好きである。まゆ月、いざよい月、たちまち月、ねまち月などを教えてくれたのは母だった。

 父は謡いながら、
戦争のときに中国と日本の間で母と手紙で近況を伝えあったこと、
敗戦の引き上げ船では混乱極まる甲板で頭上の月を母と見上げ母の月見講釈をきかされたこと、
波にさらわれるような激しい玄界灘を乗り越え本土のそばの島影が見えたときのうれしかったこと、やっとのことで命からがら博多の港に船が接岸したときの喜び、そして桟橋の本土のコンクリートを踏みしめたときの安心感、まだ膝がフラフラしたまんまだったこと、
謡の言葉は、父にとって母にとってはその物語はそのままふたりのそれまでの命をかけ生きてきた毎日の出来事であったこと、
すべてが重なるのだろう。

 記憶のテープは重ねてまかれたまま上下の事柄が影響しあって混濁しているかもしれない。
それでも、再生してみると時間の流れは不自然でもひとつひとつの事柄があったことは事実なのだ。
父はもういない。
母はもうじき一世紀を生きる。
いままた、母に父の高砂をきかせてやりたい。


(おわり)


2019年7月21日日曜日

テープレコーダー その33


 敗戦後母と父は同じ船で引き上げてきた。船内はメチャクチャな状況だったという。
入港先は博多であった。
中国の大陸の港を出航するとき、乗船予定の船に父母の乗った列車が地元の賊に襲われ、間に合わなかった。帰国するには最小限の荷物しか持ち込むことは許されなかった。
それでも父母が医療関係者であったことからかもしれないが帰国に際して優遇されたことだろうとは想像がつく。
現地で残り少ない身につけているものを売ってさらに身軽により裸一貫になった。

 数週間後運良く次の引き上げ船に紛れ込むことができた。
甲板まで満員の船は、ひどい揺れで波にさらわれた人もいたという。
誰しもが無事帰国できるよう祈るだけだったよと、母は船を見るたびに呟いていた。
最初に乗る予定だった引き上げ船は湾の出口付近で機雷に触れ、沈没してしまったと知ったのは博多についてからだった。


 母の遅刻グセについて父がいちども咎めたことがないことが小さいときから不思議だった。
母の遅刻により、父自身が不名誉をこうむったり、不利益を生じたとしても、母が責められても当然だとおもっても父は何も言わぬ。表情も変えぬ。そのあとの母との対応もいつもどおり。
父が母に対して唯一偉そうな振る舞いをする(もしかしたらできる)のは生活費の「金渡の儀」だけである。
そして、子ども心にも許せぬことは、母は自分の遅刻をゴメンナサイの一言もいわない。

 しかし記憶の断片を集め何度も再生を繰り返してみると、もしかしたら・・・、そうだったのかもしれぬと見通しよく霧が晴れるほどではないが、手元足元くらいは見えてきそうな気がするのだ。


(つづく)

2019年7月20日土曜日

テープレコーダー その32



 母はなにかの機会に、この北野天満宮に願掛けをしたのだろう。
息子が一人前に自分で稼ぐようになり嫁さんを迎えることができるようにと。

 しかし、母はもうひとつ緑茶断ちというのをやっていた。自分の大好きなものの一つを断って願いが叶うように、母は緑茶を選んだというわけだ。こちらの願い事が何であるか、母は明かしていない。
ある日、あれっと思ったら急須から緑茶を注いでいた。
驚いた。嫌いじゃなかったの、ボクはきいたけど、母はニコニコしながら、
緑茶はやっぱり旨いねと、おかわりをしていた。

もっとも、緑茶は断っていたのだが、紅茶をガンガン飲んでいたので、なんか中途半端な断ち方ではあった。

 どうやら母の遅刻グセは父が絡むと、意識しているかどうかははっきりしないが、ほぼ発現するようだ。父がいないと、遅刻はしたりしなかったり、まぁ常人なみといってよい。
母が若かりし頃、父とは約束の時間に間に合うか間に合わぬかでPTSD(心的外傷後ストレス障害)が発症しているのかもしれぬ。


 中国北部の戦地の某都市。
槐(えんじゅ)の並木道が美しく、枝や葉がつくる木陰はカラッとして気持ちがよい。
少し埃っぽい街路の一角に橋がかかっていた。
街外れのそのたもとのそばに小洒落た茶店があった。

 院内感染ならぬ院内自由恋愛(わたしとお父ちゃんはジユウレンアイだったのよといつでもうれしそうに言っていた)をし始めていた二人は、その茶店で仕事終わりの時間に待ち合わせをしていた。父は専門は内科なのだが戦地では何でも屋にならなければやってはいけぬ。外科もやった、当然手術も。

 その約束の日、負傷者や救急の外科手術で二人とも約束の時間には間に合わなかった。
先に父がその場所に着いたとき、約束場所の茶店は跡形もなくふっ飛ばされてまだくすぶっている状態であった。
あとからやって来た母は人だかりがして煙を上げている橋の方向を見て、よろけて倒れそうになる躰を槐の幹につかまり支えなければならなかった。

先生は無事なのかしら・・・、何かあったのかしら・・・、

近づくにつれ、まだ火薬の匂いが残り、煙越しのむこうにまあるい眼鏡をかけた父を認めた。
走り寄った。

無事ですか。大丈夫ですか。何があったんですか・・・

 約束通りの時間に二人が茶店で落ち合っていたら、ふたりともふっ飛ばされていたところだった。


(つづく)


2019年7月19日金曜日

テープレコーダー その31


 なんか電報屋さんが持ってきてくれた文面がこんなんだったな。
お調子者で騙されやすく素直なボクは命令に従って、母の出かけそうなところの見当をつけ
商店街へと坂を下った。しばらく探しまわったが、歩き疲れてきた頃、商店街のずっと奥の隅に
魚屋さんの六さんとおしゃべりしている母を発見した。

なんだよ、おかあちゃんったら、いつもとおんなじに買い物してるじゃんか。

 しかし、母があんなふうに家出まがいのことをしたことはボクにとってはショックだったようだ。
その後、こんな夢を何度か続けて見た。
 母が銭湯からこざっぱりして家に帰る途中、何故か空からヘリコプターがやって来て母をさらってしまうのだった。ボクはその一部始終を見ていて、ヘリコプターに引き上げられてゆく母を、ヘリの爆音より大きい声で、おか〜〜〜ぁ〜ちゃ〜〜〜〜〜〜ぁん〜と叫び、窓を大きく開け放ち何度も叫んでいた。その自分の声でハッとして目覚めてしまっていた。

 ちょうどあの頃の満月の晩だったのだろう。
天にある満月に向かってボクは吠えてしまっていたのだとおもう。
夢ではヘリコプターに向かってだったけど。


 ハッとして目を開けると、境内の縁側だった。
おっと、ウトウトしてしまったようだ、もう宿へ帰ろう。
ホテルのロビーでは誰もいないのにカラーテレビがつけっぱなしになっていて、
王がホームランを打ったところが流れていた。


(つづく)


2019年7月18日木曜日

テープレコーダー その30


 満月の晩だった。
母は夏みかんを一房ごと丁寧にむき、それに白砂糖をタップリかけ、お皿に山盛りにしたものを冷たくして、月見をしながら食べたことがあった。夏の満月の晩にそんなことをよくやった。
二人で食べてしまったので、腹がふくれた。
夏みかんの甘酸っぱいゲップをしながら、窓枠に脚を掛け伸ばし、両の手を枕にただただ月を見続けた。

おいしい夏みかんだったねぇ・・・ 

母はブツブツ言いながら、寝息を立て始めていた。

 後年、ボクは知るのだが、これって「八朔の雪」じゃないか。
母がしたことはマンマで趣も何もなかったかもしれないけど、こんな風流どこで知ったのだろう。

およしよ、母親をバカにするもんじゃないよ、

再生しなくても、後頭部の奥で母の声がひびく。


 別の日のその晩も満月だった。
ボクははっと目覚めると、母と月見をしていてウトウトしてしまったのだろう。
一人になっていた。
脇にいた母がいなくなってしまった。
急に怖くなり、窓から大きな声で叫んでいた。
おか〜〜〜ぁ〜ちゃ〜〜〜〜〜〜ぁん〜。

 どうしてこんなにあわてたのか。
母は一度だけ子ども3人にむかって、
おまえたちでだけで生きておいきっ、
と威勢よく啖呵をきって、家出をしたことがあった。
なにか母の言いつけを姉か兄か、どちらかかが守らなかったのだ。
鉄製のドアーがガチャーンと閉められてすぐに、兄姉の視線はボクに向けられていた。
えっ、なんでボクなの、

キズツケルヨウナコトハナニモシテイマセン

 4つの目玉はしかし、こう語っていた。
オマエノヤクメダ、
スエッコハ、イチバンカワイイノダ
スグハハヲツレモドセ


(つづく)

2019年7月17日水曜日

テープレコーダー その29


 母は餃子作りを中国の現地の人から教わった。
わたしの餃子は本場のものよ、母の口癖で自慢の餃子だった。
ボクも小さい頃から教わったので、皮だって具だってひと通り全部作ることができる。

戦争のときだからさ、いろんな物資がないんだよ、
小麦粉だって手に入れるのは中国人ならなおさら大変さ、
だからあの人達はさ、自分たちも勿論だけどね、子どもたちも総動員で出動するのさ。
小麦を運んで来るトラックがお店や倉庫に入れるときに必ず、どれかの袋が破けてそのまわりが粉だらけになるのさ、
そうすると、それめがけて、それこそアリのように群がって、かき集めるのさ。
お天気なんて関係ない、とにかくわぁ~ってきてさぁ~っていなくなる。
あとはきれいなもんよ。
トラックじゃなくても、貨車で小麦粉が運ばれてきたときもそう、
トラックのときよりもっともっとすごいことになってさ。

 それでね、餃子の作り方を教わった中国人の家でね、作った餃子をいただくでしょ、
そうするとね、むこうは水餃子なんだけど、口の中でなんかジャリジャリするのね、
砂が混じっちゃってるんだね、
でも、茹でてあるから大丈夫、不衛生じゃないよ、ウチで作ったものよりももっとおいしいの。

 母がかきあつめた道路にぶちまけられた粉でつくった水餃子は、アスファルトの道路で雨のせいもあったのだろうか、砂粒が混じっているということもなく、ツルッんとなめらかな舌触りの皮にできあがっていた。


 母は現地の中国人から餃子の作り方を教わった。中国語で意思の疎通ができた。
病院でも母が現地の中国人の通訳をしていたようだ。
中国人の患者さんが来ると、お母ちゃんはは引っ張りだこだったよ、と父が教えてくれたことがある。
 正式な通訳もいたらしいのだが、母は現地の人がしゃべっている口語的でそして学歴と縁遠かった人々から吸収したようだった。

 母の中国語の実力を見せつけられたのはこんなことがあったからだった。
実家に帰っているとき、ピンポンと来客があり、母が応対に出た。
母は一方的に何かを話している。しかしよく聞き取れない。
注意して耳を傾けてみると、中国語だった。
適当にブロークンにそれっぽくしゃべっているのではと想像した。
その相手はと見ると、丁寧にボクに挨拶したのだが、すぐに中国人と気付き、
新聞の集金に来たのだということがわかった。
集金を任されているのだから、お店からは随分と信頼されているだろう。

 母が以前話してくれていた日本に留学して大学に通っている中国人がこの人だった。
彼は早口に自己紹介をした。しっかりした日本語だった。

わたしの国のおばあちゃんみたいな話し方で、すこし古い中国語です。
こちらに集金に来るたびにとてもなつかしくて、国の母におばあさんと同じ言葉を話す
日本のおばあちゃんがいるというと、すごくおどろいていました。

 母が中国語で話し、彼が日本語で答えるというへんてこりんな会話を二人は続けた。


(つづく)


2019年7月16日火曜日

テープレコーダー その28


 母は小麦粉400グラムを求めた。
当時は味噌でも醤油でも粉でもみなほとんど量り売りだった。
真っ白い粉が入っている茶箱のようなところから小さなスコップで薄茶色の紙袋に、秤の目盛りを見ながら店主は注意深く慣れた手付きで一袋詰め終わった。
 母は急ぐ用事などないのに、その紙袋を受け取り、買い物袋へしまいながら通りの向かい側へ渡ろうとしたとき、母はあっと声をあげ、ボクはその声の方へ顔を向けた。
 
 商店街はアーケードがあるので雨降りでも心配ないのだが、母はちょうどアーケードからでたところで、今買ったばかりの小麦粉の紙袋を道路にぶちまけてしまっていた。
その上に雨粒がおそいかかり、みるみるうちにブツブツのあとができ増えていっていた。

 母は特に焦るでもなく、周りの目を気にするふうでもなく、落としたから拾うというごく当たり前の行動をしているかのように、すぐさま道路に散らばって少し盛り上がっている小麦粉を両手でかき集めだしていた。雨でもう散らばった端の方はぐじょぐじょになりはじめている。
母はボクの名前を大声で呼んだ。
ほら、おまえも手伝ってよ、はやく、こっちきて、はやく、
ボクはただただ恥ずかしいだけだった。

これじゃぁ チイちゃんとおなじじゃないか、雨の日に水たまりにビスケットが落ちちゃって
グジュグジュのそれを拾って食べてた、アイツ。

 雨水が道路に薄く溜まっているところに小麦粉がぶちまけられた様を想像してほしい。
砂場で砂を両手ですくって山を作ったりして遊んでるというわけではないのだ。

 ボクがためらっている間も、母はせっせとかき集めては薄茶色の紙袋へドロドロになった小麦粉を戻していた。
 道路にうずくまってせわしく両手でかき集めている姿はカエルのようだった。

アタマをそんなに低くしたって、雨はとおりすぎてなんかいかないよ、おかあちゃん。

母の上へ傘をかざすくらいのことしかできなかった。


 この粉は結局、餃子の皮になった。
母はなんのためらいもなくドロドロになったところやまだ粉の状態をなんとか保っているそれらを
ボールのなかでこね始め、一つの大きな塊にした。
この粉が道路にぶちまけられたものをかき集めたものであることは、母とボクしか知らなかった。
あっ、もうひとりいた。お店の店主が呆れた顔してこっちを見てたっけな。


(つづく)


2019年7月15日月曜日

テープレコーダー その27


 ボクは母にとっては最後の子どもだった。母が父と生活するようになって一番貧乏だったときの子どもだった。だからかどうだかはしらぬが、ボクが赤ちゃんのときの写真は一枚もない。
別にひがんではない。なかったからないのだとおもうだけだ。

 幼稚園も行かなかった、否、行けなかった。
兄は幼稚園に入園したときの嬉しそうなニコニコ顔の写真がある。なぜかランドセルをしょっているのだ。おかしい写真なのだがボクのときより家計の金回りがよかったことがわかる。
 同じところに住んでいる同い年の友達が全員幼稚園にかよい始めて、午前中一人きりになってしまうと、すこし寂しかったことを覚えている。

 住んでる家の目の前は公園だった。
砂場、鉄棒、滑り台、向かい合って座るカゴのようなブランコ、一人乗りのよくあるブランコ、ジャングルジム(息子が生まれて一緒に入って遊んでいたらボクはでれなくなってしまった)など遊具もあって中規模の市が管理している公園だった。
 寂しくなると、そこのすべり台の斜めになっている台のところ、台の両脇のペンキが剥げたところに手のひらを当ててそのザラザラ感をたしかめながら、寝ころがり空を眺めて過ごした。いつ寝ころがっても青空がとてもきれいで、あきることは一度もなかった。
フッとねおちたこともあったが、まぶたを開けてもまだ青空だった。


 でもあの日の夕方は雨だった。
ざあざあと道路にうちつける雨の音がきこえる。
雨の日は雨の音を聴くと退屈しないよって教えてくれた母の声がした。
買い物行くけど一緒に来るかい、
雨降りで退屈していたボクは答えるよりも早く傘を持って玄関を出ていた。

 商店街へ買い物に出るには、坂を降らなければならない。
ボクと母が歩く先へ雨が流れてゆく。
坂の下に何百年も前からある大きなお寺があり、地元ではその坂はそのお寺の名前で呼ばれていた。
そのお寺を左手にしてまっすぐ数十メートル歩くと商店街の十字路に出る。
そこを右に曲がり商店街を直進して左の並びに郵便局があるのだが、その数軒手前が母が目指したお店だった。


(つづく)


2019年7月14日日曜日

テープレコーダー その26


 海水浴のあの日、母が車のあとを追いかけたとき、実は少し前から家の建物の脇に隠れて、父が怒って車を出したのを見計らって飛び出し、気がふれたかのように乱舞しながらその姿を見せるためにしたとでも言うのだろうか。
新幹線のホームでもプラットホームの階段の上り口のところに身をひそめ、父とボクの様子を伺いながら、すんでのところで間に合わなかった自分の姿を窓の外に認めさせようとでもしたと言うのだろうか。


 ボクが結婚してひと落ち着きした、まだ子どもが生まれる前のことだった。
母がボクと妻を連れて、京都にお礼参りに行かなくちゃと連絡をくれた。
母とのそのような旅行は初めてなので驚いた。
東京駅新幹線プラットホームで待ち合わせた。
母は15分くらい前に姿をあらわし、予定通り京都へ出発することができた。

なんだよ、ちゃんとこれるんじゃないか。

 京都についてのまずしなければならないのは北野天満宮へのお礼参りだった。
母は3人でそれさえ無事すめば、あとはのんびりすればいいからと、お礼参りが済むと母はさっさと境内を出て、鳥居の前の広い道でタクシーを探した。帰り際にホテルでの夕食は6時だよと念をおされ、5分前行動だからねと母に一番似合わぬ言葉をボクたちに投げつけ、ひとりでタクシーに乗りホテルへ帰っていってしまった。

 はたしてホテルのレストラン、5時55分に母はいた。
なんだよ、ちゃんとこれるんじゃないか。
大好物のハンバークを食べ、しめにいつものソーメンを気持ちよさそうにすすっていた。

 食後、ひとりでホテルのそばのお寺を散歩した。
このホテルの周りは大きなお寺がいくつかある。大阪冬の陣の原因となった釣り鐘で有名な方広寺も近い。仕事でたびたび京都へ来ることがあった。懐かしくてあのホテルで食事でもと立ち寄ったことがあった。
 しかしホテルは様変わりしていた。最上階に近いところにはビアガーデンビール祭り開催中と派手な色ではちまきのようにめぐらせてあった。経営状態はあまり良くないようだった。
食事は別のところにした。

 夏の熱気をタップリためているアスファルトは蒸し暑かったが、境内はひんやりして静かだった。
大きなお寺の太い柱のある縁側に上がり、ヨイショっと、よりかかって脚を投げ出した。
ぼんやり薄暗がりになってる境内を何を見るでもなくボォーとした。
このまま目をつむってウツラウツラしたら杜子春じゃないか。


(つづく)


2019年7月13日土曜日

テープレコーダー その25


 母と遅刻についておもいめぐらす。
ボクの高校受験のとき、少しばかり成績がよかったため、担任は東京の進学校をすすめた。
受験日のその日、母とボクは寝坊して、受験会場に遅刻した。
もちろん落ちた。

 母は職業婦人で看護婦であり戦地で働いていたことはすでに述べた。
軍隊も同然のような職場環境であったと言うから、時間厳守は鉄則であったろう。
それが、日常生活となるととたんに激変する。

 記憶の再生ボタンを押す。
そうすると父が絡むと病的に遅刻することにおもいあたった。さらに遅れたことを詫びない。
母の深層心理のどこかに、父をチリチリ焼き焦がすかのように、なにか鬱屈した情動があるやもしれぬ。

 母はゴキブリをピンセットで捕まえ、ガスコンロの火を極大にして炙り殺すという癖がある。
そのピンセットは脱脂綿や消毒ガーゼをつまんでけが人を手当をするときに使用するものと同じ種類のものである。ちなみに我が家は医療一家なのでハサミをクーパーと呼ぶ。

 チリチリと音を出して燃え、ゴキブリは断末魔の悲鳴をあげ、焦げ臭い独特の匂いを周囲にばらまく。ゴキブリの長い触覚の先は線香花火のようだった。
あのときの母の陶然とした横顔、子どもでも見てはいけないモノを見てしまったという困惑以上のもの、母のそんな顔を見ているボクは一体どんな表情をしていたのだろう。
母の瞳にユラユラ赤い炎がうつり唇はパクパク閉じたり開いたりして半開きになり、こめかみはピクピクしていた。
コンロの炎の大きさは極大のまま赤や青の色が混じって揺らぎ続けるのだが、母の瞳の中は炎が大きく振れ動き、ゴキブリが焼き上がるときに、その炎の大きさは瞳からはみ出し、眉毛を焦がしていた。
油虫というだけあって、命の炎が燃え去る直前の油のひとしずくがコンロにたれて燃え盛った。


 母はあの戦地で切り落とさねばならなかった片脚はあとで焼かなければならなかったのだろうか。
戦地で亡くなった兵隊さんを火葬にすることがあったのだろうか。
亡骸が骨になるまでずっと手を合わせながらたたずんでいたのだろうか。
ゴキブリが燃えるときの炎の中に、戦地でのたくさんの悲しい出来事をみてしまうのだろうか。

 儀式が終了するといつも母は大きくはぁ~~〜と息をはいた。
焼き殺しているあいだは息を止めていたのだ。
ピンセットはいつも必ずガスコンロのすぐ脇の定位置に置かれていた。

おかあちゃん、ゴキブリを焼き殺すピンセットがそんなにそばにあるとフエイセイじゃん、
きたないよ。

おまえ何を言っておいでだいっ、ガスで焼いて熱消毒しているんだから、
汚いわけがないだろっ。

子ども心にも何か違うんじゃないかとおもった。
言い返せなかったボクは悔しかった。


(つづく)

2019年7月12日金曜日

テープレコーダー その24


 父が週末帰ってくるようなったのが当たり前になっていた頃、ボクは中学生くらいになっていたのだろうか。難しい年ごろである。

 父は帰宅すると必ず着物に着替えた。やはり大正3年生まれの昔の人である。
ちなみに下着はパンツではなくふんどしである。母が裁縫は得意なのでお手製であった。
お前もこれにしろと強制されて使用したことがあったが、銭湯で着替えるときに番台からも回りから注目されているような気がして恥ずかしくてやめた。
 父は夏に銭湯から帰るとき、わずか2分位の距離だったためかそのいっちょうふんどしだけで公道を下駄で音を立てながら闊歩していた。勿論ボクは一緒に歩く訳がない。他人のような顔をしても地元なのでバレバレであったのだけれど。

 ひと月に一度、家計費を父が母に渡す儀式があった。
ボクがいようといまいとそのようなかたちで昔からずっと続いていたような儀式だったのだろう。
ボクの存在などまるでないようだった。

 父には父の定位置に椅子があって、そこに座り、一万円札10数枚(とおもわれる)束ねたものを母へヒョイと軽く畳の上に投げるのだ。母は正座していてその束に膝行し頭の上に掲げてははぁ~といってからありがとうございますと述べる。
父はそれをきいて、毎回決まったセリフを言う。
これだけ稼ぐのは大変なんだぞ。
母はまた言う、ありがとうございますぅ〜、と平頭する。

 父は札束をメンコの札を投げるように、投げつけるわけではない。
でも、ボクはその光景が心から嫌いだった。
あのようにお金を渡すなんて、父を軽蔑した。
どんなに大変な思いをして稼いだカネであろうと、渡しかたがあろうというものではないか。
そっとホイッて軽く投げるにしたって、恵んであげるようにお金をそんなふうに投げることはないじゃないか。

 父はボクにお小遣いをくれるときは、決してそんなふうには渡さないのに、
どうしてあんなにみっともなく下劣な渡し方をするんだ。
その光景を思い出すたびにイライラした。
ボクには手渡しか、ちゃぶ台の上に置いて渡す。
お金を稼ぐのは大変なんだぞ、
と必ず言い添える。

ボクにそんなふうにできるんなら、お母ちゃんにもそうしてよ

トウチャンハカネヲハコブキカイダ

こんないたずら遊びをしたこを思い出し、悲しかった。

 が、あの金渡しの儀式、もしかしたらもしかしたら、母の処世術、それもかなり深いところにあり身に染み付き染まり、こすっても削っても落とすことのできない、金太郎飴みたいな処世術、

柳の枝のようにかしこまっていれば、頭の上を通り過ぎてしまうよ、

あれだったのかもしれぬ。
父をおもいっきりヨイショって持ち上げて、ははぁ~て平べったくなる、踏み潰されたカエルみたいに。
母の得意技だよなあれって。


 どんなときにでも、ははぁ〜と平伏していた母であったが、気にくわぬことがなかったわけではない。ボクはそれをたった一度しか目にしてないけど。

 父がボクのうちの近くの商店街で売っている自家製チャーシューを向こうの家族のお土産にしたいから2キロぐらい買ってきてくれと母に命じたことがあった。
 そこは肉の問屋さんで卸もしているし、商店街なのでお肉屋さんとしてもいろいろ販売している地元の人気店だった。店の奥の方では牛がぶら下げられ解体されるのを待っている。
ほんの一瞬であったが紙の端で指先が切れんばかりの鋭利さの母のまなじりをボクは見逃さなかった。

 2キロもまだあるかしらと言いながら出かけようとした母をボクは引き止めた。
母はなんだい一緒に来るのかいといつもの調子と変わらなかったが、目はいつもの形になっていなかった。そんなこと父が気づくわけがない。
ボクが行くよと、母からお金をもらって飛び出した。

ソンナコトオカアチャンニサセテハイケナイ

団地を走り抜け、商店街への坂道も転がるようにしてお店に入った。
母が心配したとおり2キロにたらなかったが少し待てば焼き上がるというので店先で待たしてもらった。

 お店の人はボクのことを知っている。いつも母の買い物に金魚みたいにくっついてるからだ。
そこの椅子に座んなと顎で指しながら、小盆の上にお茶とチャーシューの落としを持ってきてくれた。ボクの大々好物。ココのお店は隣でラーメン屋さんもやっているのだ。

 焼き上がってくると、色艶形においもうたまらなかった。
切るのかい、塊のままかいとおじさんが聞くので、ボクはためらわずそのままでと答えた。
2キロは重たかった。
帰りは急な坂道を登らなければならない。

オカアチャンニイカセナクテヨカッタ

まだ口の中にお駄賃で食べさせてもらったチャーシューの味が残っていた。



(つづく)


2019年7月11日木曜日

テープレコーダー その23


 父が亡くなったとき、すぐそばに父の携帯電話があった。きわめて初期のタイプのものだった。
契約金も異様に高額だったのではなかろうか、きっと死ぬまでその高額な契約のままだったのではといらぬ心配をする。
足腰が弱り階段の上がり下がりもままならぬ身になり、身近なところに携帯を置き、用事を済ませていたのだろう。父は一体誰とこの携帯で話をしたのだろう。
ボクは父の携帯の番号を知らなかった。


 子どもたちとは電話ですませていたが、父はよく母を池袋まで呼び寄せていた。
しかし、それもまだ杖を突きながらも自分ひとりで電車に乗ることができるまでだった。
兄と姉は独立して家を出て、残ったボクによく父とはなした内容を、母は切れ切れだが話してくれることがあった。
おとうちゃんたら、わたしにカネはないかって、いうんだよ。
いつも、ありませんって答えてるんだけどね、
次に会うときも、また次に会うときも、同じようにきくんだよ。

 父は池袋まででる体力がなくなると、母に電話をかけてくるようになった。
内容は同じである。
カネはないか、いくらいくらでいい、用意できないか。
母の返事は同じである。

 父が五十代後半の頃のことだったろうか。
夕食がすみ、ホッとしていたひととき、ボクと父二人だけのときだった。
やっと、おわった。借金がすべておわった、とまるでこれから死んでしまう人が最後の息を吐くようにもらしたことがあった。
 いきなりなことだったが、エッと聞き返すことものなく、ボクは父の方を振り返っていた。
ほんとうにそのまま死んでしまいそうな顔つきであったし、肩を落とし背を丸めて畳を見つめていたが、帰宅するといつも着物に着替えていた父のその姿は今までとはどこか違って、重荷を下ろした軽やかな明るさがあった。

 そして、ずっとあとになって、父が母に
死んでも死にきれいないと、切羽詰まった事情を話していた、その事柄を母から聞かされることになる。
自分が死ぬまでに少しでもたくさんお金を残しておいてあげたい、かき集めておきたい。
ボケの少し始まっていた父はなおさら必死になっていた。

 そんな父の嘆きを聞かされても母はしらを切った。
父は母のタフさを知っている。知ってても母にしかその心のウチをいわずにおれなかったのだろう。

 母にカネがないのは嘘だったと知るのは、だいぶ後になってからのことである。
母は子どもが大きくなってからは、ボクは鍵っ子になってしまったが、看護婦として働いた。
しかし、それほどの給料はもらってなかったろう。薄給だったはずだ。
母のへそくり、どんなふうにしてこんな大金を貯めたのか。
謎の一つである。

(つづく)


2019年7月10日水曜日

テープレコーダー その22


 そんな父でも、母の実家に気を使わなかったはずはない。
ボクがまだ小学校に上る前だったとおもう。
ボクの家族全員と、母の両親、もう十分に爺さん婆さんだった、計7人で奥伊豆に2泊3日の旅行をしたことがあった。仕事の都合で父は1泊しただけで帰ってしまった(ような記憶なのだ)が、祖父母は大層喜んでいた。
祖父はチラシを和綴じにしたものを常に持ち歩き、一句ひねってはそれに記していた。

 その奥伊豆の二泊目は場所を移動したために宿を変えた。
部屋に案内された一行は、中居さんがお茶を入れてくれている席で、ボクは
おにいちゃん、前の旅館のほうがきれいでよかったね、とご機嫌で言ったとたんに
兄の釣り上がった厳しいなじるような目でにらまれてしまい、自分が何かまずいことをいってしまったことは気づいたのだが理由がわからず、祖父母や母の表情をみるのだがニコニコしているだけであった。

 祖父のこの旅行の御礼の手紙がある。
祖父は自宅周辺の地域で書道や俳句・短歌の先生をしていた。
達筆すぎて、判読不能の箇所(*のところ)も多い。古文書の学習が少しは役に立った。

「拝啓
春暖の候 益々御清祥お慶至極と存じ上げます。
*****お心にかけられ老夫妻を最も印象深い奥伊豆御招待され
何共有かたく思い奥伊豆の風物に接することは夢にして実現など
心にもなかりしを実現させて頂き一生の思い出となり
しみじみ生甲斐を感じる次第であります。昨二十七日午後二時両人共
元気にて帰宅いたしました
不取敢書中にて御礼申し上げました
              **
三月廿八日 (祖父の姓名)
(父の姓名)様
      侍史

暖きこ古こ*を杖に伊豆の旅
            **」

 宛先は父の住居兼診療所になっており、上質の和紙を長細く巻紙のようにして認めた書状になっている。その紙はどうやら幅のある和紙を半分にして巻紙状にしたもののようで、ハサミで切ったのではなく折り目をつけてから、定規を当て裂いたようにしたものだった。裂いたところが毛羽立っていた。
 祖父から見れば父は息子くらいの年齢に違いないのに、文面は最大級の敬意を込めたものだ。
祖父の父への心遣いがうかがわれる。

 祖父が死の床に着いたとき、母は電車を乗り継ぎ急いで実家に向かったのだが、あと少しというところで間に合わなかった。祖父は死ぬ間際まで母の名を呼び、まだかまだかと・・・、それが最後の言葉だったという。


(つづく)


2019年7月9日火曜日

テープレコーダー その21


 父の他県の新生活の場所は、母が生まれ育った県であった。
母は百姓を生業とする12人兄弟の長女である。
父はこんなふうな状況になってしまったことを母の両親に伝え説明しているはずである。

 昨年、70年以上住み続けた横浜のアパートを去った。母が介護施設に暮らすことになったからだ。
荷物を整理する中に、父の母と一緒になることの許しを得る手紙が見つかった。母の父が娘に持たせたものを、母はずっと押し入れの奥へしまっておいたまま忘れていたのだろう。
その手紙の最後を見ると、父の名前は婿入した姓名になっている。
中国の勤務地で母と知り合い、母と一緒に生活するために離婚したということになる。
どうやらボクは思い違いをしていたようだ。
だが、もうそんなことはどうでもよい。

 その、こんなふうな状況になる前のこと、敗戦後内地に無事もどることができ父が母の実家に挨拶に訪れたことがあった。母はそのときすでに実家に一足先に帰っていた。
 母の実家にしてみれば、長女の夫が都会育ちの医学博士であること、既婚者であることに一歩も二歩も引き下がるような気持ちであったようだ。少し前のことであれば百姓の娘と都会育ちの医学博士の婚姻である、身分違いという言葉が浮かぶ。

 父が挨拶に来ると知って、近所の農家にもお願いして白米を集め、たくさん食べてもらうようにしたという。しかし、父は一口も手を付けずに、帰っていってしまったと母がその時の様子を聞かしてくれた。あんなに苦労して用意したのにと、背を丸くしてうつむく母であった。


(つづく)

2019年7月8日月曜日

テープレコーダー その20


 父は長男ではなかった。両親の面倒を見ることになったのは父が稼ぎ頭だったからだろう。
父に連れられ他県で生活することになった祖父母の気持ちなどボクは考えたことなどなかった。
少なくとも父が亡くなる前までは。
 しかし母は嫁いだ先の両親のことを大切にし気遣うことは当然のこととしても、なにかにつけて心配し、父に舅姑の様子をきいていたことは知っている。
ボク自身は、祖父母が父と一緒に他県にいってしまってから、亡くなるまで会うことはなかった。母もきっとそうだったろうとおもう。

 田舎の新居で、祖父母はどんな気持ちで生活していたのだろう。
今となってはそんなことはどうでもよいのだが、昔氣質の祖父母にとっては再婚したとはいえ母が正妻、新居に一緒に生活し面倒を見てくれている人はそうではない。そうなった経緯もある程度詳しく知っていたはずだ。
 いろいろな葛藤が祖父母にはあったろうとおもう。
ないはずがないではないか。
どこかに母に対して、申し訳ないという気持ちがあったのではないだろうか。
陰で母にだけそっと愚かな息子の行状を謝り、慰めの言葉をかけていたかもしれぬ。
母はそれらを胸底にしまい込み、祖父母からの挨拶など何気ない振る舞いの中に感じることがあったのではないだろうか。母はボクからみれば相当に忍耐強い。
その母が祖母のことをいうのだ、
昔の人は我慢強いっていったってねぇ、おばあさんはほんとに我慢強かったよ、
そんなふうにしてるって、これっぽっちも感じさせやしなかったよ。

 母は母なりに遠くで生活していた舅姑のことを心を寄せ、敬慕していたのだろう。
祖父の葬式で、せめて最後のお別れだけでもさせてほしかった。子どもたちにだって。
祖母の葬式では、まだ背の低かったボクは母に抱かれて、
ほらおばあちゃんにお別れをしないさいと棺までかかえ上げられたことを覚えている。

 今になっても、父の祖父の葬式のやりかたはひどかったとおもう。
父は父なりに何かそうしなければならない理由があったのだろうか。


 父が亡くなったとき、父と一緒に生活している妻、おばさんから祖父母のことをきいた。
横浜にいた頃は、祖父母の評判はおじいさんはあまりよくなく、おばあさんのほうがよかった。
こっちに来てからは、逆でおばあさんのほうがよくなく、おじいさんのほうがましになったとその様子を教えてくれた。
おばあさんは同性として母の苦労をおもんばかることがあったのだろうか。
横浜でも一緒に少し暮らしていたこともある。
男はバカで生活がままなれば現状を受け入れそれで満足してしまう。以前にはあったであろう刺々しい気持ちがだんだんと丸くなっていってしまったのかもしれない。

 父は正月5日に亡くなった。
母はとうとうこちらに出向いて父の死顔をみることもなく、お別れもしなかった。
黒檀のお位牌がふたつあった。ひとつはこちらへ、もう一つは母のところへ。
横浜の実家のアパートに祀られた父の位牌は父の衣類が収められていた小ぶりな衣装ケースの上に置かれた。
その前で両手を合わせたまま長いこと座っている母の姿があった。


(つづく)


2019年7月7日日曜日

テープレコーダー その19


 山間部を往診し、週末に車で帰宅するということを繰り返していた頃、
父は車が故障してはと自ら車のことを知ろうかと思ったのかもしれない。
「自動車工学」というやや専門的な月刊誌を熱心に読んでいた。
何事にものめり込む父である。基礎的な自動車の仕組みは習得したようだった。

 後年生活にやや余裕ができ、帰宅するにも体力的にやや長距離運転が辛くなったのだろう、脚は電車になった、興味の対象は車から写真になった。
写真機に凝った。ニコン、ミノルタ、ゼンザブロニカ、キャノン、ライカ・・・。
東京日本橋近くのカメラ屋さんと親しくなり出入りするようになる。
新機種が出ると、それ以前のものを引き取ってもらい新しいものを手に入れていた。
それを繰り返した。
生前、遺品のつもりだったのだろう、NikonF一式をお前にやるといって、
結局は本当にそれらが父の形見となってしまった。

 ボクは父の散歩や旅行などに同行することが多かったから、一緒によく写真を撮った。
あるとき、ボクの写真を父が褒めた。
お前はポートレート、人物や人の表情をとらえるのがうまいな、いい写真だ。
自分で言うのも何だが、これと同じことを指摘されることが多かった。

 父は自分の写真を撮れとボクに命じることが多くなった。
鎌倉を散歩しても、京都に旅行をしても、横浜の山の手や野毛を散策しても、必ず数枚は撮らせた。
父の顔写真はたくさんあったはずなのに、どうしたことか父の葬式のときの写真はそれらからのものではなかった。夏に蓼科に家族で遊びに行ったときの湖畔のものと、おばさんが教えてくれた。

 幼い頃のボクの写真はほとんどない。撮る暇もカネもなかったのだ。
小学校高学年頃から高校卒業する頃の写真はたくさん残っている。
父がボクを撮影対象にしたからだった。まぁボクは専属モデル。
そして気に入ったものは、カラー写真の大判に伸ばしたり、白黒でパネルにしたりした。

 撮影対象の花をレンズを通して見るたびに、父は何度となく呟いていた。
おかあちゃんみたいに、花の名前をよく知ってたらなぁ・・・。
母の花の知識とそれらにまつわるウンチク、父は幾度となく聞かされていたのだろう。
母の植物や花への造詣の深さに、これから学ぼうという意欲をそがれてしまったのかもしれぬ。


(つづく)


2019年7月6日土曜日

テープレコーダー その18


 父の家へ電話をかけることはまれであったが、どうしてもというときはかけざるを得なかった。
しかし百回近く呼び出しがなっても出ないのである。運良くつながると、むこうのおばさんがでる。
父をお願いしますと告げて、ようやく父と話す次第となる。

 父に所帯を持ったボクはうちで簡単な喜寿の祝をしたいから招待したいとの内容の手紙を書いた。
父にとって孫である息子を見せに横浜の実家や池袋に連れて行って会わせたことはあったが、一度も我が家には来てくれたことがなかった。なのでそちらまで車で送り迎えも全部ボクがするから是非にとの願いをこめて書いた。車の免許もその頃にとったのが、それが理由だった。

 しばらくして、母からお父ちゃんからだよと封書を手渡された。
池袋の中華料理店で会食するボクと姉の孫四人を前に笑顔の父の写真が2葉同封されていた。

『十六日書状落手 何の風の吹きまわし
か 最近の天候異変は いよいよ人間
にも及んできたらしい

 それでも 手書きで 老父に便りを
よこすとはよいことだ 王陽明の知行合一
の説を俟つまでもない 殊勝さをめでて
壱枚同封 目下ピンチの由 酒でも
飲みたまゑ

来年三月の件 何分七十八才という
高齢にもなると何時どうなるやら
わからないので余り先々のことは一切
きめないことにしているけれども まあその頃
元気だったらゆくつもり

以上取り不敢所要のみ
4・11・19 5a.m.  老父より
** どの』

 コクヨ ケー30 20✕10 の薄緑色の原稿用紙に書かれた父の癖字はしっかりとした手跡だった。
1万円札が同封されていた。普段使いではない方の財布に入れ記念に何年間かは使わずにとってあったのだが、いつのまにかなくなっていた。
ボク宛の父からの手紙はこの一通だけである。
父らしい内容である。
読むたびに、読む時間より余程長い時をどこを見るでもなく想いを馳せる。


(つづく)


2019年7月5日金曜日

テープレコーダー その17


 横浜からみれば、父が新しく生活を始めたところは田舎だった。
噂が広がるのは電話より早いとは暮らしてみての都会育ちの父の発見である。

 忙しい父は当然のことだがそうそう横浜の家へ帰ってこれなかった。
また、夫婦同士の、大人同士の、親戚関係同士の複雑な入り込んだ話し合いがあったかもしれない。
それでも、そのまま子どもたちは育ち、父は稼いだ。

 母は、ボクが小学校高学年になる頃だろうか、父にせっかく電話線も引いたことだし、毎日じゃなくてもいいですから、子どもたちに電話をかけてくれませんかとお願いしたという。
いや、もしかしたら逆かもしれない。子どもたちとのためにと父に頼み込んで、電話債券という高額な支払いをして引いたのかもしれない。

 それから一週間に何度か電話がかかって父と話すようになった。兄姉弟が順番にでることもあったし、ひとりだけでてすぐ切ることもあった。しかし母は一度もその電話にでることはなかった。
そのような電話が先だったのか後だったのかはわからぬが、土曜日の夕方には父が帰ってくるようになっていた。

 それまで必要なときや緊急のときは近所の家に借りていたのだが、これはめったにしなかった。
たいていは小銭を握って、タバコ屋兼乾物屋兼駄菓子屋の店先にある赤い電話で用を足していたようだ。ボクが誕生するとき、母は苦しみながらお産婆さんに電話したのはこの赤電なのだ。そして
おばあさんが湯浴みした盥(たらい)で産湯につかった。

 電話が引かれてすぐに、兄に赤電からかけてみろと10円玉を持たされた。
全速力で赤電に飛んでった。受話器をとりあげて10円玉を入れる。

受話器をとったら先に10円玉を入れるんだぞ、いいな。
受話器をとって、10円玉を入れる、うん、これでいい。

 なんか聞き慣れない音が繰り返されて聞こえてくる、ツーツーって。
ダイアルしようとして、小さな番号が書いている丸い穴のどれに指をつっこんでよいかわからない。
6桁の自分ちの電話番号を覚えていなかった。
我ながら情けぬ。
すっ飛んで家にもどったら、兄がチラシの裏に電話番号を殴り書きしたものを持って待っていた。

バカっ 電話かけるのに番号を知らないでかけられるかよ、ほんとにバカだな、ほらこれもってけっ

さっきよりもっとはやくすっとんで赤電に向かって、落ち着いて10円玉を入れようとしたが、あれっ
10円玉がない、やばい、またおにいちゃん怒られる、どうしようどうしよう・・・

 ねえねえ、と声が聞こえる、受話器をグッと握ったまま目だけ向けると、タバコ屋のおばちゃんが、そこそこと、指さしている。
赤電の機械の下のところの硬貨の返却口を見た。
おっ、10円玉だ。お礼も言わずに、その10円玉とって入れる。
お兄ちゃんが書いてくれた番号をみながら指先をつっこみ、ジー、ジー、ジーとダイアルする。
8や9の数字は回してからもとに戻るのに時間がかかりもどかしい。
1や2だったら次々とすぐに次の数字を回せんるんだけどな。
ルルー、ルルー、ルルー、と呼び出し音がして、兄が出た。

ウフフ、ねぇ、ボク誰だかわかる?
バカッ、電話していきなりそんなこと聞くやつがいるか、

これが、はじめての電話だった。


(つづく)


2019年7月4日木曜日

テープレコーダー その16


 母と父の関係はいわゆる内縁関係というものだった。
当時としてはそれほど珍しいことではなかったとおもう。
戸籍上の正式な婚姻関係は結んでないので、母の戸籍上の姓は旧姓のままである。

 敗戦後、中国の戦地から戻りはしたものの、進駐軍に占領され横浜の市街地はバラックだらけだった。父は父の実家である狭い家とも言えぬ家で数家族と同居し医者として働き始め、稼いだ。

 兄が生まれ姉が生まれ、そうこうするうちに県営住宅に当選し入居した。
4階建てコンクリート2DKのいわゆる文化住宅のはしりだった。
水洗便所が目玉だったのか、台所のダシュトシュートというものがそれだったのかはわからぬが、そのダシュトシュートなるもの、今にしておもえば恐ろしい仕組みのものである。
台所の流しのわきの壁に開閉できる窓口があり、そこを開けると1階から4階まで煙突のようになっている空間につながる。エレベーターを連想すればわかりやすい。
 その窓口から生ゴミだろうがなんだろうが分別などお構いなく、投げ込むと1階まで急降下、ゴミ受けに収まるというとんでもないものだった。ゴミ収集車のあと掃除当番がそこを掃除するのだが、季節によっては臭いがひどく、ウジ虫がたくさんわいていた。
 
 父母は戦地で働いたコンビである。そこのアパートで簡単な診療をして稼いだ。
子どもの頃、木製の本棚として使っていたものがもとは薬瓶の棚だったと知って驚いたことがある。

 ボクが生まれる前後のことだったろうか、よくは知らぬ。
父は別の女性と付き合い、また友人の保証人となったがゆえ、その負債のため窮地におちいってしまっていた。
父は自分の両親と一緒に他県に生活を求め、医院を開業し働いた。ボクたちの家族、あらたな家族、父の実家の家族のために。一年で車を乗りつぶすほど往診をしたという。
夕飯のとき父の、今年は地球を一周半したぞという声をよくおぼえている。
新たな医院の患者の大半は険しい山間部の人たちだった。


(つづく)


2019年7月3日水曜日

テープレコーダー その15


 父は旧制高校のときに病気で休学した。
遅れを取り戻そうと、猛勉強をして飛び級で大学に合格した。
医学部である。そして医者になった。
母と一緒になる以前、父は婿に入り、子を数人もうけていたという。
しかし、結婚生活はそう長くは続かず、離婚している。

母は一度だけ、離縁したその方はどんな人だったんですかと父にきいたと言っていた。
情の薄い人だった。
それ以上父は何も言わず、母ももう何も聞かなかったという。


 父とボクは高校の、父にとっては旧制中学の、同窓生である。
高校の同窓会名簿を見ると、父の名前は婿入した家の姓名でのっている。
その同窓会名簿、父と同世代の連絡先をみると「戦死」が多い。
父の従兄弟は職業「医師」、連絡欄はやはり「戦死」と記されていた。

 ボクがこの高校に合格したとき、父は喜んだ。
いつもどおり土曜日の午後父は帰宅し、いつもの定位置の椅子に座り、新しい制服姿のボクを眺めている。
校歌が当時のままであることに驚き、
制服も詰め襟のところの蛇腹も変わってないんだなと
見つめる目は、どこか遠くに投げやられていた。

 父が家に帰るとき、ボクは父の匂いを感じ、母は耳の穴の奥が痒くなった。
ふたりのその第六感が一致すると、まず間違いなく父の車は家の近くまで来ている。
外れたためしはなかった。

 ボクが生まれ育ったこの県営住宅は、それ以前は学校の敷地だった。
父の母校なのである。
何気なく父が教えてくれる。

南側の公園の右を指差し、あそこの凸凹の階段の上のところに、石の柱があるだろ、
あの柱にこわれた鉄の丁番みたいなのが見えるか?
あそこは裏門のあとなんだよ、

 横浜市街から一山越えて通学しているときはこの裏門からがいつものコースだった。
遅刻しそうになるとあそこの角から抜けてきて、裏門から階段を飛び降りるように教室へ急いだという。

 東側の窪地があるだろ、
以前は鶏屋さんになっていて玉子や鶏糞を販売していたところだ。
あそこにはテニスコートがあってさ、一度もやったことはなかったけどな。
それに、雨が降るとすぐ水たまりになってぬかったよ。

父は母校の跡の県営住宅に入居するとはこれっぽちもおもっていなかったろう。
ボクは父のそんな学生時代の思い出話を聞くのが好きだった。


 中学3年のとき進学先を決めるための三者進路相談のときだった。
担任はボクと母にこの高校とは異なるところを勧める。
当時大学紛争が高校へ飛び火してきていて、担任としてはその恐れがなさそうな高校へと勧めたのだろう。
しかしボクは、心に決めているこの高校に進学したいと、有無を言わさず宣言した。
担任は理由をきいた。
父と同じ高校に行きたのです。
母がうなずくのをみて、担任は渋々了承し、面談は終了した。

 中学校からの帰り道、母がうれしそうにボクの後ろを追うようにして話しかける。
お前はいつからそんなにハッキリものをいうようになったんだい、
お母ちゃんはうれしかったよ、
先生、目を丸くしてたねぇ〜。
ボクは少し胸をはった。母の笑顔が嬉しかった。

 その高校への進学は、情けぬことだが、ボクの唯一の父への親孝行だった。


(つづく)


2019年7月2日火曜日

テープレコーダー その14


 ボクが小学校1年生の頃、おじいちゃんは何でこんなに腑抜けたように気力がないんだろうと子ども心に会うたびにおもっていた。
いつも和服姿におしゃれな下駄履で、寒くなってくるとマントをはおり、帽子と杖はセットであった。身なりはいつだって格好良かったのに、祖父に精気は感じられなかった。
祖父が帰るとき、アパートから坂を下り市電の停留所まで見送った。停留所の前にあるタバコ店で祖父は宝くじを買うついでに、小銭をボクにくれた。
亡くなるまで、祖父の洋装とにこやかに笑う顔を見たことはとうとうなかった。

 祖父の妻、つまりボクの祖母が昭和37年夏に亡くなった。
お葬式のとき祖父がお寺で、祖母のお棺の前で声を上げて泣いている姿をよく覚えている。
子どもの目は残酷だ。
歳をとると、声だけはかすれてヒィーヒィー聞こえるのに、涙をながすことはないのだなと棺の中の祖母よりも祖父の泣き顔を観察するように見ていたことを思い出す。

 それから2年後、祖父が亡くなった。
父はなぜか、母もボク達も呼ばずにさっさと葬式を済ませお骨にしてしまった。
それも祖父の菩提寺である横浜で弔った。ボクの家からそお遠からぬところである。
そのことがなおさら母を怒らせた。
母はめったにないことだが、父に激しくそのことを責めたという。
奥歯が痛くなるほど噛み締め、手のひらには爪あとがずっと残っていたと母は悔しそうにいう。

 母はこの祖父をどことなく怯えていたようにおもう。
祖父母そろって、家に来ることは度々あった。
祖父はいらついた様子で、ちゃぶ台をコツコツと爪でたたく。ボクは祖父のその長い爪先から発せられる、人をあわてさせ落ち着かなくさせる音が部屋中に広がってゆくのがみえた。
そのようなとき祖母は気を利かして、ボクをつつきその指で家の目の前にある公園のブランコを指差す。もう上手にのれるようになったかい、おばあちゃんにみせてごらん。
祖母が言い終わるのを待つことなくすボクはすぐに家を飛び出しブランコを立ち漕ぎしたものだった。

しかし、いつもがそうであったわけではない。
コツコツ、コツコツ・・・、
突然、祖父が怒鳴る。母の名前を呼び、
遅いっ、なにやってるんだっ、お茶一つ入れるのにどうしてそんな時間がかかるんだっ。
母は、ハイともヘェともつかぬ声でカエルのようにぺちゃんこになっていた。

だが、そんな祖父でも母は感謝することも多かったのではなかろうか。

 祖母はボクが生まれる前に、家でしばらく一緒に生活したことがあったのだが、銭湯にも行けないときは、盥(たらい)の一つで湯浴みをしていたという。ボクはその盥で産湯につかった。また夕飯とき祖母にはと煮魚をだし、きれいに骨だけにした後、お湯をかけて標本のようにきれいにたべていたねぇ、とその祖母の我慢強さと質朴さに母は心底、偉い人だと何度もボクに聞かしてくれた。


(つづく)


2019年7月1日月曜日

テープレコーダー その13


 ボクの父方の祖父は、明治11(1879)年生まれである。
明治政府は西欧化に邁進していたが、まだまだあちこち江戸時代の名残以上のものが随所に残っていた頃である。明治の世になったとはいえ、江戸時代後期といってもなんらおかしなことはない。

 祖父は当たり前なことだが、江戸時代に生まれ育った人を親に持ち、そして育てられた。
ボクはその祖父に普通に接していたから、考えてみれば祖父を通して江戸時代の空気を吸っていたことになる。機械だけが昔を記録し伝えるわけではない。

 祖父が15歳のとき1894年、日清戦争が始まった。
それから10年後祖父25歳のとき、日露戦争が始まった。
そしてさらに祖父35歳のとき1914年には第一次世界大戦である。
さらにさらに、1923年祖父44歳、関東大震災である。

 祖父は横浜の繁華街で紙工店を経営していたが、一瞬にして全てを失った。
使用人を何人も雇い、住み込みの従業員も数名いたという。
ちなみにボクの本籍はいまだその会社のあったところの住所になっている。

 しかし、祖父は踏ん張った。
並大抵の苦労ではなかったろう。
会社を再興し、以前にも増して立派な紙工店を経営した。
このときの古地図を見ると、商店街の一角に祖父の名前を店名にした紙工店がある。

 ところが1941年祖父62歳のとき第二次世界大戦が始まり、
祖父66歳のときに5月の横浜大空襲で、横浜の繁華街は一夜にして焼け野原になってしまった。
もう祖父に再び立ち上がる気力は残っていなかった。


(つづく)