結婚式で父が高砂を謡ったのはボクたち夫婦への祝言だけではなく、母への感謝もあったのではないか。いや、むしろほとんど気持ちは母へであったのではないか。
あの日あのテープを聴いたとき、母にはすぐにわかった。
わたしにはおとうちゃんに感謝されるようなことは何もしていません。
今この命があるのもおとうちゃんのおかげじゃないですか。
忘れてしまったんですか。
戦争のとき、中国で働いていたとき、わたしが腸チフスにかかって死にそうになったことを。
助けてくれたのはお父ちゃんじゃないですか。
輸血が足りなくって、お父ちゃんがサッと腕をまくって自分の血をわたしにくれたのはおとうちゃんじゃなかったんですか。
わたしがこうしていられるのは、みんなみんなおとうちゃんのおかげなんです。
感謝されるのなんかイヤです。バチがあたるっていうもんですよ。
あの子の結婚式でおとうちゃんのそんな謡いをきいたら、たおれちゃいます・・・。
ボクの結婚式、このとき父、64であった。
大陸の病院で勤務しているとき母は一度、日本へ戻っている。父とのやり取りは葉書か手紙であったろう。海を隔てての手紙、そして母は再び中国の同じ病院に戻る。
母は月見が好きである。まゆ月、いざよい月、たちまち月、ねまち月などを教えてくれたのは母だった。
父は謡いながら、
戦争のときに中国と日本の間で母と手紙で近況を伝えあったこと、
敗戦の引き上げ船では混乱極まる甲板で頭上の月を母と見上げ母の月見講釈をきかされたこと、
波にさらわれるような激しい玄界灘を乗り越え本土のそばの島影が見えたときのうれしかったこと、やっとのことで命からがら博多の港に船が接岸したときの喜び、そして桟橋の本土のコンクリートを踏みしめたときの安心感、まだ膝がフラフラしたまんまだったこと、
謡の言葉は、父にとって母にとってはその物語はそのままふたりのそれまでの命をかけ生きてきた毎日の出来事であったこと、
すべてが重なるのだろう。
記憶のテープは重ねてまかれたまま上下の事柄が影響しあって混濁しているかもしれない。
それでも、再生してみると時間の流れは不自然でもひとつひとつの事柄があったことは事実なのだ。
父はもういない。
母はもうじき一世紀を生きる。
いままた、母に父の高砂をきかせてやりたい。
(おわり)
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