2019年7月12日金曜日

テープレコーダー その24


 父が週末帰ってくるようなったのが当たり前になっていた頃、ボクは中学生くらいになっていたのだろうか。難しい年ごろである。

 父は帰宅すると必ず着物に着替えた。やはり大正3年生まれの昔の人である。
ちなみに下着はパンツではなくふんどしである。母が裁縫は得意なのでお手製であった。
お前もこれにしろと強制されて使用したことがあったが、銭湯で着替えるときに番台からも回りから注目されているような気がして恥ずかしくてやめた。
 父は夏に銭湯から帰るとき、わずか2分位の距離だったためかそのいっちょうふんどしだけで公道を下駄で音を立てながら闊歩していた。勿論ボクは一緒に歩く訳がない。他人のような顔をしても地元なのでバレバレであったのだけれど。

 ひと月に一度、家計費を父が母に渡す儀式があった。
ボクがいようといまいとそのようなかたちで昔からずっと続いていたような儀式だったのだろう。
ボクの存在などまるでないようだった。

 父には父の定位置に椅子があって、そこに座り、一万円札10数枚(とおもわれる)束ねたものを母へヒョイと軽く畳の上に投げるのだ。母は正座していてその束に膝行し頭の上に掲げてははぁ~といってからありがとうございますと述べる。
父はそれをきいて、毎回決まったセリフを言う。
これだけ稼ぐのは大変なんだぞ。
母はまた言う、ありがとうございますぅ〜、と平頭する。

 父は札束をメンコの札を投げるように、投げつけるわけではない。
でも、ボクはその光景が心から嫌いだった。
あのようにお金を渡すなんて、父を軽蔑した。
どんなに大変な思いをして稼いだカネであろうと、渡しかたがあろうというものではないか。
そっとホイッて軽く投げるにしたって、恵んであげるようにお金をそんなふうに投げることはないじゃないか。

 父はボクにお小遣いをくれるときは、決してそんなふうには渡さないのに、
どうしてあんなにみっともなく下劣な渡し方をするんだ。
その光景を思い出すたびにイライラした。
ボクには手渡しか、ちゃぶ台の上に置いて渡す。
お金を稼ぐのは大変なんだぞ、
と必ず言い添える。

ボクにそんなふうにできるんなら、お母ちゃんにもそうしてよ

トウチャンハカネヲハコブキカイダ

こんないたずら遊びをしたこを思い出し、悲しかった。

 が、あの金渡しの儀式、もしかしたらもしかしたら、母の処世術、それもかなり深いところにあり身に染み付き染まり、こすっても削っても落とすことのできない、金太郎飴みたいな処世術、

柳の枝のようにかしこまっていれば、頭の上を通り過ぎてしまうよ、

あれだったのかもしれぬ。
父をおもいっきりヨイショって持ち上げて、ははぁ~て平べったくなる、踏み潰されたカエルみたいに。
母の得意技だよなあれって。


 どんなときにでも、ははぁ〜と平伏していた母であったが、気にくわぬことがなかったわけではない。ボクはそれをたった一度しか目にしてないけど。

 父がボクのうちの近くの商店街で売っている自家製チャーシューを向こうの家族のお土産にしたいから2キロぐらい買ってきてくれと母に命じたことがあった。
 そこは肉の問屋さんで卸もしているし、商店街なのでお肉屋さんとしてもいろいろ販売している地元の人気店だった。店の奥の方では牛がぶら下げられ解体されるのを待っている。
ほんの一瞬であったが紙の端で指先が切れんばかりの鋭利さの母のまなじりをボクは見逃さなかった。

 2キロもまだあるかしらと言いながら出かけようとした母をボクは引き止めた。
母はなんだい一緒に来るのかいといつもの調子と変わらなかったが、目はいつもの形になっていなかった。そんなこと父が気づくわけがない。
ボクが行くよと、母からお金をもらって飛び出した。

ソンナコトオカアチャンニサセテハイケナイ

団地を走り抜け、商店街への坂道も転がるようにしてお店に入った。
母が心配したとおり2キロにたらなかったが少し待てば焼き上がるというので店先で待たしてもらった。

 お店の人はボクのことを知っている。いつも母の買い物に金魚みたいにくっついてるからだ。
そこの椅子に座んなと顎で指しながら、小盆の上にお茶とチャーシューの落としを持ってきてくれた。ボクの大々好物。ココのお店は隣でラーメン屋さんもやっているのだ。

 焼き上がってくると、色艶形においもうたまらなかった。
切るのかい、塊のままかいとおじさんが聞くので、ボクはためらわずそのままでと答えた。
2キロは重たかった。
帰りは急な坂道を登らなければならない。

オカアチャンニイカセナクテヨカッタ

まだ口の中にお駄賃で食べさせてもらったチャーシューの味が残っていた。



(つづく)


0 件のコメント:

コメントを投稿