2019年7月4日木曜日

テープレコーダー その16


 母と父の関係はいわゆる内縁関係というものだった。
当時としてはそれほど珍しいことではなかったとおもう。
戸籍上の正式な婚姻関係は結んでないので、母の戸籍上の姓は旧姓のままである。

 敗戦後、中国の戦地から戻りはしたものの、進駐軍に占領され横浜の市街地はバラックだらけだった。父は父の実家である狭い家とも言えぬ家で数家族と同居し医者として働き始め、稼いだ。

 兄が生まれ姉が生まれ、そうこうするうちに県営住宅に当選し入居した。
4階建てコンクリート2DKのいわゆる文化住宅のはしりだった。
水洗便所が目玉だったのか、台所のダシュトシュートというものがそれだったのかはわからぬが、そのダシュトシュートなるもの、今にしておもえば恐ろしい仕組みのものである。
台所の流しのわきの壁に開閉できる窓口があり、そこを開けると1階から4階まで煙突のようになっている空間につながる。エレベーターを連想すればわかりやすい。
 その窓口から生ゴミだろうがなんだろうが分別などお構いなく、投げ込むと1階まで急降下、ゴミ受けに収まるというとんでもないものだった。ゴミ収集車のあと掃除当番がそこを掃除するのだが、季節によっては臭いがひどく、ウジ虫がたくさんわいていた。
 
 父母は戦地で働いたコンビである。そこのアパートで簡単な診療をして稼いだ。
子どもの頃、木製の本棚として使っていたものがもとは薬瓶の棚だったと知って驚いたことがある。

 ボクが生まれる前後のことだったろうか、よくは知らぬ。
父は別の女性と付き合い、また友人の保証人となったがゆえ、その負債のため窮地におちいってしまっていた。
父は自分の両親と一緒に他県に生活を求め、医院を開業し働いた。ボクたちの家族、あらたな家族、父の実家の家族のために。一年で車を乗りつぶすほど往診をしたという。
夕飯のとき父の、今年は地球を一周半したぞという声をよくおぼえている。
新たな医院の患者の大半は険しい山間部の人たちだった。


(つづく)


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