父が亡くなったとき、すぐそばに父の携帯電話があった。きわめて初期のタイプのものだった。
契約金も異様に高額だったのではなかろうか、きっと死ぬまでその高額な契約のままだったのではといらぬ心配をする。
足腰が弱り階段の上がり下がりもままならぬ身になり、身近なところに携帯を置き、用事を済ませていたのだろう。父は一体誰とこの携帯で話をしたのだろう。
ボクは父の携帯の番号を知らなかった。
子どもたちとは電話ですませていたが、父はよく母を池袋まで呼び寄せていた。
しかし、それもまだ杖を突きながらも自分ひとりで電車に乗ることができるまでだった。
兄と姉は独立して家を出て、残ったボクによく父とはなした内容を、母は切れ切れだが話してくれることがあった。
おとうちゃんたら、わたしにカネはないかって、いうんだよ。
いつも、ありませんって答えてるんだけどね、
次に会うときも、また次に会うときも、同じようにきくんだよ。
父は池袋まででる体力がなくなると、母に電話をかけてくるようになった。
内容は同じである。
カネはないか、いくらいくらでいい、用意できないか。
母の返事は同じである。
父が五十代後半の頃のことだったろうか。
夕食がすみ、ホッとしていたひととき、ボクと父二人だけのときだった。
やっと、おわった。借金がすべておわった、とまるでこれから死んでしまう人が最後の息を吐くようにもらしたことがあった。
いきなりなことだったが、エッと聞き返すことものなく、ボクは父の方を振り返っていた。
ほんとうにそのまま死んでしまいそうな顔つきであったし、肩を落とし背を丸めて畳を見つめていたが、帰宅するといつも着物に着替えていた父のその姿は今までとはどこか違って、重荷を下ろした軽やかな明るさがあった。
そして、ずっとあとになって、父が母に
死んでも死にきれいないと、切羽詰まった事情を話していた、その事柄を母から聞かされることになる。
自分が死ぬまでに少しでもたくさんお金を残しておいてあげたい、かき集めておきたい。
ボケの少し始まっていた父はなおさら必死になっていた。
そんな父の嘆きを聞かされても母はしらを切った。
父は母のタフさを知っている。知ってても母にしかその心のウチをいわずにおれなかったのだろう。
母にカネがないのは嘘だったと知るのは、だいぶ後になってからのことである。
母は子どもが大きくなってからは、ボクは鍵っ子になってしまったが、看護婦として働いた。
しかし、それほどの給料はもらってなかったろう。薄給だったはずだ。
母のへそくり、どんなふうにしてこんな大金を貯めたのか。
謎の一つである。
(つづく)
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