母は小麦粉400グラムを求めた。
当時は味噌でも醤油でも粉でもみなほとんど量り売りだった。
真っ白い粉が入っている茶箱のようなところから小さなスコップで薄茶色の紙袋に、秤の目盛りを見ながら店主は注意深く慣れた手付きで一袋詰め終わった。
母は急ぐ用事などないのに、その紙袋を受け取り、買い物袋へしまいながら通りの向かい側へ渡ろうとしたとき、母はあっと声をあげ、ボクはその声の方へ顔を向けた。
商店街はアーケードがあるので雨降りでも心配ないのだが、母はちょうどアーケードからでたところで、今買ったばかりの小麦粉の紙袋を道路にぶちまけてしまっていた。
その上に雨粒がおそいかかり、みるみるうちにブツブツのあとができ増えていっていた。
母は特に焦るでもなく、周りの目を気にするふうでもなく、落としたから拾うというごく当たり前の行動をしているかのように、すぐさま道路に散らばって少し盛り上がっている小麦粉を両手でかき集めだしていた。雨でもう散らばった端の方はぐじょぐじょになりはじめている。
母はボクの名前を大声で呼んだ。
ほら、おまえも手伝ってよ、はやく、こっちきて、はやく、
ボクはただただ恥ずかしいだけだった。
これじゃぁ チイちゃんとおなじじゃないか、雨の日に水たまりにビスケットが落ちちゃって
グジュグジュのそれを拾って食べてた、アイツ。
雨水が道路に薄く溜まっているところに小麦粉がぶちまけられた様を想像してほしい。
砂場で砂を両手ですくって山を作ったりして遊んでるというわけではないのだ。
ボクがためらっている間も、母はせっせとかき集めては薄茶色の紙袋へドロドロになった小麦粉を戻していた。
道路にうずくまってせわしく両手でかき集めている姿はカエルのようだった。
アタマをそんなに低くしたって、雨はとおりすぎてなんかいかないよ、おかあちゃん。
母の上へ傘をかざすくらいのことしかできなかった。
この粉は結局、餃子の皮になった。
母はなんのためらいもなくドロドロになったところやまだ粉の状態をなんとか保っているそれらを
ボールのなかでこね始め、一つの大きな塊にした。
この粉が道路にぶちまけられたものをかき集めたものであることは、母とボクしか知らなかった。
あっ、もうひとりいた。お店の店主が呆れた顔してこっちを見てたっけな。
(つづく)
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