敗戦後母と父は同じ船で引き上げてきた。船内はメチャクチャな状況だったという。
入港先は博多であった。
中国の大陸の港を出航するとき、乗船予定の船に父母の乗った列車が地元の賊に襲われ、間に合わなかった。帰国するには最小限の荷物しか持ち込むことは許されなかった。
それでも父母が医療関係者であったことからかもしれないが帰国に際して優遇されたことだろうとは想像がつく。
現地で残り少ない身につけているものを売ってさらに身軽により裸一貫になった。
数週間後運良く次の引き上げ船に紛れ込むことができた。
甲板まで満員の船は、ひどい揺れで波にさらわれた人もいたという。
誰しもが無事帰国できるよう祈るだけだったよと、母は船を見るたびに呟いていた。
最初に乗る予定だった引き上げ船は湾の出口付近で機雷に触れ、沈没してしまったと知ったのは博多についてからだった。
母の遅刻グセについて父がいちども咎めたことがないことが小さいときから不思議だった。
母の遅刻により、父自身が不名誉をこうむったり、不利益を生じたとしても、母が責められても当然だとおもっても父は何も言わぬ。表情も変えぬ。そのあとの母との対応もいつもどおり。
父が母に対して唯一偉そうな振る舞いをする(もしかしたらできる)のは生活費の「金渡の儀」だけである。
そして、子ども心にも許せぬことは、母は自分の遅刻をゴメンナサイの一言もいわない。
しかし記憶の断片を集め何度も再生を繰り返してみると、もしかしたら・・・、そうだったのかもしれぬと見通しよく霧が晴れるほどではないが、手元足元くらいは見えてきそうな気がするのだ。
(つづく)
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