2019年7月2日火曜日

テープレコーダー その14


 ボクが小学校1年生の頃、おじいちゃんは何でこんなに腑抜けたように気力がないんだろうと子ども心に会うたびにおもっていた。
いつも和服姿におしゃれな下駄履で、寒くなってくるとマントをはおり、帽子と杖はセットであった。身なりはいつだって格好良かったのに、祖父に精気は感じられなかった。
祖父が帰るとき、アパートから坂を下り市電の停留所まで見送った。停留所の前にあるタバコ店で祖父は宝くじを買うついでに、小銭をボクにくれた。
亡くなるまで、祖父の洋装とにこやかに笑う顔を見たことはとうとうなかった。

 祖父の妻、つまりボクの祖母が昭和37年夏に亡くなった。
お葬式のとき祖父がお寺で、祖母のお棺の前で声を上げて泣いている姿をよく覚えている。
子どもの目は残酷だ。
歳をとると、声だけはかすれてヒィーヒィー聞こえるのに、涙をながすことはないのだなと棺の中の祖母よりも祖父の泣き顔を観察するように見ていたことを思い出す。

 それから2年後、祖父が亡くなった。
父はなぜか、母もボク達も呼ばずにさっさと葬式を済ませお骨にしてしまった。
それも祖父の菩提寺である横浜で弔った。ボクの家からそお遠からぬところである。
そのことがなおさら母を怒らせた。
母はめったにないことだが、父に激しくそのことを責めたという。
奥歯が痛くなるほど噛み締め、手のひらには爪あとがずっと残っていたと母は悔しそうにいう。

 母はこの祖父をどことなく怯えていたようにおもう。
祖父母そろって、家に来ることは度々あった。
祖父はいらついた様子で、ちゃぶ台をコツコツと爪でたたく。ボクは祖父のその長い爪先から発せられる、人をあわてさせ落ち着かなくさせる音が部屋中に広がってゆくのがみえた。
そのようなとき祖母は気を利かして、ボクをつつきその指で家の目の前にある公園のブランコを指差す。もう上手にのれるようになったかい、おばあちゃんにみせてごらん。
祖母が言い終わるのを待つことなくすボクはすぐに家を飛び出しブランコを立ち漕ぎしたものだった。

しかし、いつもがそうであったわけではない。
コツコツ、コツコツ・・・、
突然、祖父が怒鳴る。母の名前を呼び、
遅いっ、なにやってるんだっ、お茶一つ入れるのにどうしてそんな時間がかかるんだっ。
母は、ハイともヘェともつかぬ声でカエルのようにぺちゃんこになっていた。

だが、そんな祖父でも母は感謝することも多かったのではなかろうか。

 祖母はボクが生まれる前に、家でしばらく一緒に生活したことがあったのだが、銭湯にも行けないときは、盥(たらい)の一つで湯浴みをしていたという。ボクはその盥で産湯につかった。また夕飯とき祖母にはと煮魚をだし、きれいに骨だけにした後、お湯をかけて標本のようにきれいにたべていたねぇ、とその祖母の我慢強さと質朴さに母は心底、偉い人だと何度もボクに聞かしてくれた。


(つづく)


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