山間部を往診し、週末に車で帰宅するということを繰り返していた頃、
父は車が故障してはと自ら車のことを知ろうかと思ったのかもしれない。
「自動車工学」というやや専門的な月刊誌を熱心に読んでいた。
何事にものめり込む父である。基礎的な自動車の仕組みは習得したようだった。
後年生活にやや余裕ができ、帰宅するにも体力的にやや長距離運転が辛くなったのだろう、脚は電車になった、興味の対象は車から写真になった。
写真機に凝った。ニコン、ミノルタ、ゼンザブロニカ、キャノン、ライカ・・・。
東京日本橋近くのカメラ屋さんと親しくなり出入りするようになる。
新機種が出ると、それ以前のものを引き取ってもらい新しいものを手に入れていた。
それを繰り返した。
生前、遺品のつもりだったのだろう、NikonF一式をお前にやるといって、
結局は本当にそれらが父の形見となってしまった。
ボクは父の散歩や旅行などに同行することが多かったから、一緒によく写真を撮った。
あるとき、ボクの写真を父が褒めた。
お前はポートレート、人物や人の表情をとらえるのがうまいな、いい写真だ。
自分で言うのも何だが、これと同じことを指摘されることが多かった。
父は自分の写真を撮れとボクに命じることが多くなった。
鎌倉を散歩しても、京都に旅行をしても、横浜の山の手や野毛を散策しても、必ず数枚は撮らせた。
父の顔写真はたくさんあったはずなのに、どうしたことか父の葬式のときの写真はそれらからのものではなかった。夏に蓼科に家族で遊びに行ったときの湖畔のものと、おばさんが教えてくれた。
幼い頃のボクの写真はほとんどない。撮る暇もカネもなかったのだ。
小学校高学年頃から高校卒業する頃の写真はたくさん残っている。
父がボクを撮影対象にしたからだった。まぁボクは専属モデル。
そして気に入ったものは、カラー写真の大判に伸ばしたり、白黒でパネルにしたりした。
撮影対象の花をレンズを通して見るたびに、父は何度となく呟いていた。
おかあちゃんみたいに、花の名前をよく知ってたらなぁ・・・。
母の花の知識とそれらにまつわるウンチク、父は幾度となく聞かされていたのだろう。
母の植物や花への造詣の深さに、これから学ぼうという意欲をそがれてしまったのかもしれぬ。
(つづく)
0 件のコメント:
コメントを投稿