2019年7月8日月曜日

テープレコーダー その20


 父は長男ではなかった。両親の面倒を見ることになったのは父が稼ぎ頭だったからだろう。
父に連れられ他県で生活することになった祖父母の気持ちなどボクは考えたことなどなかった。
少なくとも父が亡くなる前までは。
 しかし母は嫁いだ先の両親のことを大切にし気遣うことは当然のこととしても、なにかにつけて心配し、父に舅姑の様子をきいていたことは知っている。
ボク自身は、祖父母が父と一緒に他県にいってしまってから、亡くなるまで会うことはなかった。母もきっとそうだったろうとおもう。

 田舎の新居で、祖父母はどんな気持ちで生活していたのだろう。
今となってはそんなことはどうでもよいのだが、昔氣質の祖父母にとっては再婚したとはいえ母が正妻、新居に一緒に生活し面倒を見てくれている人はそうではない。そうなった経緯もある程度詳しく知っていたはずだ。
 いろいろな葛藤が祖父母にはあったろうとおもう。
ないはずがないではないか。
どこかに母に対して、申し訳ないという気持ちがあったのではないだろうか。
陰で母にだけそっと愚かな息子の行状を謝り、慰めの言葉をかけていたかもしれぬ。
母はそれらを胸底にしまい込み、祖父母からの挨拶など何気ない振る舞いの中に感じることがあったのではないだろうか。母はボクからみれば相当に忍耐強い。
その母が祖母のことをいうのだ、
昔の人は我慢強いっていったってねぇ、おばあさんはほんとに我慢強かったよ、
そんなふうにしてるって、これっぽっちも感じさせやしなかったよ。

 母は母なりに遠くで生活していた舅姑のことを心を寄せ、敬慕していたのだろう。
祖父の葬式で、せめて最後のお別れだけでもさせてほしかった。子どもたちにだって。
祖母の葬式では、まだ背の低かったボクは母に抱かれて、
ほらおばあちゃんにお別れをしないさいと棺までかかえ上げられたことを覚えている。

 今になっても、父の祖父の葬式のやりかたはひどかったとおもう。
父は父なりに何かそうしなければならない理由があったのだろうか。


 父が亡くなったとき、父と一緒に生活している妻、おばさんから祖父母のことをきいた。
横浜にいた頃は、祖父母の評判はおじいさんはあまりよくなく、おばあさんのほうがよかった。
こっちに来てからは、逆でおばあさんのほうがよくなく、おじいさんのほうがましになったとその様子を教えてくれた。
おばあさんは同性として母の苦労をおもんばかることがあったのだろうか。
横浜でも一緒に少し暮らしていたこともある。
男はバカで生活がままなれば現状を受け入れそれで満足してしまう。以前にはあったであろう刺々しい気持ちがだんだんと丸くなっていってしまったのかもしれない。

 父は正月5日に亡くなった。
母はとうとうこちらに出向いて父の死顔をみることもなく、お別れもしなかった。
黒檀のお位牌がふたつあった。ひとつはこちらへ、もう一つは母のところへ。
横浜の実家のアパートに祀られた父の位牌は父の衣類が収められていた小ぶりな衣装ケースの上に置かれた。
その前で両手を合わせたまま長いこと座っている母の姿があった。


(つづく)


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