2019年7月13日土曜日

テープレコーダー その25


 母と遅刻についておもいめぐらす。
ボクの高校受験のとき、少しばかり成績がよかったため、担任は東京の進学校をすすめた。
受験日のその日、母とボクは寝坊して、受験会場に遅刻した。
もちろん落ちた。

 母は職業婦人で看護婦であり戦地で働いていたことはすでに述べた。
軍隊も同然のような職場環境であったと言うから、時間厳守は鉄則であったろう。
それが、日常生活となるととたんに激変する。

 記憶の再生ボタンを押す。
そうすると父が絡むと病的に遅刻することにおもいあたった。さらに遅れたことを詫びない。
母の深層心理のどこかに、父をチリチリ焼き焦がすかのように、なにか鬱屈した情動があるやもしれぬ。

 母はゴキブリをピンセットで捕まえ、ガスコンロの火を極大にして炙り殺すという癖がある。
そのピンセットは脱脂綿や消毒ガーゼをつまんでけが人を手当をするときに使用するものと同じ種類のものである。ちなみに我が家は医療一家なのでハサミをクーパーと呼ぶ。

 チリチリと音を出して燃え、ゴキブリは断末魔の悲鳴をあげ、焦げ臭い独特の匂いを周囲にばらまく。ゴキブリの長い触覚の先は線香花火のようだった。
あのときの母の陶然とした横顔、子どもでも見てはいけないモノを見てしまったという困惑以上のもの、母のそんな顔を見ているボクは一体どんな表情をしていたのだろう。
母の瞳にユラユラ赤い炎がうつり唇はパクパク閉じたり開いたりして半開きになり、こめかみはピクピクしていた。
コンロの炎の大きさは極大のまま赤や青の色が混じって揺らぎ続けるのだが、母の瞳の中は炎が大きく振れ動き、ゴキブリが焼き上がるときに、その炎の大きさは瞳からはみ出し、眉毛を焦がしていた。
油虫というだけあって、命の炎が燃え去る直前の油のひとしずくがコンロにたれて燃え盛った。


 母はあの戦地で切り落とさねばならなかった片脚はあとで焼かなければならなかったのだろうか。
戦地で亡くなった兵隊さんを火葬にすることがあったのだろうか。
亡骸が骨になるまでずっと手を合わせながらたたずんでいたのだろうか。
ゴキブリが燃えるときの炎の中に、戦地でのたくさんの悲しい出来事をみてしまうのだろうか。

 儀式が終了するといつも母は大きくはぁ~~〜と息をはいた。
焼き殺しているあいだは息を止めていたのだ。
ピンセットはいつも必ずガスコンロのすぐ脇の定位置に置かれていた。

おかあちゃん、ゴキブリを焼き殺すピンセットがそんなにそばにあるとフエイセイじゃん、
きたないよ。

おまえ何を言っておいでだいっ、ガスで焼いて熱消毒しているんだから、
汚いわけがないだろっ。

子ども心にも何か違うんじゃないかとおもった。
言い返せなかったボクは悔しかった。


(つづく)

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