2019年7月17日水曜日

テープレコーダー その29


 母は餃子作りを中国の現地の人から教わった。
わたしの餃子は本場のものよ、母の口癖で自慢の餃子だった。
ボクも小さい頃から教わったので、皮だって具だってひと通り全部作ることができる。

戦争のときだからさ、いろんな物資がないんだよ、
小麦粉だって手に入れるのは中国人ならなおさら大変さ、
だからあの人達はさ、自分たちも勿論だけどね、子どもたちも総動員で出動するのさ。
小麦を運んで来るトラックがお店や倉庫に入れるときに必ず、どれかの袋が破けてそのまわりが粉だらけになるのさ、
そうすると、それめがけて、それこそアリのように群がって、かき集めるのさ。
お天気なんて関係ない、とにかくわぁ~ってきてさぁ~っていなくなる。
あとはきれいなもんよ。
トラックじゃなくても、貨車で小麦粉が運ばれてきたときもそう、
トラックのときよりもっともっとすごいことになってさ。

 それでね、餃子の作り方を教わった中国人の家でね、作った餃子をいただくでしょ、
そうするとね、むこうは水餃子なんだけど、口の中でなんかジャリジャリするのね、
砂が混じっちゃってるんだね、
でも、茹でてあるから大丈夫、不衛生じゃないよ、ウチで作ったものよりももっとおいしいの。

 母がかきあつめた道路にぶちまけられた粉でつくった水餃子は、アスファルトの道路で雨のせいもあったのだろうか、砂粒が混じっているということもなく、ツルッんとなめらかな舌触りの皮にできあがっていた。


 母は現地の中国人から餃子の作り方を教わった。中国語で意思の疎通ができた。
病院でも母が現地の中国人の通訳をしていたようだ。
中国人の患者さんが来ると、お母ちゃんはは引っ張りだこだったよ、と父が教えてくれたことがある。
 正式な通訳もいたらしいのだが、母は現地の人がしゃべっている口語的でそして学歴と縁遠かった人々から吸収したようだった。

 母の中国語の実力を見せつけられたのはこんなことがあったからだった。
実家に帰っているとき、ピンポンと来客があり、母が応対に出た。
母は一方的に何かを話している。しかしよく聞き取れない。
注意して耳を傾けてみると、中国語だった。
適当にブロークンにそれっぽくしゃべっているのではと想像した。
その相手はと見ると、丁寧にボクに挨拶したのだが、すぐに中国人と気付き、
新聞の集金に来たのだということがわかった。
集金を任されているのだから、お店からは随分と信頼されているだろう。

 母が以前話してくれていた日本に留学して大学に通っている中国人がこの人だった。
彼は早口に自己紹介をした。しっかりした日本語だった。

わたしの国のおばあちゃんみたいな話し方で、すこし古い中国語です。
こちらに集金に来るたびにとてもなつかしくて、国の母におばあさんと同じ言葉を話す
日本のおばあちゃんがいるというと、すごくおどろいていました。

 母が中国語で話し、彼が日本語で答えるというへんてこりんな会話を二人は続けた。


(つづく)


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