2018年3月31日土曜日

久々にけやきの仕入れ

 二〇一八年三月三〇日 昨日の夏みたいな天気とはうって変わって、
北風が強く、道路の花粉が砂埃のように巻き上げられている。
黄砂もまじっているのかも。
洗濯物を干してある家がいっぱいあるけど、花粉まみれだぞぉー。

 今年始めて、いつものお店にいったら、けやきが何枚もあった。
靴べらによさそうなのがあったので、購入。
お店で、持っていった型で木取りして、即カット。



 バンドソーの刃を取り替えたばかりの新品ということで、
こんなに断面がキレイに切れるものなのだと感心しました。

 他に目のつまった柾目の板もあったので購入。
心部分は落としてもらった。

 家に持ち帰って厚さ測ったら、
あれ、長さは1300位、厚さが元が43mm末が37、ずいぶん差がある。
まっ、いいか。


2018年3月30日金曜日

「逝きし世の面影」渡辺京二著 を読んだ

 第一章 ある文明の幻影 の末尾で、次のように述べている。
「私の意図するのは、古きよき日本の愛惜でもなければ、それへの追慕でもない。私の意図はただ、ひとつの滅んだ文明の諸相を追体験することにある。外国人のあるいは感激や錯覚で歪んでいるかもしれぬ記録を通じてこそ、古い日本の文明の奇妙な特性がいきいきと浮かんで来るのだと私はいいたい。そしてさらに、われわれの近代の意味は、そのような文明の実態とその解体の実相をつかむことなしには、けっして解き明かせないだろうといいたい。」

 さらに、あとがきで
「私はたしかに、古き日本が夢のように美しい国だという外国人の言葉を紹介した。そして、それが今ばやりのオリエンタリズム云々といった杜撰な意匠によって、闇雲に否認されるべきではないということも説いた。だがその際の私の関心は自分の「祖国」を誇ることはなかった。私は現代を相対化するためのひとつの参照枠を提出したかったので、古き日本とはその参照枠のひとつにすぎなかった。」

 「逝きし世の面影」に書ききれなかった内容をさらに、其後数冊の本で出版しているけど、
それらの著書の中でも、同一の趣旨のことを強調されている。

 要するに日本ヨイショの流れとは、別流なのです。

 わたしが此の本を読んでいて、何が一番楽しかったか。
渡辺さんの、こういった意図をふまえての、
長い長い物語を読む(聴く)ことができる、好奇心が満たされていくことを感じることができる幸せでありました。

 氏の言われるように、江戸後期から明治初めの文明を破壊したのは他ならぬ日本人だったわけだけど、滅ぼされた文明の残照や余熱はまだまだ現在でも見つけることができるんだな。

 私自身の四人の祖父祖母の思い出の中にもたくさんそれらがあり、現実感としてそれらを感じることができる。
だって爺さん婆さんたち、生まれは明治、当然育てられた両親や爺様婆様たちは江戸生まれで、
失った文明を身にまとっていたのだから、其の名残が爺さん婆さんたちに残らないわけがない。

 父親にしたって、大正3年生まれ。いろいろな所作や言葉使いなど
其のときには「古めかしい」とうつったものが、失った文明の残照だった気がする。

 明治にしたって、江戸にしたって
数代前のちょっと前のことなんだというのが、この頃の気持ちだな。
まぁその間に、ずいぶんいろいろなことがあったもんだとはおもうけど。


2018年3月29日木曜日

司馬「江漢西遊日記」の旅 その14

 「天明8年4月23日 ・・・従者には、宿に居たる弟子なり。歳二十位の者にて、松前の産まれなり。・・・」

 この従者、2ヶ月もたたないうちに暇を出された。
頭注にこうある。
「天明8年6月5日 此駿府に久しく滞留せし故、江戸より従者に連れ来りし松前の者、不埒の事あり。故に爰にて暇を遺す。」

 その代わりが誰かというと、
「天明8年6月21日 庄兵衛倅弁喜、歳十六、これを連れ、此者長崎まで至りて江戸迄来る。」
と、やはり頭注に記している。

 この弁喜、6月21日に藤枝で宿泊した小西庄兵衛の倅。
「庄兵衛内は甚だキタナキ事、たたみ、のみの幾らも飛出、夜中一向にねられず。誠に蚤に食われける。」
という家であった。

「天明8年6月26日 小西庄兵衛がせがれ十六歳になる者、爰よりボクとしてつれる。」

 そしてこの弁喜がんばる。

「天明9年4月13日 僕弁喜は駿府藤枝の者にて、去年歳十六にて予が後に就、長崎より平戸、生月嶋に三十日留つて鯨漁を見、其余京・大阪、今亦江都の繁昌を見る。名馬の尻に居る蝿の如し歟。」
と江漢先生に江戸到着の日の日記四行のうち半分の二行も書かせている。

 江漢なりのねぎらいの辞であった。

2018年3月28日水曜日

司馬「江漢西遊日記」の旅 その13

 その7で箱根の関所のことをちょっとふれたが、
なんのことはない、通ってなかったんだ。
帰りも、中山道を使っているので、箱根関所は通ってない。

 小田原から熱海へゆき、そこでで2週間も温泉湯治にひたりきった。
で、今で言う熱海街道を横断し、三嶋の番所へとでた。

 江漢さんの道中は不思議といえば不思議なんです。
イ 箱根の関所を避けた?
ロ 掛川宿から秋葉路で北上し鳳来寺から東海道の赤坂宿に合流。なんで険しい山路を選んだのか?
ハ 帰路、往路と異なるところを見聞したかったのだろうけど、中山道を急いでいる。
  でもこれは、ホームシックで一刻も早く家に帰りたかったからなんだな。

 でも、そのおかげで日記がおもしろいんでよかったんだけどな。


2018年3月27日火曜日

2018年4月1日種子法廃止

 全く地味で脚光すらあびない事柄になっていますが、
将来の日本国だけではなく人類の存亡をかけている内容であります。
昨年、4月に閣議決定でひっそり決まりました。

 主食である米もありますが、大豆・大麦など今後どうなるか
大変に危惧するなんてのんきに構えてなどいられない問題なのです。
しかし、企業はこれを待ってたとばかり一斉にことに取り組むでしょう。

 庶民にそれらを防ぐてだてはなさそうなのが、これまた落ち込む。
落ち込み困っているあいだに、躰がむしばまれて、死んでいきます。

 ジジイのわたしは、10年ほど前に地元で種子・種苗のお店を経営している方の研修を受け
目を見開かされました。F1種のことについてなどそれから機会あるごとに学んできたのです。

 モンサントなどという悪辣、巨大企業があります。
除草剤がいちばん身近な商品でしょう。
近所のホームセンターでは山積みにして安売りしています。
100均で見たときには、もうこれで日本は終わったと確信しました。

 アメリカや欧州は自国で販売できないようにしてきているので、
日本やアジア発展途上国に向けてその分、販売促進しています。

 米国の圧力に負けて、此の法律が廃止になったはずですが、
なんとかしたくとも、解決策が見つからぬ。
じれったいな。

 孫の成長を守るためにも、これからは口に入れるもの一つ一つ確認しようとしても
その表示がこれまた、嘘八百のザル法で書かれているから、どうしようもない。
なんとかならぬか。


2018年3月26日月曜日

CGC あずきモナカ 再び

 相変わらず食ってます。
あずきと抹茶が半々位の割合だったけど、最近はあずきが優勢であります。

 以前投稿したのは2年前くらいか。
あのときと比べて変化がある。

1.あずきがむらなく均一きれいに入っている(ような気がする)。
2.そのためかどうかは不確かだが、アズキの量が増えている(感じがする)。
どちらも好印象。

 そこで、前回もお願いしたかもしれないが、
年に何回か、お徳用期間を実施して欲しい。
「アズキの30%増量」お徳用期間です。
何%でもいいんだけど、10%は却下、これじゃお徳用っていう感じがしない。

 今でも定番で売れているけど、お徳用期間の文字を見たら、
さらに手が伸びるんじゃないかな。
期待してます。


2018年3月25日日曜日

LIXILビバとナイガイの共同企画 靴下の穴

 古くて新しい定番の問題です。
ジジイの足はでかい。
29cmあるので、靴サイズはメーカーにより異なるんだけど、29や29.5、場合により30です。
靴も悩みのタネなんだけど、靴下もなんだな。
29cmのサイズはやはり限られる。

 この10年位はいているのは、ビバホームの三足800円程のもの。
サイズがまぁなんとかはけて、安いからなんだけど、他のメーカーのものを買わないのは
単純にサイズがないから。

 丈夫さを売りにしているらしいんだけど、お見苦しいけどかかとが必ず穴があく。
もちろん、洗濯するからローテンションで順番にはく。
正確に時系列で穴が大きくなる。





 かかとが(馬鹿)丸出しになると、雑巾代わりになって、お役目終了。
最近はそのサイクルがはやくなっているような気がする。
2ヶ月もってないんじゃないか。

 ビバホームさん、3足千円(こえて)いいから、此のシリーズで、
かかと補強版を販売して下さい。
余生をかかとの穴の心配なく過ごしたい。
是非お願いします。


2018年3月24日土曜日

支えるということ

 庭のエニシダが、これから咲こうというのに枯れてきてしまっている。
雪のたびに、そして4年前の大雪で枝はすっかり地べたをはうようになった。
それでも、5月には鮮やかな黄色い花がたくさん咲き満開となり楽しませてくれていた。

 ところが、今年の2月の雪で、枝が折れてしまった。
ポッキリではないが、樹皮から幹にヒビが入ってしまっている。

 これ以上地べたにしおれないように、支えたのがまずかった。
樹木を適切に支える方法があったのだろうが、素人判断でいいかげんだったようだ。
もちろん良かれとおもって支えたのだがこれが原因になろうとは。

 ふとおもった。
生活してゆく中で、生きてゆく中で、
支え支えられ、お互い様で生きてゆく。

 良かれとおもって支えたことが、かえってダメにしてしまったことがあったのではなかろうか。
支えられた方も、当面は良いかもしれないが、しばらくするとそれが立ち直ることのできない原因になっていたりはしないだろうか。

 そんなこと、今までそれほど考えなかった。
のうてんきな自分が恥ずかしい。


2018年3月23日金曜日

「近代の呪い」渡辺京二著 を読んだ

 『第三話 フランス革命再考』がワイパー全開の効果に匹敵する。
すっかり眺めが良くなり、見通しもきくようになりました。



 周りのせいにしたくはないんだけど、でもするんだけど、
江戸時代のこととか、フランス革命のこととか、
子どもの頃から親しんできた漫画・小説・書籍・テレビ番組・映画などなどの
影響の大きさをつくづく感じてしまう。

 フランス革命については、1970年台から再検討されはじめたらしいけど、
その頃、フランスについてはあれこれ本で読んだり、現地で遊んでいたりした。
だけど、革命の再検討は知らなかったな。
やはり、自分の不勉強のせいだろう。

 ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』の画の影響もでかい。
あれは結局、あちこちでおきた民衆の暴動のひとつなんだな。
暴動が起きてから50年程たってから描いてるんだけど、
画家自身も結局何が起きたかなんて、よくわからなかったんだな。

 大佛次郎の話もおもしろかったけど、
やはり、第三話が一番考えさせられました。



2018年3月22日木曜日

「黒船前夜」渡辺京二 を読んだ

 ジジイのわたしにはフランス人の姪がいる。
彼女が子どもの頃、寝るときにお話をよくせがまれた。
フランス語でこんなふうに言う。
「トントンコーサク、(ヒ)イストワール シルトゥプレ」

 この「(ヒ)イストワール」は英語の history である。
日本語で歴史と訳されるが、
こんなに小さな子どもが日常用語の中でも毎晩使うような単語なのだ。
日本のこどもたちが寝る前にお話をおねだりするとき。
「なんかお話して」の「お話」が(ヒ)イストワールになる。

 其の頃のわたしの持ちネタは、宇宙探検物語だった。
シュウシュウと蒸気の煙をたてながら、発射間近の宇宙船に乗るところから始まる。
見送りの人たちと抱擁を交わし、遠くの人たちには手をおおきく振りながら
宇宙船に乗り込むところまでが、たいてい第一夜である。

 第二夜はいよいよロケットに点火し、ドッドッドッドッゴーーッとすさまじ轟音とともに
ロケットが発射し上昇してゆく場面となる。
そのころの宇宙船はまだ初期のものだったので宇宙船内の振動もすごい。
其の振動のすごさを伝えるのもなかなか話のテクニックとしては難しい。

 とまぁ、こんなふうにして話はあちこちの星を探検したり、ワープできる宇宙船になったり、
ブラックホールに吸い込まれたり、パラレルワールドに迷い込んで別の宇宙に迷い込んだりと
いくらでも話は続く。

 自分でも語りに酔いしれ、
ハッとして姪っ子の方を見ると、目はぱっちりランランと光り輝いているではないか。
次から次へと話をねだる目になっている。
まずい。
これでは寝ない。

 其の姪は今ではもう四十に近い歳になっている。
フランスに住まっているが、そのときの話があまりに面白く何から何まで事細かなことまで
今でも覚えているという。

 姪は結婚し赤ちゃんが産まれた。
彼女の息子が小さかったころ、「マモン イストワール シルトゥプレ」と、
やはりおねだりされて、宇宙探検物語が定番だったらしい。
そしてやはり息子は其の話をしだすと、眠りにつくどころか
パッチリランランに目が輝いていたという。

 「黒船前夜」と関係ない話になってしまった。
でも関係なくはない。

 渡辺京二さん語るところの「歴史」はこの「お話」なのだ。
「歴史」という語が「科学」になっていないところが、次へ次へと読ませる原動力となっている。
囲炉裏の廻りに車座になり、其の人の語りに耳を傾ける。
目はキラキラ、パッチリ見開きランランと輝き、話に引き込まれ、次を次をとおねだりする。

「第十章 ゴローヴニンの幽囚」リコルドと高田屋嘉兵衛の厚誼に心打たれた。



2018年3月21日水曜日

司馬「江漢西遊日記」の旅 その12

 京都観光でアチラコチラ行っている。
とにかく、歩く歩く歩く・・・健脚だな。

 金閣寺のところで、
「朝より西北の方へ行く。北野天神。桜花ざかり。亦金閣寺寺へ行く。十人にて銀二匁出し見物す。柱の隅みを見るに、金箔少し残りたる有。」
とある。

 10人で銀2匁を出している。
入園料をこの時からとっていたんだな。
なんか意外。

 京都長い滞在の間、梅が咲き桃の花になり桜が盛りの時期、
どこも賑やかな様子よく伝わってくる。
見事なリポーターだな。


2018年3月20日火曜日

司馬「江漢西遊日記」の旅 その11

 その9にも投稿してあるけど、揚屋の雰囲気のつづき。

 江漢先生、京都近辺は「能き処」と気に入り、ほぼ一ヶ月滞在した。
京都は「京住せんと云えば」と言って京都人を喜ばしたり、
「京地は婦人よし」なんて、ウフフとにやけたり、
江戸に戻りしばらくしてから、実際に京都に約半年住んでしまう。

 天明9年3月11日外は大雨だと云うのに、鯉、ふな、うなぎを肴に酒を呑みに出かけている。
そしてその足で、
「茶屋の女房を連れて嶋原へ行く。揚屋偶徳と云に参る。書院坐しき、燭台数十如昼照らす。女房出、中居八九人、妓四人、盲人壱人、夫より大夫をかりて見る。三十人、其内玉の井と云を揚げる。夜の八つ時比に帰る。」

 格式の高い、偶徳と云う揚屋で夜中の2時比まで楽しんだ。
よほど楽しかったのか、二枚の図を描いている。

 二枚とも、試しにAIで白黒写真をカラーにするというHPで試してみた。
嶋原大夫、何となく着物に薄〜く色づいているような気がする。



 中居・客、後ろ向きのおっさんの左耳元からうなじがうすく肌色になっている。
まだ酔っ払ってないのか、背筋がシャンとしているな。



 暇なので、今度塗り絵してみよっと。




2018年3月19日月曜日

司馬「江漢西遊日記」の旅 その10

 此の旅日記、結局購入してしまった。



 江漢は古文調の文体ではなく、普段民衆が使っている言葉に近い調子で、いわばくだけた感じでこの日記を書いている。
でもなんだか逆で、現在の平成に生きる人が、少し古い文体で毎日の出来事を書き連ねているっていう感じのほうが、ピッタリだな。
其の結果、毎日の一行一行に生活感があふれるている。

 東洋文庫は原文一字一句そのままに活字にしてくれているところもよい。
古文書がそばにあれば、そのままテキスト解読の勉強ができるしな。

 購入した本の帯に、800巻突破!とあるけど、どういうことなんでしょう。
まぁ読みたい本が手元にあるからいいんですけど。


2018年3月18日日曜日

ぼたもちと草餅

 ぼたもち6パックと、草餅1パック、3500円也。



 昨日ぼたもちを注文して、今朝9時取りに行ったら、他にもおいしそうなものがたくさんあった。
誘惑に負けて草餅追加。
まだまだ煮物などあったが我慢我慢・・・、
なんだけど昨日注文しに行った時、ポテトサラダがあって買ってしまったしな。

 ぼたもち、一つ食ってお茶をした。
うまいな。

 他はすべて冷凍。
明日、母へ送ろう。

 購入したお店は埼玉県飯能にある石森食品店、こんにゃく屋さんです。


2018年3月17日土曜日

司馬「江漢西遊日記」の旅 その9

 当時の文化だった(かもしれない)のが、揚屋などの社会全体の中での位置づけである。

 江漢先生、旅の先々で商家や町の名家にやっかいになる。
そこのご主人やまたは案内のものを連れて、揚屋に行く。

 接待された家が武家であるときは、接待役人が同行することになる。
接待することのメニューに必ずのっていたようだ。

 誰も訪れないような山里の数軒しかないボロ屋にもそのようなおもてなしをする人がいる。
どこにでもあったようだな。

 旅行大好き人間古川古松軒の東遊雑記には、
出発してすぐの千寿(千住)で、
「・・・往来の人も多く、倡家も数多ありて、賑わしきえきなり。」とあるし、
宇都宮をすぎたあたりでは
「・・・並木もようやく絶々になりて、左右の人家もいよいよ侘しく、人物・言語なども次第次第に劣り行くなり。さてまた駅所駅所に倡家なき所なし。本陣せる家にも売女あり。風俗とてこれを賤しき業とも思わざるなり。・・・」
とある。

 この古川さん、幕府巡見使に随行して天明8年5月6日江戸を出発し、東北・北海道を目指している。
江漢先生とほぼ時同じくして、北へと旅立っている。

 さて江漢先生、そこのお店の格子具合や、太夫の容姿・髪型・着物など細かく記してくれた。
空気感が感じられ、雰囲気を彷彿とさせる。

2018年3月16日金曜日

送電線の電線に流れる電気の使用状況

 ジジイの「こんなのどうだろう」はすべておもいつきである。
役立ったものを、世間では後にこれを「ひらめき」とよぶ。

 送電線だけでなく街の電信柱の電線にも利用できそうなアイデアである。
電線に電流が流れると、フレミングの右手だか左手だかは忘れたが、
F(力)・H(磁界)・I(電流)と3つの力が働く。
電力計の原理に使われている。だったかな?

 電線にくるっと巻くように機材を取り付けて、3つの力のどれかを取り出し、
LEDで使用状況を知らせるようにする。
簡単にできそうな気がするのだが、
世間にそのような機材がないところをみると難しいのかもしれぬ。

 送電線や、電線は津々浦々張り巡らされているが
その混雑具合は目には見えない。
交通渋滞のように目に見え、肌に感じることができれば
送電線に対する認識が変わることになるとおもうのだが、どうだろうな。


2018年3月15日木曜日

司馬「江漢西遊日記」の旅 その8

 食べ物の話はたくさんというか盛んにでてくる。
これはそのうちの一つ、生月島の食事。

 天明8年12月12日。
「・・・ぶり、さしみの如く切りて箸にはさみて、下地をたぎらかして其中に入、二三ンベンかき回て食ふなり。芹此嶋の名産。夕方、新四良方へ行、小豆がゆを食ふ。・・・」

 これって、ブリのしゃぶしゃぶではありませんか。
しゃぶしゃぶに歴史があるんなて知らんかったぞ。
歴史の重みのある食べ方だったんだな。

 まぁ、230年前も今も、旨いことには変わりがないけど。
次からブリのしゃぶしゃぶすると、
それが時空を飛ぶ切れ目となり、昔に跳べそうな気がする。


2018年3月14日水曜日

司馬「江漢西遊日記」の旅 その7

 箱根の関所など主街道で役人の改めについて、全く触れられていない。
男二人だったので、そのまま通行できたのか、どうなんだろう。
一方で、酒肴や食事などを接待する役人については、記されている。

 いろいろな海外を紹介する図など所持しながらの旅であったはずだから
それなりに持ち物を調べられたはずだとおもうのだが、
そんなこはなかったかのように、日記には出てこない。

 調べられた様子を記しているのは、このあたりのみである。
天明8年10月25日長崎での出来ごと。
「天気。江戸会所より門の切手を請取り、吾が後に従ひ、勝木利兵衛、外に長崎の者二人来る。門を入所にて、ふところ・袂を改む。何者にても持ち入る事を禁ず。・・・」

 関所の改めの様子など詳しく書くと、
おとがめをうけこの西遊日記が出せなかったのかもしれない。
実際、この日記の前に出した、「西遊旅譚」は久能山之図の東照宮を描き、不敬のとがめで絶版を命じられているからな。


2018年3月13日火曜日

森友文書改ざん

 「全体の奉仕者」である公務員が、せっせと一年間も、
公文書の改ざんに汗水流していたんだな。
首じゃすまんぞ。
給料泥棒じゃねえか。

 国が官僚に支配されたら、滅びることは歴史を見れば明らかだぞ。
というか、もう終わってのんか。

 ジジイになるまで、あとに生きてゆく人たちに、現状よりいくらかでも良い社会を、
それができぬことなら、せめて現状維持をと、生きてきたが、
それも、もうかなわんな。
残念無念だぞ。

2018年3月12日月曜日

司馬「江漢西遊日記」の旅 その6

 鮪の輸送。

 天明8年11月17日。
「・・・さて平戸城下、海岸に人家並びて、此節鮪漁にて大船岸に着、一艘に何万、数艘に積む故、海の潮、鮪の血流れて赤し。鮪船、此時雨の嵐に帆を張り、玄界灘を過ぎて下関に至り、防州灘を越え、阿波の鳴門を渡り、志摩の国鳥羽浦に掛け、伊豆の東洋を経、四五百里の海上、七八日にして江戸に着。十二月、五嶋マグロと云物なり。兼ねて船に塩を貯え、船滞る時は塩漬けにす。其価十分一となる。・・・」

 すごいな、鮪を江戸まで運んでいたんだな。
みかんや酒を運ぶのとは訳が違う。
なんせ生もの、塩漬けなんかにしてたまるかと、
荒海かっとばして疾走したはずだ。

 江戸っ子はこれを寿司で食い、
「長崎は平戸の鮪、いやぁ~~うめぇ、伊豆のとはちげぇ」
なんていってたんだろな。


2018年3月11日日曜日

司馬「江漢西遊日記」の旅 その5

 江漢が婆婆を見て、涙する場面がある。

 長崎は生月島の天明9年正月2日の出来事。
海辺は小屋を掛け大変な賑わいである。

「・・・我等と又右衛門家内、娘、床ぎを二キャク程ならべ、先さじきのかたちなり。見物す。
あとは皆土間にて、田夫漁夫、老若男女数百人、おし合へし合大さわぎなり。中に七十位の
老婆見物せんとて、押れて難渋するを見て感じける。此小嶋に産れ、一ッ生涯都会の地を
知らず、誠に悲き事なりと、思へば涙が浮みける。十六七の女、ほうに紅を付る。」



 浜の舟の上で見物している者もいる。
右隅で右上を見上げて丁寧に表情を描き込んでいるのが婆婆だろう。

 江漢は旅の途中出会った老婆・婆婆をおもしろおかしくあたたく優しく記し、そして描く。
江漢このとき42歳である。

2018年3月10日土曜日

司馬「江漢西遊日記」の旅 その4

 ところで、ジジイのわたしは東洋文庫でこれを読んでいる。
老眼鏡の度のやや強いのをかけたり、拡大鏡を使ったり苦労するな。

 しかし、便利な時代になったもんだ。
国立国会図書館デジタルコレクションで読むことができる。
昭和2年の日本古典全集刊行会。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1194191/35

 これなら、画面を拡大できるので楽ちんだし、印刷も出来るぞ。

 しかし、当時の流儀がこうだったのだろう。
訳文の漢字は原文通りではない。
かえって、原文より読みにくくなっている。
当時の人達はそんなこと考えなかったのかね。

2018年3月9日金曜日

Excelについておもうこと

 村山 聡さんが、
『どうしてもExcelを使い続けたいなら覚えておきたい「3つの限界」』
http://techtarget.itmedia.co.jp/tt/news/1802/09/news03.html#utm_medium=email&utm_source=tt-ent-thursday&utm_campaign=20180308&utm_content=AL1
に書かれています。

 「3つの限界」とは、
1つ目はExcelの「仕様上の限界」、
2つ目はExcelの「性能上の限界」、
最後の1つはExcelの「管理的な限界」です。

 全くその通りです。

 で、上記の論点とは異なりますが、
ジジイのわたくしがおもうことはこんなことであります。

 結論からいうと、
マイクロソフトは、調子に乗りすぎたということであります。
要するに、設計思想が貧弱で儲けしか考えなかったということ。
ビル・ゲイツがどんな言い訳をしたって(おっと、するわけないか)、
彼が長者番付世界第一位に18回もなっている億万長者であることが証明しています。

 マイクロフトが上記の3点の限界を知らないわけがありません。
コンピュータ性能の飛躍的な発展と廉価で一層調子こきました。

 Excelの原点は、マルチプランという表計算ソフトです。
セルというマス目を将棋や囲碁の盤のように作って、縦横の計算をさせるというものです。
そのへんでやめておけばよかったんです。

 上記の3つの限界に挑戦してゆく過程で、使いにくくなってきました。
増加する関数だってバグがたくさんありました。
さらにデータベース機能をつけたり、分析機能も付加してゆきました。
そうなると、表計算ソフトではない。

 なので、名前をExcelなんていう名前に変更した。
そして、3つの限界が表面化してきた。

 以前自分で表計算アプリを作ったことがあるんですが、
計算に特化すると上記の3つの限界は1つを除いてなくなりました。
もうどこかにいって使ってませんが。

 まずは、縦横計算に特化した何十桁でも信頼できるような基本ソフトを開発し、
廉価で販売浸透させる。
これだけでも恩恵を受ける人達や企業は何億人となるでしょう。
どうしても必要なら、後付でデータベース機能・分析機能・見栄え良く装飾するようなものをオプションで販売すればよかったんです。

 ジジイの悪い癖、はなしが長くなりました。
このへんでやめます。

2018年3月8日木曜日

司馬「江漢西遊日記」の旅 その3

 日記の随所に記されるのが、老婆や婆婆の語りや様子である。
その目がこれまた暖かくおもいやりにあふれる。

天明8年6月27日のこと
サイ川へ休みたる図が老婆との会話の様子を彷彿とさせる。



 この図、色々と興味深い。
江漢も従者も笠をかぶったままだ。
食事するときはぬがなかったのだろうか。

 老婆もだが小童の衣服がつぎあてだらけ。
老婆の表情は柔和で、小童はにぎりめしを嬉しそうに食っている。

 江漢は左利き?
右手にコリ(梱)を持ち、左手に箸を持っているではないか。
握り飯を直接手に持って食わず、箸を使って食っていたんだな。

 その左手の向こうに描かれているのは、脇差しだろうか。

 従者は荷物を背中に背負っていたと想像したが、天秤棒だったんだな。


 その老婆が語る。



 天明の大飢饉の最後の年にあたるときだが、やはり不作だったのだろう。
やっと収穫できそうになった、「ヒエ・麦に芋の食にいたします」という状況。
その上、「昼は猿のばんをいたし、夜は猪を追い」「畑の廻りにかこひを」するが、
「猿は其のかこひを飛び越して、麦やヒエをあらします」。

 猿も猪も山に食うものがなく、畑を荒らしたのだろう。
この後の日記にも、江漢は晩に猪を追う農民の声を聴きながら眠りについている。


 わたしの住んでいるところも、猪・鹿があらわれる。
つい先日も、庭先に鹿の親子と対面したぞ。
ここからもう少し西に行くと、猿もでる。
それらの獣たちが、作物を荒らす。

 このあたりの年寄りたちは、自家菜園でいろいろな作物をつくる。
サイ川の老婆と同じで囲いを廻らす。
追い立てもする。
しかし、獣たちも必死である。

 収穫間際の作物がやられると、ショックはでかい。
落ち込んで寝込んでしまった年寄りを何人も知っている。

 図の中で語る老婆のはなしは、とても230年前のこととはおもえない。



2018年3月7日水曜日

漢字の検索

 macの日本語入力では、漢字を入力するのに
偏と旁に分けて入力し、漢字検索する方法があります。
同じことを、グーグルの検索窓で行っても結構いけます。





 漢字によっては手書き文字入力でもヒットしないことがありますが、
こちらの方法では、今のところ外れはなし。


2018年3月6日火曜日

司馬「江漢西遊日記」の旅 その2

 この日記、
「天明戊申四月二十三日 昼過ぎ、江戸芝神僊坐を出立・・・」
から始まる。

 天明八年、太陽暦では1788年5月28日になる。
天明の大飢饉がこの年まで続いたというから、世間は穏やかではなかったはずだ。

 実際、日記にも天明8年5月のところに、こう記される。
「廿三日 雨天。終日画を描く。去年今日、米払底にして天下乱をなす。・・・」

 天明の大飢饉は東北を襲うのだが、その影響は全国に及び、
天明9年1月25日岡山にて宿泊した70歳に近いご主人喜左衛門さんがこう語る。
「当春へかけての寒さ、四十年此方の寒気と申事なりとぞ。江戸は此様になしと。・・・」


 やはり、全国的に異常気象だったのかもしれない。
北半球が異常気象だったようで、翌年1789年はフランス革命だったしな。


2018年3月5日月曜日

司馬「江漢西遊日記」の旅 その1


「・・・三月朔日 寛仁元年(一〇一七)六月十日卒す。今年迄七百七十三年になる。・・・」

 773年前であると、正確に計算している。
寛仁元年が西暦何年と知っていたのだろう。
無論、干支と元号の一覧を知っていれば計算はできる。

ほとんどの時代、庶民が使用するのは干支である。
十干十二支で60通り、その繰り返しで合理的だからだな。

 対して元号は、宮中に限られ
庶民が使うようになったのは江戸時代にお触れがでたからで、
元号を優先的に使うことはほとんどなかったという。
そして、西暦併記は戦後になってからだった。


2018年3月4日日曜日

生け垣 アカメ 剪定した

 おもいっきり剪定しました。



 昨年から3段階に分けて、剪定してきました。
切っても、幹からアカメの名の通り、小さい赤い葉が出てきていたので
問題ないと判断して、強剪定。
これで、大雪になってもしばらくは垂れ下がるようなことはないはず。



 幹が曲がってしまっているのは、4年前の大雪の影響です。
元気な木なので、毎年剪定したほうがよさそうだ。
しかし、ジジイになってるので、いつまでできるやら。




2018年3月3日土曜日

高プロってなんだ

 高度プロフェッショナルだそうです。
つくづく略語や言葉を縮めるのはほどほどにしてほしいと願う。

 電車の中で二人の若者の会話が聞こえてきた。
俺さぁこのあいだ、スへ行った来たんだぜ。
どこよそれ。
スだよス。
だからさぁ、どこ。
わかんねぇかな、スっていやぁ、ロスだよロス、ロサンジェルス。
わかるわけねぇだろ、そうそう俺もさぁお前と同じ時期にドへ行ってきたんだ。
エッ、どこだそれ。
やだなぁ~、わかんねぇのかよ、ドっていやぁインドに決まってんべ。

 今度一緒にクへ行こうぜ。
う~ん、う~、イラクか?
馬鹿だなお前、クでわかんねぇかよ、ニューヨークだよ。

 ストップ the略語。

2018年3月2日金曜日

ハングルと漢字

 韓国語は20数年以上前に学んだ。
カナダラからはじめ辞書を引きひき、学んだ。
韓国には数度、足を運んだ。
 
 当時から不思議だったことが、漢字のことだった。
漢字が使われなくなった経緯は学習済みだったが、再度ネットで調べて納得。

 日本の新聞は韓国姓名を漢字で書く。
どうやって漢字にしているのだろうとかねがね思っていたのです。
何の事はない、公式な場や慶弔などでは漢字なんだな。
つまり、生まれたときに漢字で命名しているっていうことだ。
普段使わないだけ。
使わないから自国語でも忘れる。


 ハングルを学んですぐに分かることは、
表音文字なので、名前で言うと同姓同名が多くなってしまうんだな。
漢字では異なっても、ハングルでは同じになってしまう。
こりゃ困るよな。

 まぁ普段は会話の内容とか前後関係で判断できるけど、
姓名・商品名・専門用語などじゃ困るに決まっているし、実害が出てくる。

 他国のことながら、どんな事情があったにせよ、漢字を禁止したのは間違いだったな。
2019年度からは漢字300語程度の学習が復活するらしい。
とても結構なことです。

 筆談で交流できるもんな。


2018年3月1日木曜日

「逝きし世の面影」を購入した

 借りてきた本を半分以上読んだところで、この本を手元に置いときたくなった。
話の内容もさることながら、
江戸・明治の日本見聞録の資料的価値としてこれほどまとまっている本は今までお目にかからなかった。



 本はもう増やさないと決心し実行できているが、この本は別だな。