「天明8年4月23日 ・・・従者には、宿に居たる弟子なり。歳二十位の者にて、松前の産まれなり。・・・」
この従者、2ヶ月もたたないうちに暇を出された。
頭注にこうある。
「天明8年6月5日 此駿府に久しく滞留せし故、江戸より従者に連れ来りし松前の者、不埒の事あり。故に爰にて暇を遺す。」
その代わりが誰かというと、
「天明8年6月21日 庄兵衛倅弁喜、歳十六、これを連れ、此者長崎まで至りて江戸迄来る。」
と、やはり頭注に記している。
この弁喜、6月21日に藤枝で宿泊した小西庄兵衛の倅。
「庄兵衛内は甚だキタナキ事、たたみ、のみの幾らも飛出、夜中一向にねられず。誠に蚤に食われける。」
という家であった。
「天明8年6月26日 小西庄兵衛がせがれ十六歳になる者、爰よりボクとしてつれる。」
そしてこの弁喜がんばる。
「天明9年4月13日 僕弁喜は駿府藤枝の者にて、去年歳十六にて予が後に就、長崎より平戸、生月嶋に三十日留つて鯨漁を見、其余京・大阪、今亦江都の繁昌を見る。名馬の尻に居る蝿の如し歟。」
と江漢先生に江戸到着の日の日記四行のうち半分の二行も書かせている。
江漢なりのねぎらいの辞であった。
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