2018年3月30日金曜日

「逝きし世の面影」渡辺京二著 を読んだ

 第一章 ある文明の幻影 の末尾で、次のように述べている。
「私の意図するのは、古きよき日本の愛惜でもなければ、それへの追慕でもない。私の意図はただ、ひとつの滅んだ文明の諸相を追体験することにある。外国人のあるいは感激や錯覚で歪んでいるかもしれぬ記録を通じてこそ、古い日本の文明の奇妙な特性がいきいきと浮かんで来るのだと私はいいたい。そしてさらに、われわれの近代の意味は、そのような文明の実態とその解体の実相をつかむことなしには、けっして解き明かせないだろうといいたい。」

 さらに、あとがきで
「私はたしかに、古き日本が夢のように美しい国だという外国人の言葉を紹介した。そして、それが今ばやりのオリエンタリズム云々といった杜撰な意匠によって、闇雲に否認されるべきではないということも説いた。だがその際の私の関心は自分の「祖国」を誇ることはなかった。私は現代を相対化するためのひとつの参照枠を提出したかったので、古き日本とはその参照枠のひとつにすぎなかった。」

 「逝きし世の面影」に書ききれなかった内容をさらに、其後数冊の本で出版しているけど、
それらの著書の中でも、同一の趣旨のことを強調されている。

 要するに日本ヨイショの流れとは、別流なのです。

 わたしが此の本を読んでいて、何が一番楽しかったか。
渡辺さんの、こういった意図をふまえての、
長い長い物語を読む(聴く)ことができる、好奇心が満たされていくことを感じることができる幸せでありました。

 氏の言われるように、江戸後期から明治初めの文明を破壊したのは他ならぬ日本人だったわけだけど、滅ぼされた文明の残照や余熱はまだまだ現在でも見つけることができるんだな。

 私自身の四人の祖父祖母の思い出の中にもたくさんそれらがあり、現実感としてそれらを感じることができる。
だって爺さん婆さんたち、生まれは明治、当然育てられた両親や爺様婆様たちは江戸生まれで、
失った文明を身にまとっていたのだから、其の名残が爺さん婆さんたちに残らないわけがない。

 父親にしたって、大正3年生まれ。いろいろな所作や言葉使いなど
其のときには「古めかしい」とうつったものが、失った文明の残照だった気がする。

 明治にしたって、江戸にしたって
数代前のちょっと前のことなんだというのが、この頃の気持ちだな。
まぁその間に、ずいぶんいろいろなことがあったもんだとはおもうけど。


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