当時の文化だった(かもしれない)のが、揚屋などの社会全体の中での位置づけである。
江漢先生、旅の先々で商家や町の名家にやっかいになる。
そこのご主人やまたは案内のものを連れて、揚屋に行く。
接待された家が武家であるときは、接待役人が同行することになる。
接待することのメニューに必ずのっていたようだ。
誰も訪れないような山里の数軒しかないボロ屋にもそのようなおもてなしをする人がいる。
どこにでもあったようだな。
旅行大好き人間古川古松軒の東遊雑記には、
出発してすぐの千寿(千住)で、
「・・・往来の人も多く、倡家も数多ありて、賑わしきえきなり。」とあるし、
宇都宮をすぎたあたりでは
「・・・並木もようやく絶々になりて、左右の人家もいよいよ侘しく、人物・言語なども次第次第に劣り行くなり。さてまた駅所駅所に倡家なき所なし。本陣せる家にも売女あり。風俗とてこれを賤しき業とも思わざるなり。・・・」
とある。
この古川さん、幕府巡見使に随行して天明8年5月6日江戸を出発し、東北・北海道を目指している。
江漢先生とほぼ時同じくして、北へと旅立っている。
さて江漢先生、そこのお店の格子具合や、太夫の容姿・髪型・着物など細かく記してくれた。
空気感が感じられ、雰囲気を彷彿とさせる。
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