工作notebook2
2018年3月5日月曜日
司馬「江漢西遊日記」の旅 その1
「・・・三月朔日 寛仁元年(一〇一七)六月十日卒す。今年迄七百七十三年になる。・・・」
773年前であると、正確に計算している。
寛仁元年が西暦何年と知っていたのだろう。
無論、干支と元号の一覧を知っていれば計算はできる。
ほとんどの時代、庶民が使用するのは干支である。
十干十二支で60通り、その繰り返しで合理的だからだな。
対して元号は、宮中に限られ
庶民が使うようになったのは江戸時代にお触れがでたからで、
元号を優先的に使うことはほとんどなかったという。
そして、西暦併記は戦後になってからだった。
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