2019年7月20日土曜日

テープレコーダー その32



 母はなにかの機会に、この北野天満宮に願掛けをしたのだろう。
息子が一人前に自分で稼ぐようになり嫁さんを迎えることができるようにと。

 しかし、母はもうひとつ緑茶断ちというのをやっていた。自分の大好きなものの一つを断って願いが叶うように、母は緑茶を選んだというわけだ。こちらの願い事が何であるか、母は明かしていない。
ある日、あれっと思ったら急須から緑茶を注いでいた。
驚いた。嫌いじゃなかったの、ボクはきいたけど、母はニコニコしながら、
緑茶はやっぱり旨いねと、おかわりをしていた。

もっとも、緑茶は断っていたのだが、紅茶をガンガン飲んでいたので、なんか中途半端な断ち方ではあった。

 どうやら母の遅刻グセは父が絡むと、意識しているかどうかははっきりしないが、ほぼ発現するようだ。父がいないと、遅刻はしたりしなかったり、まぁ常人なみといってよい。
母が若かりし頃、父とは約束の時間に間に合うか間に合わぬかでPTSD(心的外傷後ストレス障害)が発症しているのかもしれぬ。


 中国北部の戦地の某都市。
槐(えんじゅ)の並木道が美しく、枝や葉がつくる木陰はカラッとして気持ちがよい。
少し埃っぽい街路の一角に橋がかかっていた。
街外れのそのたもとのそばに小洒落た茶店があった。

 院内感染ならぬ院内自由恋愛(わたしとお父ちゃんはジユウレンアイだったのよといつでもうれしそうに言っていた)をし始めていた二人は、その茶店で仕事終わりの時間に待ち合わせをしていた。父は専門は内科なのだが戦地では何でも屋にならなければやってはいけぬ。外科もやった、当然手術も。

 その約束の日、負傷者や救急の外科手術で二人とも約束の時間には間に合わなかった。
先に父がその場所に着いたとき、約束場所の茶店は跡形もなくふっ飛ばされてまだくすぶっている状態であった。
あとからやって来た母は人だかりがして煙を上げている橋の方向を見て、よろけて倒れそうになる躰を槐の幹につかまり支えなければならなかった。

先生は無事なのかしら・・・、何かあったのかしら・・・、

近づくにつれ、まだ火薬の匂いが残り、煙越しのむこうにまあるい眼鏡をかけた父を認めた。
走り寄った。

無事ですか。大丈夫ですか。何があったんですか・・・

 約束通りの時間に二人が茶店で落ち合っていたら、ふたりともふっ飛ばされていたところだった。


(つづく)


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