2016年2月に購入したバッテリーが今月7月に「交換修理」表示されて、返品交換した。
水曜日にROWA JAPANのHPより連絡したら即、返信メールが入った。
メールで2度やり取りして、翌日木曜日の午後に発送したら2日後の土曜日夕方に交換品が到着した。
対応の速さは満点です。
保証期間3ヶ月は短いけど、6ヶ月後でもこちらが返送料負担したものの、交換してくれたのは
まぁよかったかな。
でも、充放電回数28回で「交換修理」表示は早すぎ。
当たり外れがあるような商品みたいだけど、今回はどうでしょうか、心配です・・・
2016年7月31日日曜日
2016年7月29日金曜日
高額すぎる退職金とお給料
SOFTBANKの前副社長アローラ氏の退職金が68億円だと!
2014年に入社してから氏に支払った合計額は400億円だと!!
最初から契約に入っていたということだが、
雇う方も雇われる方も狂っている。
自分とこの従業員のやる気をそぐだろうということがわからんのかね。
SOFTBANKの商品なんか金輪際、使うもんか。
日本は会社などの役員の報酬が諸外国に比べればまだましだといわれてるが
是非これからも、役員の高額報酬は真似しないでほしい。
いくら自分が起業し育て上げた会社だからといって、
天井知らずに報酬を上げ、ますます、鰻登り。
こちとらその鰻だって、この10年食ってない。
その会社で雇った従業員のモチベーションは下がるし、
まるで軍隊の歩兵と大将みたいでやだね。
歩兵は使い捨てか。
自分が使い切れないくらいの報酬をとるんだったら
その分を従業員に回してもいいし、もっと正社員を増やしてもいいじゃないか。
従業員の厚生に使ったっていいだろうし、いくらだって使い方はあるはずだ。
日本の国家公務員でも地方公務員でもいいけどそれらの公務員の給料体系程度の
給料差が妥当なところなんじゃないかな。
日産のゴーン氏も批判を受けているけど、あたりまえだ。
本人は教育援助に云々と言っているらしいけど、
報酬額を減らすなんて考えてもないようだ。
高額報酬の役員さん達は、給料伝票をみて
ふぅー、と溜息をついた頃をお忘れらしい。
彼らの会社や工場には、汗水流し、タダ働きしているような労働環境もあるとおもう。
えばっている居丈高な上司もたくさんいて、ぺこぺこコメツキバッタな従業員だっているだろう。
コメツキバッタはパッコンパッコンしながら最後は
パッコーーーンって
高く跳ね上がって、裏返ってたのが元に戻って、どこかに行くんだよね。
啖呵きって、去ってゆくなんて格好いい。
そのあとがどうなるかわからないところが
悲しいんだけどね・・・
官僚の天下りだって、喉元をすぎれば
あちことで行われている。
会社役員たちの報酬だって、いつからこんなになっちゃたんだろう。
みんな、お手盛りが大好きな人間だよ。
一緒に働く会社の仲間という感覚がないんだろうね。
一方じゃ、ノーベル賞をとるような人でも、
特許料で莫大な財産を得るようなことがあっても、
自身の生活は庶民生活そのもので、
余った財産はまわりの人たちに喜ばれるような諸活動にまわしている。
そういった人たちがいるってことで
いくらか、ボクの気持ちは救われるな。
異常に高額な報酬をもらっている役員のみなさん、
初めて給料伝票をもらったときのことを思い出してくださいな。
あっ、でもこれはダメか。
こんなはした金の給料なんて、いつか億を超える額を稼いでみせるっていうのが
動機になっているんだったら
今がその時なんだものね。
きっと幸せなんだ。
そのうち、そういった会社の
不買運動が起こるといいな。
まっ、ボクはSOFTBANKの商品は買わないよ。
2016年7月28日木曜日
昨日は誕生日でした
2016年7月27日 わたしの誕生日でした♪
何通かのおめでとうメールがありました。
うれしいね。
昼過ぎに四捨五入100歳の母から電話があり、
直々におめでとうと、元気な声をきかせてくれました。
枝豆を食べなさい、あれは栄養があるからいいのよ、と
とっくに60をこえたわたしをいつまでも心配してくれるのでした。
ありがたいね。
だけど
昨年はわたしの誕生日を間違えていて、正しい日を教えました。
学習効果はあったようで、今年はOK。
めでたしめでたし。
何通かのおめでとうメールがありました。
うれしいね。
昼過ぎに四捨五入100歳の母から電話があり、
直々におめでとうと、元気な声をきかせてくれました。
枝豆を食べなさい、あれは栄養があるからいいのよ、と
とっくに60をこえたわたしをいつまでも心配してくれるのでした。
ありがたいね。
だけど
昨年はわたしの誕生日を間違えていて、正しい日を教えました。
学習効果はあったようで、今年はOK。
めでたしめでたし。
2016年7月27日水曜日
息子の結婚式に参列した
2016年7月24日 日曜日
息子の結婚式でした。
その日にあわせて、まずはバス停まで歩いていかなければなりませんから
約10日前から、リハビリを開始しました。
初日は、両膝が痛くなるわ、半分くらいところでハーハーするわで、なんとか往復できました。
次の日は前日よりも少しは楽に、そしてその次の日は、また少し楽に歩けましたが、
膝や下半身の筋肉がこれほど衰えていることに、愕然としました。
1週間ぐらいしたら、筋肉痛や、膝の関節痛がではじめて、この先大丈夫かなとやや不安に。
2015年の2月と12月に発作性心房細動のカテーテルアブレーションの手術を行ったものの、
再発してしまい、現在は薬を服薬治療中で、体を動かすことと言えば
スーパーへ車で買物や図書館に行くくらい、あとは家の中での生活でした。
1回めの手術の後は、散歩などや汗をかく作業などできる状態になったのですが、
2回目以降は、あまり活動しなくなってしまいました。
なので、今回はまずはバス停までずっとゆるい坂道を歩き、
電車2本を乗り換えて、また歩いて式場へ
片道約3時間弱、不安でした。
どの駅にもエレベーターやエスカレーターが設置され、大助かりでした。
時代は変わったのだなぁと感じた次第です。
式は眺めの良い高層階にあるチャペルでした。
親族のみの、両家で10人程度のこじんまりとしたものでしたが、
あたたかい雰囲気の中でとり行われました。
神父さんがどこかで見た人だなとおもっていたら、
「所さんのニッポンの出番」にたまに出演する西洋人の方でした。
ちょっとしたサプライズでおかしかったなぁ。
それにテレビではわからないけど、
神父さんは長身で、履いている靴が40cmはあるのではないかとおもうくらいデカかった。
息子の靴は35cmくらいかなぁ。
式の中で賛美歌を2曲歌うのだけれど、
やはり歌えた。
子どもの頃の日曜教会を思い出しました。
披露宴も和やかに進み、お料理もおいしく量もたっぷりで
新郎新婦の心配りが感じられ、
父として静かに感じ入ること多かったのであります。
新婦のお父様の気持ちはいかばかりであったでしょう。
披露宴は無事終了し
礼服一式は宅配し、帰路に備えました。
日曜の夕方、どこも混雑していましたが、
なんとか帰宅して、下半身がジーンとして
やはり、疲れたのでした。
夜、休んでいると不整脈がでました。
ベッドに入るまでには止まり
充実した一日は終了しました。
息子夫婦のこれからの幸せを祈りました。
めでたしめでたし・・・
息子の結婚式でした。
その日にあわせて、まずはバス停まで歩いていかなければなりませんから
約10日前から、リハビリを開始しました。
初日は、両膝が痛くなるわ、半分くらいところでハーハーするわで、なんとか往復できました。
次の日は前日よりも少しは楽に、そしてその次の日は、また少し楽に歩けましたが、
膝や下半身の筋肉がこれほど衰えていることに、愕然としました。
1週間ぐらいしたら、筋肉痛や、膝の関節痛がではじめて、この先大丈夫かなとやや不安に。
2015年の2月と12月に発作性心房細動のカテーテルアブレーションの手術を行ったものの、
再発してしまい、現在は薬を服薬治療中で、体を動かすことと言えば
スーパーへ車で買物や図書館に行くくらい、あとは家の中での生活でした。
1回めの手術の後は、散歩などや汗をかく作業などできる状態になったのですが、
2回目以降は、あまり活動しなくなってしまいました。
なので、今回はまずはバス停までずっとゆるい坂道を歩き、
電車2本を乗り換えて、また歩いて式場へ
片道約3時間弱、不安でした。
どの駅にもエレベーターやエスカレーターが設置され、大助かりでした。
時代は変わったのだなぁと感じた次第です。
式は眺めの良い高層階にあるチャペルでした。
親族のみの、両家で10人程度のこじんまりとしたものでしたが、
あたたかい雰囲気の中でとり行われました。
神父さんがどこかで見た人だなとおもっていたら、
「所さんのニッポンの出番」にたまに出演する西洋人の方でした。
ちょっとしたサプライズでおかしかったなぁ。
それにテレビではわからないけど、
神父さんは長身で、履いている靴が40cmはあるのではないかとおもうくらいデカかった。
息子の靴は35cmくらいかなぁ。
式の中で賛美歌を2曲歌うのだけれど、
やはり歌えた。
子どもの頃の日曜教会を思い出しました。
披露宴も和やかに進み、お料理もおいしく量もたっぷりで
新郎新婦の心配りが感じられ、
父として静かに感じ入ること多かったのであります。
新婦のお父様の気持ちはいかばかりであったでしょう。
披露宴は無事終了し
礼服一式は宅配し、帰路に備えました。
日曜の夕方、どこも混雑していましたが、
なんとか帰宅して、下半身がジーンとして
やはり、疲れたのでした。
夜、休んでいると不整脈がでました。
ベッドに入るまでには止まり
充実した一日は終了しました。
息子夫婦のこれからの幸せを祈りました。
めでたしめでたし・・・
2016年7月23日土曜日
母とチャイナ・ドレス
写真館で撮ったのだろうか、白黒の写真がある。
キャビネサイズだ。
母がチャイナ・ドレスを着て、切れ味を感じる。
表情は自身にあふれ、目線はブレずにこちらを見ている。
その写真を初めて見たとき、
母はスパイだったのではないかとおもった。
実は今でも心の片隅にそうおもっている部分がある。
母は大東亜戦争以前から
中国は瀋陽で、日本軍の軍属が運営する病院で看護婦として働いていた。
中国語とは無縁の農家の長女が当時、外地で働くことに両親は心配したことだろう。
満州国で勤務しなかったのは何か訳があったのだろうか。
母は家では、戦争の時のことを普段と変わることなく、何でも話していた。
ところがボクがやや細かいことなどを聞くと、
いいの、いいの、と言ったりしてごまかすことがよくあった。
子ども心に
アヤシイと感じた。
全く中国語を解しなかった母は、病院で勤務しながら
診察に来る患者や、病院で勤務している中国人に教わった。
そこの病院で働いていた父が言うには、
母はあっという間に中国語をものにしてしまったという。
病院内だけでなく、中国語で困ったときには母に声がかかることが多かったそうだ。
日本の将校もやってきたが、そのときも通訳をした。
以前実家に帰っているときに、新聞の集金人がやってきた。
母が中国語を話し、玄関がにぎやかなので
ボクもいってみた。
集金人は若い中国人だった。
顔を真赤にして嬉々としていた。
母の両手を握り、上下に揺さぶりながら
大きな声で中国語をしゃべっていた。
「まるで中国にいるおばあちゃんとしゃべっているみたいです。
懐かしいです。おばあちゃんのしゃべっている中国語は少し古くって
ぼくのおばあちゃんやおじいちゃんがしゃべっている中国語なんですよ。
ほんとにお上手ですね、中国に帰りたくなってしまいます・・・」
きっと翻訳するとこんなことをしゃべっていたのだとおもう。
しかし、将校の中には中国語が堪能であっても、全くわからないふりをする者もいた。
通訳が違ったことを言っているのではないかどうか、チェックしたのだろう。
また、中国語がわからないとおもっている中国人のうわさ話などに聞き耳を立て、
情報収集をしていたかもしれない。
母はそのような将校から、秘密の指令を・・・
アヤシイ
父が軍歌を歌っているところを見たことも聞いたこともない。
しかし、ハーモニカはうまかった。
もしもし亀よ・・を伴奏入りで聞かせてくれたことがあった。
それまでに、そんな上手な演奏を聞いたことのなかったボクは
体が棒のようになったまま固まってしまった。
父がハーモニカを両手でくるむようにし、頭部をやや左側に傾けて演奏する姿は
格好良かった。
そんな父は
軍歌は、兵隊さん達の青春歌でもあるんだと言っていた。
内容がどうであれ、若い時に仲間と歌った歌はいくつになっても歌いたいもんだ
酔うとそんなことを父からよくきいた。
でも、父は軍歌を決して口にしなかった。
父は軍医として働くこともできたはずだが、しなかった。
母は、李香蘭の支那の夜をよく口ずさんでいた。
ボクも歌える。
母の歌ったように歌える。
他の軍歌も、何番までも続く歌詞をよどみなく歌っていた。
森村誠一が731部隊のことを、小説で発表したときのことだ。
恐ろしい狂気の蛮行をした日本軍のことが書かれていた。
新聞やマスコミなどいっときはずいぶんと放送された。
母はテレビやラジオの、やや眉唾ものの話題を
意外と信じてしまい、さらに自分で試さなくては気がすまないたちであった。
紅茶キノコの時は、台所だけでなく狭い廊下にも薄茶色のクラゲみたいなものが
梅酒用の広口な瓶の口を塞ぐぐらい大きく育っていた。
そんな瓶がゴロゴロしていた。
味見をさせられたボクは、酸っぱくって爽やかで気に入ったのだが、
こんなものがゴロゴロされたのではかなわないので、
できるだけ不味い表情を作って、
全部捨ててくれとお願いしたものだ。
「そうかい」と残念そうな母は
しばらくして、すべてを台所の流しにぶちまけて捨てた。
流しは詰まった。
あたりまえだ。
あんなものが流れるわけがない。
チョコレートを包んでいる銀紙にも凝ったことがある。
膝の関節にあてると、関節痛がよくなるというのである。
どの銀紙でも同じだろうとボクが茶々を入れると
ムッとした母は
「明治の板チョコの銀紙じゃなくちゃだめなのよ」
と返した。
なんともその先の言葉に詰まったボクは
中身のチョコレートをずっと食べるはめになってしまった。
そんな母は、731部隊の話題には反応しなかった。
無視しているというより、かたくなに強い意志で拒絶しているように見えた。
テレビでその話題が出るたびにチャンネルを変えていたのでは
鈍いボクにでも、感づかれてしまう。
当時の母の仲間であった看護婦の中には
敗戦時の場所が、ウランバートルにいた者もいたのだ。
好奇心の強い母が、それらの蛮行を知らなかったはずがない。
この頃には単に
あやしい
とおもうだけではすまなくなっていた。
しかし、時間にだらしがなく、数々の遅刻常習遍歴を持つ母が
スパイなど務まるわけがない、とも考えた。
本物のスパイは様々なカモフラージュを施す。
本物の凄さを知らないだけかもしれない。
いくら凄腕であっても、
ボクの結婚式にまで遅刻したのは、凄腕仲間トップ3に入ってこそ
できることなのだろうか。
中野のスパイ学校卒の将校に鍛えられると
そこまでできるのだろうか。
やがてマスコミもテレビでもそれらの話題はされなくなっていった。
母は内心、ホッとしていたかもしれない。
母が自分から話すのなら聞いてみたい気もしたが
わざわざボクから母の心を乱すような事柄を
つっこむこともあるまいと
今はおもっている。
キャビネサイズだ。
母がチャイナ・ドレスを着て、切れ味を感じる。
表情は自身にあふれ、目線はブレずにこちらを見ている。
その写真を初めて見たとき、
母はスパイだったのではないかとおもった。
実は今でも心の片隅にそうおもっている部分がある。
母は大東亜戦争以前から
中国は瀋陽で、日本軍の軍属が運営する病院で看護婦として働いていた。
中国語とは無縁の農家の長女が当時、外地で働くことに両親は心配したことだろう。
満州国で勤務しなかったのは何か訳があったのだろうか。
母は家では、戦争の時のことを普段と変わることなく、何でも話していた。
ところがボクがやや細かいことなどを聞くと、
いいの、いいの、と言ったりしてごまかすことがよくあった。
子ども心に
アヤシイと感じた。
全く中国語を解しなかった母は、病院で勤務しながら
診察に来る患者や、病院で勤務している中国人に教わった。
そこの病院で働いていた父が言うには、
母はあっという間に中国語をものにしてしまったという。
病院内だけでなく、中国語で困ったときには母に声がかかることが多かったそうだ。
日本の将校もやってきたが、そのときも通訳をした。
以前実家に帰っているときに、新聞の集金人がやってきた。
母が中国語を話し、玄関がにぎやかなので
ボクもいってみた。
集金人は若い中国人だった。
顔を真赤にして嬉々としていた。
母の両手を握り、上下に揺さぶりながら
大きな声で中国語をしゃべっていた。
「まるで中国にいるおばあちゃんとしゃべっているみたいです。
懐かしいです。おばあちゃんのしゃべっている中国語は少し古くって
ぼくのおばあちゃんやおじいちゃんがしゃべっている中国語なんですよ。
ほんとにお上手ですね、中国に帰りたくなってしまいます・・・」
きっと翻訳するとこんなことをしゃべっていたのだとおもう。
しかし、将校の中には中国語が堪能であっても、全くわからないふりをする者もいた。
通訳が違ったことを言っているのではないかどうか、チェックしたのだろう。
また、中国語がわからないとおもっている中国人のうわさ話などに聞き耳を立て、
情報収集をしていたかもしれない。
母はそのような将校から、秘密の指令を・・・
アヤシイ
父が軍歌を歌っているところを見たことも聞いたこともない。
しかし、ハーモニカはうまかった。
もしもし亀よ・・を伴奏入りで聞かせてくれたことがあった。
それまでに、そんな上手な演奏を聞いたことのなかったボクは
体が棒のようになったまま固まってしまった。
父がハーモニカを両手でくるむようにし、頭部をやや左側に傾けて演奏する姿は
格好良かった。
そんな父は
軍歌は、兵隊さん達の青春歌でもあるんだと言っていた。
内容がどうであれ、若い時に仲間と歌った歌はいくつになっても歌いたいもんだ
酔うとそんなことを父からよくきいた。
でも、父は軍歌を決して口にしなかった。
父は軍医として働くこともできたはずだが、しなかった。
母は、李香蘭の支那の夜をよく口ずさんでいた。
ボクも歌える。
母の歌ったように歌える。
他の軍歌も、何番までも続く歌詞をよどみなく歌っていた。
森村誠一が731部隊のことを、小説で発表したときのことだ。
恐ろしい狂気の蛮行をした日本軍のことが書かれていた。
新聞やマスコミなどいっときはずいぶんと放送された。
母はテレビやラジオの、やや眉唾ものの話題を
意外と信じてしまい、さらに自分で試さなくては気がすまないたちであった。
紅茶キノコの時は、台所だけでなく狭い廊下にも薄茶色のクラゲみたいなものが
梅酒用の広口な瓶の口を塞ぐぐらい大きく育っていた。
そんな瓶がゴロゴロしていた。
味見をさせられたボクは、酸っぱくって爽やかで気に入ったのだが、
こんなものがゴロゴロされたのではかなわないので、
できるだけ不味い表情を作って、
全部捨ててくれとお願いしたものだ。
「そうかい」と残念そうな母は
しばらくして、すべてを台所の流しにぶちまけて捨てた。
流しは詰まった。
あたりまえだ。
あんなものが流れるわけがない。
チョコレートを包んでいる銀紙にも凝ったことがある。
膝の関節にあてると、関節痛がよくなるというのである。
どの銀紙でも同じだろうとボクが茶々を入れると
ムッとした母は
「明治の板チョコの銀紙じゃなくちゃだめなのよ」
と返した。
なんともその先の言葉に詰まったボクは
中身のチョコレートをずっと食べるはめになってしまった。
そんな母は、731部隊の話題には反応しなかった。
無視しているというより、かたくなに強い意志で拒絶しているように見えた。
テレビでその話題が出るたびにチャンネルを変えていたのでは
鈍いボクにでも、感づかれてしまう。
当時の母の仲間であった看護婦の中には
敗戦時の場所が、ウランバートルにいた者もいたのだ。
好奇心の強い母が、それらの蛮行を知らなかったはずがない。
この頃には単に
あやしい
とおもうだけではすまなくなっていた。
しかし、時間にだらしがなく、数々の遅刻常習遍歴を持つ母が
スパイなど務まるわけがない、とも考えた。
本物のスパイは様々なカモフラージュを施す。
本物の凄さを知らないだけかもしれない。
いくら凄腕であっても、
ボクの結婚式にまで遅刻したのは、凄腕仲間トップ3に入ってこそ
できることなのだろうか。
中野のスパイ学校卒の将校に鍛えられると
そこまでできるのだろうか。
やがてマスコミもテレビでもそれらの話題はされなくなっていった。
母は内心、ホッとしていたかもしれない。
母が自分から話すのなら聞いてみたい気もしたが
わざわざボクから母の心を乱すような事柄を
つっこむこともあるまいと
今はおもっている。
2016年7月22日金曜日
オタフクソース 佐々木社長さんの記事にジンときた
広島のお好み焼きが、『原爆投下後の廃墟。がれきの中から鉄板を拾い、屋台で作り、育まれた』ことも知らずに、ウマイウマイとほおばっていた。
いっときはブルドッグソースを使っていたが、ここのところはもっぱらオタフクである。
『私は6歳でした。爆心地から1.6キロの自宅前。真っ青な空にキラキラと銀色に光る飛行機を見上げていたら黒い物体が落ちてきた。』
なんと鮮烈な光景だろう。
ボク自身は空から降ってきたものの記憶は、セスナ機からばらまかれた宣伝のビラしかない。
夏休みの宿題の絵日記にこんなこと書けやしない。
書くどころではない。
先日、米国大統領がやっと、広島を訪れた。
とても良かったことだとおもう。
まず来なければ次は始まらない。
広島からの平和を願って、2つの組織があった。
平和はひとつだろうに、それをめざしていさかうなんて
高校生のときのボクは彼らをひどく軽蔑した。
ふたつの平和なんてあるもんか。
右も左もない
上も下もない
いましていることの
何が戦争につながるのか
平和をおびやかすのかを
見きわめ
それらを断ち切る行動をしてゆくことが
肝心なことだとおもうのに
オタフクソースのキャラクターをまじまじと見たことはなかったが
ジッと見てみた。
これはお面ではないだろうが、この表情の下に広島の悲しみと平和の願いが隠されているのだろうか。
しばらくながめていると、
右目は静かにねむり、左目は微笑んでいる。
静かな悲しみと平和の願いなのかもしれない。
昨夜のおかずは豚肉小間切れとキャベツの炒めもの、仕上げはオタフクソースだ。
食べ始めると、そのうまさに
広島の悲しみも、平和もどこかにすっとんでしまう自分が情けない。
うまいものは幸せにしてくれる。
佐々木社長は『ヒロシマ平和記念資料館を見学できるようになったのは、つい数年前のこと』
と記事の中で語っている。
ボクが被爆者だったら・・・
きっと資料館の中に入れないだろう・・・とおもう
毎日をがむしゃらに働き、生き、そうすることによって
なんとか今を生きていることができているというのに
自分の心の中の鮮烈な記憶が展示されている資料など、見ることは耐えられない
とてもじゃないけど、自分を支えられない。
そうおもう。
ずっとと願いたいんだけど、欲張っちゃいけないので
食べている間だけでも、幸せにしてくれるおいしいものを
これからもずっと作り続けてください。
来月の6日はコロッケにオタフクソースをたっぷりかけて食べます
いっときはブルドッグソースを使っていたが、ここのところはもっぱらオタフクである。
『私は6歳でした。爆心地から1.6キロの自宅前。真っ青な空にキラキラと銀色に光る飛行機を見上げていたら黒い物体が落ちてきた。』
なんと鮮烈な光景だろう。
ボク自身は空から降ってきたものの記憶は、セスナ機からばらまかれた宣伝のビラしかない。
夏休みの宿題の絵日記にこんなこと書けやしない。
書くどころではない。
先日、米国大統領がやっと、広島を訪れた。
とても良かったことだとおもう。
まず来なければ次は始まらない。
広島からの平和を願って、2つの組織があった。
平和はひとつだろうに、それをめざしていさかうなんて
高校生のときのボクは彼らをひどく軽蔑した。
ふたつの平和なんてあるもんか。
右も左もない
上も下もない
いましていることの
何が戦争につながるのか
平和をおびやかすのかを
見きわめ
それらを断ち切る行動をしてゆくことが
肝心なことだとおもうのに
オタフクソースのキャラクターをまじまじと見たことはなかったが
ジッと見てみた。
これはお面ではないだろうが、この表情の下に広島の悲しみと平和の願いが隠されているのだろうか。
しばらくながめていると、
右目は静かにねむり、左目は微笑んでいる。
静かな悲しみと平和の願いなのかもしれない。
昨夜のおかずは豚肉小間切れとキャベツの炒めもの、仕上げはオタフクソースだ。
食べ始めると、そのうまさに
広島の悲しみも、平和もどこかにすっとんでしまう自分が情けない。
うまいものは幸せにしてくれる。
佐々木社長は『ヒロシマ平和記念資料館を見学できるようになったのは、つい数年前のこと』
と記事の中で語っている。
ボクが被爆者だったら・・・
きっと資料館の中に入れないだろう・・・とおもう
毎日をがむしゃらに働き、生き、そうすることによって
なんとか今を生きていることができているというのに
自分の心の中の鮮烈な記憶が展示されている資料など、見ることは耐えられない
とてもじゃないけど、自分を支えられない。
そうおもう。
ずっとと願いたいんだけど、欲張っちゃいけないので
食べている間だけでも、幸せにしてくれるおいしいものを
これからもずっと作り続けてください。
来月の6日はコロッケにオタフクソースをたっぷりかけて食べます
2016年7月21日木曜日
父とみかん
ボクが高校生時分の頃、父は毎週土曜日に帰宅していた。
週一回の家族そろっての夕食はにぎやかで豪華だった。
外食で行きつけの中華料理店にもよく行った。
そのお店に行くときはタクシーだったか歩いて行ったのかよく覚えていないが
帰りは、ほろ酔い気分の父と二人で歩いて帰ることがたびたびであった。
父が通った小学校脇の細い坂道を、父の背中を押しながら登ったものだ。
馴染みの寿司屋から、食べきれないのではないかとおもえるぐらいの
握りや巻物やおいなりさんがでかい寿司桶に入って出前をとった。
一人前ずつの寿司桶が段々に重ねられていたこともあったが
父はでかい寿司桶で豪華に盛られている握り寿司などを見るのが好きだったようだ。
その寿司屋に母はたまに、時期になると
家で取れた大葉を大量にあげていた、というよりも
出荷していたと言ったほうがよいくらいの量だった。
母はもともと農家の出身なので、シソを大規模に育てるなど朝飯前だったのだ。
母は何の見返りも考えずにそんなことをしていたのだが
ある日、寿司を配達してくれているお兄さんが出前のカブの後ろに
荷が崩れるくらいの量の砂糖袋を積んで我が家に持ってきた。
母は一度は断っていたが、お兄さんがどんどん玄関廊下に袋を積み上げてしまい
結局、廊下のすみにそのままになってしまった。
夕食後しばらくして、父は読書しながら就寝準備となる。
横になっている父のマッサージをボクは始める。
毎回、このマッサージは数時間続く。
数時間以上続くこともある。
翌日のボクの両肩両腕はパンパンになる。
その時の父の読書は
全集物の「日本の歴史」や「世界の歴史」が多かった。
ボクは揉む手を休めずに
後ろからその本たちを読んだ。
父はボクが一緒にそれらの本を読んでいるなんてこれっぽちも、おもっていなかっただろう。
おかげで日本史や世界史のテストの点数は
さほど勉強しなかったのに良かった。
父が亡くなる数年前に、父は自分の蔵書を整理したようだ。
所帯を構えたボクの住所にダンボールで結構な量の本が送られてきた。
その中に「日本の歴史」「世界の歴史」が、すべての巻がそろって入っていた。
ボクの本棚の一番上の段にそれらすべてを並べた。
その段に目をやるたびに、横になっている父の禿げている後頭部を思い出したものだ。
みかんの季節になると
マッサージをはじめてしばらくすると、
みかんが食いたいと父は言う。
「アッ、きたー」とボクはおもい、ちょっとドキッとする。
少しではあるが気持ちの整理が必要になるのだ。
初めてそれをおこなったときは
イヤをとおりこして不思議な感触にドキドキした。
父はみかんの一房を
ボクがはじっこをつまんで
そのまま父の口の中に入れろというのだ。
父はその一房をチュウチュウとすって実だけを食べ
ボクは抜け殻になった房を父の口の中から引き上げる。
要するにボクの指先は父の口の中でみかんの実と一緒に吸われ
ヌメヌメして生暖かい感触が指先に伝わるのだ。
あーなんとも言えないあの感触・・・
いったいなん房食べたら
父はもうイイって言うんだろう。
父がそう言うまで何度も同じことを繰り返した。
食べ終わっても
その手のまま、父の体を揉み続けた。
父が死んだとき
父の唇を、ボクの指先につけたお酒で湿らせてあげた。
その感触はみかんのときのそれと同じだった。
冷たかったがやわらかな唇だった。
週一回の家族そろっての夕食はにぎやかで豪華だった。
外食で行きつけの中華料理店にもよく行った。
そのお店に行くときはタクシーだったか歩いて行ったのかよく覚えていないが
帰りは、ほろ酔い気分の父と二人で歩いて帰ることがたびたびであった。
父が通った小学校脇の細い坂道を、父の背中を押しながら登ったものだ。
馴染みの寿司屋から、食べきれないのではないかとおもえるぐらいの
握りや巻物やおいなりさんがでかい寿司桶に入って出前をとった。
一人前ずつの寿司桶が段々に重ねられていたこともあったが
父はでかい寿司桶で豪華に盛られている握り寿司などを見るのが好きだったようだ。
その寿司屋に母はたまに、時期になると
家で取れた大葉を大量にあげていた、というよりも
出荷していたと言ったほうがよいくらいの量だった。
母はもともと農家の出身なので、シソを大規模に育てるなど朝飯前だったのだ。
母は何の見返りも考えずにそんなことをしていたのだが
ある日、寿司を配達してくれているお兄さんが出前のカブの後ろに
荷が崩れるくらいの量の砂糖袋を積んで我が家に持ってきた。
母は一度は断っていたが、お兄さんがどんどん玄関廊下に袋を積み上げてしまい
結局、廊下のすみにそのままになってしまった。
夕食後しばらくして、父は読書しながら就寝準備となる。
横になっている父のマッサージをボクは始める。
毎回、このマッサージは数時間続く。
数時間以上続くこともある。
翌日のボクの両肩両腕はパンパンになる。
その時の父の読書は
全集物の「日本の歴史」や「世界の歴史」が多かった。
ボクは揉む手を休めずに
後ろからその本たちを読んだ。
父はボクが一緒にそれらの本を読んでいるなんてこれっぽちも、おもっていなかっただろう。
おかげで日本史や世界史のテストの点数は
さほど勉強しなかったのに良かった。
父が亡くなる数年前に、父は自分の蔵書を整理したようだ。
所帯を構えたボクの住所にダンボールで結構な量の本が送られてきた。
その中に「日本の歴史」「世界の歴史」が、すべての巻がそろって入っていた。
ボクの本棚の一番上の段にそれらすべてを並べた。
その段に目をやるたびに、横になっている父の禿げている後頭部を思い出したものだ。
みかんの季節になると
マッサージをはじめてしばらくすると、
みかんが食いたいと父は言う。
「アッ、きたー」とボクはおもい、ちょっとドキッとする。
少しではあるが気持ちの整理が必要になるのだ。
初めてそれをおこなったときは
イヤをとおりこして不思議な感触にドキドキした。
父はみかんの一房を
ボクがはじっこをつまんで
そのまま父の口の中に入れろというのだ。
父はその一房をチュウチュウとすって実だけを食べ
ボクは抜け殻になった房を父の口の中から引き上げる。
要するにボクの指先は父の口の中でみかんの実と一緒に吸われ
ヌメヌメして生暖かい感触が指先に伝わるのだ。
あーなんとも言えないあの感触・・・
いったいなん房食べたら
父はもうイイって言うんだろう。
父がそう言うまで何度も同じことを繰り返した。
食べ終わっても
その手のまま、父の体を揉み続けた。
父が死んだとき
父の唇を、ボクの指先につけたお酒で湿らせてあげた。
その感触はみかんのときのそれと同じだった。
冷たかったがやわらかな唇だった。
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