この日は、絵日記帳の絵だけの日だったようだ。
この絵日記帳はそんな日が何日かある。
生まれた家には風呂はなかった。
僕自身、自宅のたらいの中で生まれた。
そのたらいはボクが成人してからもあったのだが、
アパートを建て替えるときの引っ越しで処分してしまった。
夏暑いときに、母は産気づいた。
お産婆さんを呼ぶために、そんな体で脳天から陽が射す昼日中、
電話をするために近くの赤電話まで歩いた。
たらいの中で生まれたかどうかはわからないが
とりあげられてすぐにそのたらいで産湯をつかったのは確かなようだった。
へその緒を見せられた記憶があるのだが、あれはどこにいってしまったんだろう。
そのたらいをのことは、母から何度か聞いたことがあった。
戦後しばらく父の母とそのアパートで同居していた時期があった。
家は貧乏だった。
銭湯のお金も惜しんだ。
お婆さんは不平不満は一切言わずに、そのたらいを風呂代わりにしていた。
母は農家の出で、貧乏とはどのようなものであるか、そしてそれら苦労は体にしみている。
その母が、お婆さんは我慢強い人だったとため息混じりに言っていた。
明治18年生まれのその祖母は、彦根藩は福島家の武家の出である。
よく時代小説を読んでると、武家の妻や娘の話が出てくる。
このお婆ちゃんの印象は、一本筋のとおったブレのない品のある人、だったなぁ。
武家の躾で育てられると、あんな感じの人になるのかと今もおもっている。
この絵は銭湯なのだが、
家に風呂はなくても、赤ん坊のときからずっと入ってきたので
自分ちの風呂とかわらない。
同級生がこの風呂の息子だったので、良い遊び場でもあった。
この銭湯のおもいではたくさんありすぎて、書ききれない。
もう亡くなってしまった風呂屋のおじさんやおばさんにはたくさん迷惑をかけた。
長い旅行から帰ってきたときや、
所帯をもってから実家に帰ったときなど、
この銭湯の煙突をみると、自分ちに帰ってきたぞとホッとさせてくれる
シンボルチムニーなんだと、いつもおもう。
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