2019年7月7日日曜日

テープレコーダー その19


 山間部を往診し、週末に車で帰宅するということを繰り返していた頃、
父は車が故障してはと自ら車のことを知ろうかと思ったのかもしれない。
「自動車工学」というやや専門的な月刊誌を熱心に読んでいた。
何事にものめり込む父である。基礎的な自動車の仕組みは習得したようだった。

 後年生活にやや余裕ができ、帰宅するにも体力的にやや長距離運転が辛くなったのだろう、脚は電車になった、興味の対象は車から写真になった。
写真機に凝った。ニコン、ミノルタ、ゼンザブロニカ、キャノン、ライカ・・・。
東京日本橋近くのカメラ屋さんと親しくなり出入りするようになる。
新機種が出ると、それ以前のものを引き取ってもらい新しいものを手に入れていた。
それを繰り返した。
生前、遺品のつもりだったのだろう、NikonF一式をお前にやるといって、
結局は本当にそれらが父の形見となってしまった。

 ボクは父の散歩や旅行などに同行することが多かったから、一緒によく写真を撮った。
あるとき、ボクの写真を父が褒めた。
お前はポートレート、人物や人の表情をとらえるのがうまいな、いい写真だ。
自分で言うのも何だが、これと同じことを指摘されることが多かった。

 父は自分の写真を撮れとボクに命じることが多くなった。
鎌倉を散歩しても、京都に旅行をしても、横浜の山の手や野毛を散策しても、必ず数枚は撮らせた。
父の顔写真はたくさんあったはずなのに、どうしたことか父の葬式のときの写真はそれらからのものではなかった。夏に蓼科に家族で遊びに行ったときの湖畔のものと、おばさんが教えてくれた。

 幼い頃のボクの写真はほとんどない。撮る暇もカネもなかったのだ。
小学校高学年頃から高校卒業する頃の写真はたくさん残っている。
父がボクを撮影対象にしたからだった。まぁボクは専属モデル。
そして気に入ったものは、カラー写真の大判に伸ばしたり、白黒でパネルにしたりした。

 撮影対象の花をレンズを通して見るたびに、父は何度となく呟いていた。
おかあちゃんみたいに、花の名前をよく知ってたらなぁ・・・。
母の花の知識とそれらにまつわるウンチク、父は幾度となく聞かされていたのだろう。
母の植物や花への造詣の深さに、これから学ぼうという意欲をそがれてしまったのかもしれぬ。


(つづく)


2019年7月6日土曜日

テープレコーダー その18


 父の家へ電話をかけることはまれであったが、どうしてもというときはかけざるを得なかった。
しかし百回近く呼び出しがなっても出ないのである。運良くつながると、むこうのおばさんがでる。
父をお願いしますと告げて、ようやく父と話す次第となる。

 父に所帯を持ったボクはうちで簡単な喜寿の祝をしたいから招待したいとの内容の手紙を書いた。
父にとって孫である息子を見せに横浜の実家や池袋に連れて行って会わせたことはあったが、一度も我が家には来てくれたことがなかった。なのでそちらまで車で送り迎えも全部ボクがするから是非にとの願いをこめて書いた。車の免許もその頃にとったのが、それが理由だった。

 しばらくして、母からお父ちゃんからだよと封書を手渡された。
池袋の中華料理店で会食するボクと姉の孫四人を前に笑顔の父の写真が2葉同封されていた。

『十六日書状落手 何の風の吹きまわし
か 最近の天候異変は いよいよ人間
にも及んできたらしい

 それでも 手書きで 老父に便りを
よこすとはよいことだ 王陽明の知行合一
の説を俟つまでもない 殊勝さをめでて
壱枚同封 目下ピンチの由 酒でも
飲みたまゑ

来年三月の件 何分七十八才という
高齢にもなると何時どうなるやら
わからないので余り先々のことは一切
きめないことにしているけれども まあその頃
元気だったらゆくつもり

以上取り不敢所要のみ
4・11・19 5a.m.  老父より
** どの』

 コクヨ ケー30 20✕10 の薄緑色の原稿用紙に書かれた父の癖字はしっかりとした手跡だった。
1万円札が同封されていた。普段使いではない方の財布に入れ記念に何年間かは使わずにとってあったのだが、いつのまにかなくなっていた。
ボク宛の父からの手紙はこの一通だけである。
父らしい内容である。
読むたびに、読む時間より余程長い時をどこを見るでもなく想いを馳せる。


(つづく)


2019年7月5日金曜日

テープレコーダー その17


 横浜からみれば、父が新しく生活を始めたところは田舎だった。
噂が広がるのは電話より早いとは暮らしてみての都会育ちの父の発見である。

 忙しい父は当然のことだがそうそう横浜の家へ帰ってこれなかった。
また、夫婦同士の、大人同士の、親戚関係同士の複雑な入り込んだ話し合いがあったかもしれない。
それでも、そのまま子どもたちは育ち、父は稼いだ。

 母は、ボクが小学校高学年になる頃だろうか、父にせっかく電話線も引いたことだし、毎日じゃなくてもいいですから、子どもたちに電話をかけてくれませんかとお願いしたという。
いや、もしかしたら逆かもしれない。子どもたちとのためにと父に頼み込んで、電話債券という高額な支払いをして引いたのかもしれない。

 それから一週間に何度か電話がかかって父と話すようになった。兄姉弟が順番にでることもあったし、ひとりだけでてすぐ切ることもあった。しかし母は一度もその電話にでることはなかった。
そのような電話が先だったのか後だったのかはわからぬが、土曜日の夕方には父が帰ってくるようになっていた。

 それまで必要なときや緊急のときは近所の家に借りていたのだが、これはめったにしなかった。
たいていは小銭を握って、タバコ屋兼乾物屋兼駄菓子屋の店先にある赤い電話で用を足していたようだ。ボクが誕生するとき、母は苦しみながらお産婆さんに電話したのはこの赤電なのだ。そして
おばあさんが湯浴みした盥(たらい)で産湯につかった。

 電話が引かれてすぐに、兄に赤電からかけてみろと10円玉を持たされた。
全速力で赤電に飛んでった。受話器をとりあげて10円玉を入れる。

受話器をとったら先に10円玉を入れるんだぞ、いいな。
受話器をとって、10円玉を入れる、うん、これでいい。

 なんか聞き慣れない音が繰り返されて聞こえてくる、ツーツーって。
ダイアルしようとして、小さな番号が書いている丸い穴のどれに指をつっこんでよいかわからない。
6桁の自分ちの電話番号を覚えていなかった。
我ながら情けぬ。
すっ飛んで家にもどったら、兄がチラシの裏に電話番号を殴り書きしたものを持って待っていた。

バカっ 電話かけるのに番号を知らないでかけられるかよ、ほんとにバカだな、ほらこれもってけっ

さっきよりもっとはやくすっとんで赤電に向かって、落ち着いて10円玉を入れようとしたが、あれっ
10円玉がない、やばい、またおにいちゃん怒られる、どうしようどうしよう・・・

 ねえねえ、と声が聞こえる、受話器をグッと握ったまま目だけ向けると、タバコ屋のおばちゃんが、そこそこと、指さしている。
赤電の機械の下のところの硬貨の返却口を見た。
おっ、10円玉だ。お礼も言わずに、その10円玉とって入れる。
お兄ちゃんが書いてくれた番号をみながら指先をつっこみ、ジー、ジー、ジーとダイアルする。
8や9の数字は回してからもとに戻るのに時間がかかりもどかしい。
1や2だったら次々とすぐに次の数字を回せんるんだけどな。
ルルー、ルルー、ルルー、と呼び出し音がして、兄が出た。

ウフフ、ねぇ、ボク誰だかわかる?
バカッ、電話していきなりそんなこと聞くやつがいるか、

これが、はじめての電話だった。


(つづく)


2019年7月4日木曜日

テープレコーダー その16


 母と父の関係はいわゆる内縁関係というものだった。
当時としてはそれほど珍しいことではなかったとおもう。
戸籍上の正式な婚姻関係は結んでないので、母の戸籍上の姓は旧姓のままである。

 敗戦後、中国の戦地から戻りはしたものの、進駐軍に占領され横浜の市街地はバラックだらけだった。父は父の実家である狭い家とも言えぬ家で数家族と同居し医者として働き始め、稼いだ。

 兄が生まれ姉が生まれ、そうこうするうちに県営住宅に当選し入居した。
4階建てコンクリート2DKのいわゆる文化住宅のはしりだった。
水洗便所が目玉だったのか、台所のダシュトシュートというものがそれだったのかはわからぬが、そのダシュトシュートなるもの、今にしておもえば恐ろしい仕組みのものである。
台所の流しのわきの壁に開閉できる窓口があり、そこを開けると1階から4階まで煙突のようになっている空間につながる。エレベーターを連想すればわかりやすい。
 その窓口から生ゴミだろうがなんだろうが分別などお構いなく、投げ込むと1階まで急降下、ゴミ受けに収まるというとんでもないものだった。ゴミ収集車のあと掃除当番がそこを掃除するのだが、季節によっては臭いがひどく、ウジ虫がたくさんわいていた。
 
 父母は戦地で働いたコンビである。そこのアパートで簡単な診療をして稼いだ。
子どもの頃、木製の本棚として使っていたものがもとは薬瓶の棚だったと知って驚いたことがある。

 ボクが生まれる前後のことだったろうか、よくは知らぬ。
父は別の女性と付き合い、また友人の保証人となったがゆえ、その負債のため窮地におちいってしまっていた。
父は自分の両親と一緒に他県に生活を求め、医院を開業し働いた。ボクたちの家族、あらたな家族、父の実家の家族のために。一年で車を乗りつぶすほど往診をしたという。
夕飯のとき父の、今年は地球を一周半したぞという声をよくおぼえている。
新たな医院の患者の大半は険しい山間部の人たちだった。


(つづく)


2019年7月3日水曜日

テープレコーダー その15


 父は旧制高校のときに病気で休学した。
遅れを取り戻そうと、猛勉強をして飛び級で大学に合格した。
医学部である。そして医者になった。
母と一緒になる以前、父は婿に入り、子を数人もうけていたという。
しかし、結婚生活はそう長くは続かず、離婚している。

母は一度だけ、離縁したその方はどんな人だったんですかと父にきいたと言っていた。
情の薄い人だった。
それ以上父は何も言わず、母ももう何も聞かなかったという。


 父とボクは高校の、父にとっては旧制中学の、同窓生である。
高校の同窓会名簿を見ると、父の名前は婿入した家の姓名でのっている。
その同窓会名簿、父と同世代の連絡先をみると「戦死」が多い。
父の従兄弟は職業「医師」、連絡欄はやはり「戦死」と記されていた。

 ボクがこの高校に合格したとき、父は喜んだ。
いつもどおり土曜日の午後父は帰宅し、いつもの定位置の椅子に座り、新しい制服姿のボクを眺めている。
校歌が当時のままであることに驚き、
制服も詰め襟のところの蛇腹も変わってないんだなと
見つめる目は、どこか遠くに投げやられていた。

 父が家に帰るとき、ボクは父の匂いを感じ、母は耳の穴の奥が痒くなった。
ふたりのその第六感が一致すると、まず間違いなく父の車は家の近くまで来ている。
外れたためしはなかった。

 ボクが生まれ育ったこの県営住宅は、それ以前は学校の敷地だった。
父の母校なのである。
何気なく父が教えてくれる。

南側の公園の右を指差し、あそこの凸凹の階段の上のところに、石の柱があるだろ、
あの柱にこわれた鉄の丁番みたいなのが見えるか?
あそこは裏門のあとなんだよ、

 横浜市街から一山越えて通学しているときはこの裏門からがいつものコースだった。
遅刻しそうになるとあそこの角から抜けてきて、裏門から階段を飛び降りるように教室へ急いだという。

 東側の窪地があるだろ、
以前は鶏屋さんになっていて玉子や鶏糞を販売していたところだ。
あそこにはテニスコートがあってさ、一度もやったことはなかったけどな。
それに、雨が降るとすぐ水たまりになってぬかったよ。

父は母校の跡の県営住宅に入居するとはこれっぽちもおもっていなかったろう。
ボクは父のそんな学生時代の思い出話を聞くのが好きだった。


 中学3年のとき進学先を決めるための三者進路相談のときだった。
担任はボクと母にこの高校とは異なるところを勧める。
当時大学紛争が高校へ飛び火してきていて、担任としてはその恐れがなさそうな高校へと勧めたのだろう。
しかしボクは、心に決めているこの高校に進学したいと、有無を言わさず宣言した。
担任は理由をきいた。
父と同じ高校に行きたのです。
母がうなずくのをみて、担任は渋々了承し、面談は終了した。

 中学校からの帰り道、母がうれしそうにボクの後ろを追うようにして話しかける。
お前はいつからそんなにハッキリものをいうようになったんだい、
お母ちゃんはうれしかったよ、
先生、目を丸くしてたねぇ〜。
ボクは少し胸をはった。母の笑顔が嬉しかった。

 その高校への進学は、情けぬことだが、ボクの唯一の父への親孝行だった。


(つづく)


2019年7月2日火曜日

テープレコーダー その14


 ボクが小学校1年生の頃、おじいちゃんは何でこんなに腑抜けたように気力がないんだろうと子ども心に会うたびにおもっていた。
いつも和服姿におしゃれな下駄履で、寒くなってくるとマントをはおり、帽子と杖はセットであった。身なりはいつだって格好良かったのに、祖父に精気は感じられなかった。
祖父が帰るとき、アパートから坂を下り市電の停留所まで見送った。停留所の前にあるタバコ店で祖父は宝くじを買うついでに、小銭をボクにくれた。
亡くなるまで、祖父の洋装とにこやかに笑う顔を見たことはとうとうなかった。

 祖父の妻、つまりボクの祖母が昭和37年夏に亡くなった。
お葬式のとき祖父がお寺で、祖母のお棺の前で声を上げて泣いている姿をよく覚えている。
子どもの目は残酷だ。
歳をとると、声だけはかすれてヒィーヒィー聞こえるのに、涙をながすことはないのだなと棺の中の祖母よりも祖父の泣き顔を観察するように見ていたことを思い出す。

 それから2年後、祖父が亡くなった。
父はなぜか、母もボク達も呼ばずにさっさと葬式を済ませお骨にしてしまった。
それも祖父の菩提寺である横浜で弔った。ボクの家からそお遠からぬところである。
そのことがなおさら母を怒らせた。
母はめったにないことだが、父に激しくそのことを責めたという。
奥歯が痛くなるほど噛み締め、手のひらには爪あとがずっと残っていたと母は悔しそうにいう。

 母はこの祖父をどことなく怯えていたようにおもう。
祖父母そろって、家に来ることは度々あった。
祖父はいらついた様子で、ちゃぶ台をコツコツと爪でたたく。ボクは祖父のその長い爪先から発せられる、人をあわてさせ落ち着かなくさせる音が部屋中に広がってゆくのがみえた。
そのようなとき祖母は気を利かして、ボクをつつきその指で家の目の前にある公園のブランコを指差す。もう上手にのれるようになったかい、おばあちゃんにみせてごらん。
祖母が言い終わるのを待つことなくすボクはすぐに家を飛び出しブランコを立ち漕ぎしたものだった。

しかし、いつもがそうであったわけではない。
コツコツ、コツコツ・・・、
突然、祖父が怒鳴る。母の名前を呼び、
遅いっ、なにやってるんだっ、お茶一つ入れるのにどうしてそんな時間がかかるんだっ。
母は、ハイともヘェともつかぬ声でカエルのようにぺちゃんこになっていた。

だが、そんな祖父でも母は感謝することも多かったのではなかろうか。

 祖母はボクが生まれる前に、家でしばらく一緒に生活したことがあったのだが、銭湯にも行けないときは、盥(たらい)の一つで湯浴みをしていたという。ボクはその盥で産湯につかった。また夕飯とき祖母にはと煮魚をだし、きれいに骨だけにした後、お湯をかけて標本のようにきれいにたべていたねぇ、とその祖母の我慢強さと質朴さに母は心底、偉い人だと何度もボクに聞かしてくれた。


(つづく)


2019年7月1日月曜日

テープレコーダー その13


 ボクの父方の祖父は、明治11(1879)年生まれである。
明治政府は西欧化に邁進していたが、まだまだあちこち江戸時代の名残以上のものが随所に残っていた頃である。明治の世になったとはいえ、江戸時代後期といってもなんらおかしなことはない。

 祖父は当たり前なことだが、江戸時代に生まれ育った人を親に持ち、そして育てられた。
ボクはその祖父に普通に接していたから、考えてみれば祖父を通して江戸時代の空気を吸っていたことになる。機械だけが昔を記録し伝えるわけではない。

 祖父が15歳のとき1894年、日清戦争が始まった。
それから10年後祖父25歳のとき、日露戦争が始まった。
そしてさらに祖父35歳のとき1914年には第一次世界大戦である。
さらにさらに、1923年祖父44歳、関東大震災である。

 祖父は横浜の繁華街で紙工店を経営していたが、一瞬にして全てを失った。
使用人を何人も雇い、住み込みの従業員も数名いたという。
ちなみにボクの本籍はいまだその会社のあったところの住所になっている。

 しかし、祖父は踏ん張った。
並大抵の苦労ではなかったろう。
会社を再興し、以前にも増して立派な紙工店を経営した。
このときの古地図を見ると、商店街の一角に祖父の名前を店名にした紙工店がある。

 ところが1941年祖父62歳のとき第二次世界大戦が始まり、
祖父66歳のときに5月の横浜大空襲で、横浜の繁華街は一夜にして焼け野原になってしまった。
もう祖父に再び立ち上がる気力は残っていなかった。


(つづく)