2020年1月3日金曜日

白い航跡 上・下 吉村昭 を読んだ

白い航跡 上・下
講談社 1991.4
吉村 昭 著


 いやぁー、感動感銘感涙・・・ 
涙があふれる。

 ジジイは約30年前に、
板倉聖宣『模倣の時代』(上、下)仮説社、1988年。
松田誠『脚気をなくした男 高木兼寛伝』講談社、1990年
などを読んでいる。

 なので高木兼寛の生い立ちや様々な周辺の出来事などは知っていたのだが、「白い航跡」を読んで感動新たにした。

 どうしても脚気論争には触れぬわけにはいかぬ。
石黒忠悳(いしぐろただのり)・森林太郎(森鴎外)一派、現在の東京大学医学部の一派が脚気細菌説に固執したため特に日露戦争で甚大な脚気患者と死亡者をだしたことは当時でも非常に問題視された。

 彼ら一派がときのドイツに留学して師匠としたのがコッホである。ノーベル賞を受賞し日本にも立ち寄った。森鴎外にとってコッホは直接の師にあたる。

 コッホは脚気論争さなかの日本で意見を求められ、
何よりもまずは患者を減らし死亡者をなくすためには、その診断治療法を確立させ、原因やその病理の研究はあとにするのがよいと明快に答えている。

 まったくもってそのとおりの判断なのに、細菌説を唱える一派は師匠の意見を無視、ひたすら一派の理論にこだわった。病人患者を無視して面子にこだわったと批判されてもやむをえまい。

 コッホの唱えたような方針をとらなかったために、戦う前にたくさんの脚気による死亡者を出したことは、陸軍医療をあずかる者たちに責任があるのは明らかだろう。

 現在でも森鴎外にその責任はなかったという書籍があるのだが、これだけの膨大な資料がある中でいったいどこをみてそような主張をしているのだろう。

 文学者としての森鴎外はたいしたものだ。また腸チフス患者を減らしているという功績もある。
しかし、こと脚気に関してはまったくもって鉄面皮、とりつくしまがない。

 論争から間もなくして、脚気がビタミンB1不足によるものであることが決定的になった。
脚気細菌説一派の森鴎外は大正11年に亡くなり、上官であった石黒忠悳は昭和16年96歳でなくなっている。しかしながら、かってその一派にいた医学者や臨床の医者はまだまだたくさんいた。意地悪くかれらの声を聞いてみたいものだと思うのだが、何一つ聞こえてはこぬ。


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