残念ながら今、手元にはない。
図書館にでかけたら、見つけた。
そして借りた。
次男が小学校に入学する前後の頃だったろうか。
近所のスーパーに一緒に出かけた。スーパーの斜向かいに常備薬や洗剤など日用品を扱っている薬局があるのだが、その店頭に硬貨を入れて遊ぶダンボの乗り物があった。
息子はもうそんな齢ではないだろうに、乗りたいと言う。
硬貨を一枚入れて、遊ばせてあげた。
前後に揺られながら、表情はうっとりしている。
近くに焦点が合ってないと思ったら遠くを見つめ、こんどは視線を落として地面を見つめている。
と、今度は遊具の動きにあわせ、頭をゆっくり前後に動かしなが、目線はまっすぐに前を見つめている。
空をひゅぅひゅぅと飛んでいるのだろうか。
草原を並みいるライオンやシマウマをもろともせず、のっしのっし進んでいるのだろうか。
とうとうと流れる川を渡っているのだろうか。
遊具の動きが止まり、顔を上気させた息子はうれしそうに
あぁーおもしろかったとだけいい
手をつないで帰った。
木馬の騎手を読んだ当時、その題名を深く考えることもなかった。
今回再読してみて、著者はなるほどうまい題名をつけたものだとおもった。
この1ダースの短編はすべて、子どもが主人公である。
木馬の騎手である乗りては、子どもであろう。
様々な子どもが乗る。
そしてその様々な子どもから、さらに様々に展開伸張される世界が拡がる。
子どもの性別は男女ほぼ同数だ。
物語は、死んでしまったり、またはそれを匂わせたり、川や沼に沈んでゆく不気味さであったりと、わたしたちの未来は明るくひらけているというのとはほど遠い。
病室の壁に手をあてる圧力、父親に体を押し当てて眠る、また強い力でした指きりげんまんのあとの痛さ、口の中の飴を舌で押し出す、それらは読むものの身体に圧力と擬感触として迫ってくる。
また、電池切れで川に・・・、姉妹の投げた絵の具のチューブが池に沈んでゆく、仕掛けに引っかかって・・・、鳥の血が滴っている・・・では、肉体は平衡感覚が怪しくなり、浮遊し沈殿してゆく。
「おら」だけで語りをすすめる鳥寄せでは、主人公はきっと女の子だろう、ひとなきは聴覚を揺さぶり、かすれてゆく残響は悲しい。
しかしである。
子どもたちの心象は、すべてあっけらかんとしているのだ。
子どもはずっと
木馬の騎手であり続けるのだろう。
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