2016年5月3日火曜日

長男が赤ん坊だった頃のこと

 長男が生まれたとき、仕事は夜だった。
昼間はあいている。
子どもの世話をして、こんなに楽しいことはないとおもい、
とことん子育てにかかわっていこうとおもった。

 夜中に、何かの拍子にふっと目を覚まし、子どもの寝息を確かめに顔をのぞいてみると
目をぱっちり開けて、とてもごきげんにしていることがよくあった。
ところが、こどもの視線はわたしにではなく、わたしの周りに、まるで何人かの人が囲んでいるような感じで目線を動かしている。
それにつられて、わたしは左後ろや右の方へと確かめてみるのだが、もちろん、誰もいない。

 子どもが、目を上の方にあげ天井を見る。
また、わたしもそちらに目をやるが、暗闇があるだけだ。

 どうやらわたしには見えないが、私たちのまわりにいる人たちは、子どもをあやし、ごきげんにしてくれる名人揃いのようである。
子どもはいくつもの表情をみせ、声も発している。
グーにした手を、大きく振ってパタパタさせている。

 良かったねぇ 遊んでもらっているんだぁ

とおもった一瞬、子どもと目が合うのだが、すぐにまた外れてきょろきょろまわりを見始める。

こんなことが、何度あったことだろう。





 子どもが小学生高学年になったとき、この本を手にした。
「短編集モザイクⅠ みちづれ 三浦哲郎」の「おさなご その二」を読んだ時の衝撃はいまだに忘れられない。

少し長いが、引用したい。

 もう何十年も前のことになるが、彼がまだ若々しい父親だった時分に、自分の子供たちが、生
まれて半年ばかりしたころの一時期、彼の目にはなにも見えないけれども子供たちだけには明瞭
に存在するらしい何者かと、いかにも楽しげに談笑したり戯れあったりするのをしばしば目撃し
て、そのたびにしばらく神秘的な幻想に囚われたものであった。
 たとえば、真夜中に、夜ふかしを切り上げて寝室へ入ってみると、母親の方はぐっすり寝入っ
ているのに、隣の赤ん坊はなぜかぱっちりと目醒めていて、けれども、泣くでもなく、ぐずるで
もなく、むしろ上機嫌で、口元に微笑みさえ浮かべていたりする。
 おい、どうしたい、まだ夜中ですよ、と指で頬っぺたを突っついてやったりするが、相手にし
ない、ほかにいい相手がいるからだが、その相手が何物なのかは、わからない。彼にも、子供の
母親にも、全く姿が見えないからである。おそらく、彼等ばかりではなく、大人たちには誰にも
見えなかっただろう。
 けれども、赤ん坊には多分はっきりと見えていて、それはひっそり目醒めているときの目の動
きを見ているとわかる。赤ん坊は、澄んだ黒い目をきらきらさせながら天井の一角をじっと見詰
めていることもあれば、相手の動きに合わせるようにあちらこちらと視線をゆっくり迷わせるこ
ともある。そうかと思えば、まるで流れ星でも追うかのように、ちいさな枕が音を立てるほどの
勢いで頭をくるりと回すこともある。
 そんな目の動きから判断すると、赤ん坊が人知れず交歓していた相手は、羽根でも持っていて
常に宙を浮遊し、飛翔しているものであるらしかった。赤ん坊は、その宙の相手をただ眺めてい
るだけではなく、誰にも通じない、アウ、アウ、という言葉で、ひとしきり何事かについて語り
合うこともあった。もとより相手の声などきこえはしないが、赤ん坊は時としてけらけら笑い出
したりした。なんの合図なのか、唇を尖らせて、ホー、ホー、という優しい声を繰り返すことも
あった。横にひろげた両手を、雛鳥の羽撃のように、じれったそうにぱたぱたと動かしているこ
ともあった。
 いったい、赤ん坊はなにを見ていたのだろう。成長した子供たちに尋ねても、なんの記憶もな
いという。けれども、人は誰でも、なんの汚れもない赤ん坊のころの一時期に、この世とは次元
の違う世界をひそかに経験しているのではないかと彼は思っている。ただ、惜しいかな、誰もが
成長するにつれてその異次元の世界の記憶をきれいに失ってしまうのだ。
 』


 わたしが子どもの表情から感じたことが、なんと精細に繊細に正確に表現されていることか。
この部分を読むと、子どもが赤ん坊の頃のあの不思議な対話が思い出されてしょうがない。



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