2016年6月19日日曜日

翻訳小説 我が意を得たり

 三浦哲郎が随筆で語っている(恩愛)。
(初出は「朝日新聞」1984年11月18日 プーシキンの『大尉の娘』)



『プーシキンの文章といっても、ロシア語ができなければ誰かの翻訳文を読むほかはないが、翻訳
小説を読む場合、私などには、その翻訳が完璧だということよりも、その訳文が日本語の文章とし
て優れていることの方が有り難い。先日も井伏鱒二先生と、この『大尉の娘』のなんともいい場面
を競争するようにして列挙したが、先生は最初、徳田秋声の訳で読んだといっておられた。おそ
らく英訳本からの重訳だろうが、それでもなんともよかったのだから、訳文が優れていたのだろ
う。私は神西清という人の訳で読んでいるが、この人の訳文もまた秋声にも劣るまいと思われる
滋味豊かな名文である。』

 以前翻訳のことについてここに書いたが、わたしの考えを端的に表してくれていることに、嬉しくおもうととともに、自分の文章力のなさにめげる。

 トルストイ全集を読みあさった大学生の頃、特に短編の民話集が大好きだった。
翻訳の文章そのものも、とてもなじめた。
読み終わると、しばらくして、また最初から読んだ。
数度それを繰り返すと、短編映画のように
脳裏のスクリーンに映像化されてくる。
もう小説を手にしなくても、その映画を見ることができるようになったものだ。


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