2016年7月20日水曜日

父と西瓜

 すっかりセピア色に変色した写真の中で、
たくさんの西瓜に囲まれ、まあるい眼鏡をかけた若い父が
ほがらかに笑っている。
 
 この写真について、一度だけ父から
機嫌の良いときに、説明してもらったことがある。

 父は、大東亜戦争のとき中国で
軍属として働いていた。
夏は暑い。
そして乾燥している。

 そんなある日、地元の西瓜農家の中国人から
頼まれごとがあったという。
こんな内容だ。

 今が食べごろの西瓜が見てのとおり
畑にたくさんある。
好きなだけ食べて良いから、その代わり
種だけは食べずに集めて欲しい。

 どうやら現地の中国人たちは
種ごと食べてしまうらしいのだ。
また、種だけを取り出すのも大変な作業であるらしく
日本人は種を食べずに吐き出すということを
どこかで聞いてきたらしい。

 父は仲間たちと、仕事の休みや合間に
来る日も来る日も西瓜を食い続けたらしい。
さぞかしうまかったのだろう。
父のこんな笑顔はめったに見たことがない。

 この写真には、母も写っていた。
説明されるまで気がつかなかった。

 母は職業婦人になるべく、看護婦になった。
看護婦の資格をとるまで、横になって寝たことはないとよく言っていた。
産婆さんの資格もそのときの猛勉でとったのだが、
一度も赤ちゃんは取り上げたことはないと笑っていた。
どのような経緯で中国戦線で働くことになったか聞いたこともないが
中国に渡り、一度日本に帰国して
また中国へ向かった。

 瀋陽の病院で働いた。
いつだったか、グーグルの航空写真でその近辺の写真を見せたことがあった。
瀋陽の列車の駅を見せると、すぐにすべての記憶を蘇らせたようだった。
当時とほぼ同じ、そのままの建物が連なり、
母は、その建物の右側にこんな建物があり、
そこの通りをまっすぐ行くと、これこれの大きなビルがある、と
鮮明な記憶を披露した。

 母が重篤な病気になったとき、満足な医療器具もない戦地の病院で
父からほぼ直結で輸血をし、命を救われたと
母の口から何度も父への感謝を聞かされた。
父母はここで知り合い、自由恋愛をした。
この自由恋愛という言葉を母はよく口にしたが
「お見合いではなく、自由恋愛なのよ」
と強調するのがいつものことであり自慢であった。

 敗戦になり日本に戻った。
復員船などの船で博多に降りたのだが、
この復路の様子だけで、またひとつの物語ができる。
生活が落ち着いてきた頃、瀋陽の病院で勤務していた人たちで
「石門会」という同窓会のようなものを立ち上げ
数年ごとに、東京あたりで旧交をあたためていた。
我が家にも何人かその時の友人たちが泊まりにくることがあった。

 しかし、全員が高齢になり、鬼籍に入る方も多くなり
石門会はなくなってしまった。
その石門会の同窓会誌に母が寄稿したものを読んだことがある。

 母はよく、畳に置いた新聞を、正座のまま体を新聞に折り重ねるように読んでいた。
新聞の一角に、横浜の桟橋に帰還する船の日時が記載されたりしていたようだ。
また横浜駅にも汽車の同様の日時が記されていたらしい。
それで知ったのだろう。

 会誌の中にこんな場面があった。
若い母が、入線してくる汽車の車両の窓を次から次へ
人混みに流されそうになりながらも、その人を探している。
いくつも流れてゆく窓の中に、その人を見つけ
今度はその窓の車両と一緒に、速さを合わせるように走り続ける。
窓の中の人も、汽車を追ってくる母に気づき、窓ガラスを上に開けた。
汽車は停車し、母は開け放された窓の向こうのその人へ
「婦長殿、◯◯であります。どうも長いことお疲れ様でした」と
母は旧姓を名乗るのだった。
背筋をピンと伸ばし、敬礼でもしてるかもしれない母の姿をおもった。


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