「1975年に皇居外苑の半周約5.5キロのサイクリング道路が毎週日曜日に開始された。」
と夕刊の記事にあった。
ボクは開始まもなくからアルバイトをした。
看護婦さんが常駐したのだが、その看護婦さんの紹介で始めた。
毎週日曜というのが少々つらかったが、休むことなく3年ちょっとお世話になった。
自転車は趣味の一つで、自分でもドロップハンドルのサイクリング自転車を所有していた。
バラシと組み立ては工具も自前で持ち、一通りのことはできていた。
運営は自転車振興会が行っており、もと競輪選手や現役の自転車屋さんから
たくさんのことを教わった。
自転車の修理を受け持つこともあったし、サイクリング道路を自転車に乗りながら巡回したり、
ポイントに立ち安全指導などがその仕事内容だった。
桜田門にある警視庁からおまわりさんが自転車を何台も修理で
持ってきたこともあった。代金を取ったかどうかは覚えていない。
朝一番は大変であった。
それぞれの持場で車両をサイクリング道路から追い出さないといけないからだ。
こちらに向かって走ってくる車両の中には、なるべく目的地に近いところまで行きたいので
誘導員の指示に従わずそのまま無視して走り抜けようとする車がいるのだ。
そのような車の前に立ちふさがり、交差点で追い出すのは勇気が必要であった。
少しでもためらうような素振りを見せると車はほとんどそのまま突っ込んでくる。
進行方向に立ちふさがり、片手を誘導する方向に示しながら、決して逃げてはいけない。
なので、朝一番の追い出しの仕事は、場数を踏んで慣れている経験者が行っていた。
受付でお客さんに対応することもあった。
あるとき帽子をかぶってややうつむき加減に歩いてきた外国のお客さんがいた。
ボクはハッとして心臓がドッキンドッキンした。
ジョン・レノンだった。
パレスホテルか帝国ホテルに泊まったのだろうか。
お忍びの散歩がてらにここまで来たようだった。
連れが一人いたような記憶があるが確かではない。
周りの仲間達は気づいていないようだった。
「ありがと」で日本語で言い、自転車乗り場の方へ歩いて行った。
顔色がやけに白かったのが印象的であった。
休憩時間が比較的長くとることができ、
バイト仲間には自転車に乗れない子どもやご婦人を手伝ったりしている者もいた。
ボクはよく芝生の上で、相撲をした。
相手はボクと互角で、何番も取ると、もうその後のバイトなんかできる状態ではなくなるくらい
力いっぱいやった。
芝生に仰向けに寝転がり、ハァハァーしながらみた青空、気持よかった。
巡回の担当になると、一日でだいたい100キロちかく走っていた。
真冬で空いているときなどは、寒いのでひたすらペダルをこぎ200キロ以上走ったこともある。
バイトをしているのか、遊んでいるのかわからないのだが、
別段とがめられることはなかった。
日当は4000円位ではなかったかとおもう。
昼食は食券がでたりした。
現金で500円くらいもらったこともあったかもしれない。
竹橋に毎日新聞本社がある。
昼食にそこを利用させてもらうことも多かった。
社員専用出入り口のドアーを入ると、右側に警備員の詰め所があった
本当はいけないのだが、社員の出入り口から警備員に断って利用していた。
当時は警備もおおらかだった。
バイトのときの服装は、上着だけ黄色いジャンパーみたいのを着て、腕章をしていた。
警備員の方はその服装がサイクリング道路のバイトと知っていたようだ。
セルフサービスの食堂で、働き盛りのやや年配の男性社員と知り合いになった。
その社員から話しかけられたのが発端だが、
ボクは新聞社の食堂をほぼ無断で使わせてもらっている引け目から、
その方の質問などにはすべて正直に答えていた。
学生生活のことやバックパックで欧州を貧乏旅行したことなど、
そしてボクが就職活動にそろそろ入る時期になっていたことも話した。
その方はとはナゼか食堂を利用するたびに顔を合わせることが多かった。
あるとき、その方はうちの新聞社を受けてみないかと、
封筒に入った応募用紙を手渡してくれた。
ボクは自分で稼ぐ社会人になるスタートラインにならばされた気分がして
ちょっとうろたえた。
そんな覚悟はまだできていなかったのだ。
お気楽な大学生であった。
その日、帰宅してからその応募用紙を封筒から出して、まじまじと見た。
名刺がはさんであった。
役職名を見て、ブルっとした。
今はもうなくなったかもしれないが、
楠木正成公の銅像のそばに、おみやげ屋さんをしながら、食事ができるお店があった。
ある時、そのお店が食中毒のために、何日か営業停止になってしまった。
12月も押し詰まった時だったとおもう。
後にも先にもあのとき1回きりだったが、その店で簡単な忘年会をすることになり
バイト仲間も無料招待された。
忘年会というとコース料理が通常だが、好きなものを好きなだけ食べて良いという。
遠慮なく、メニューにのっている料理を片っ端から注文した。
自転車振興会の人たちはビールを飲みながらであったが、バイト仲間たちはひたすら食った。
みんな食べ盛りである。
お店の人たちの会話が聞こえてきた。
どうやら大丈夫そうね・・・
なんのことだろうとおもったが、わからなかった。
満腹になり、ボォーとしていたら
気がついた。
営業許可が再びおりてお店は一通り、メニューすべてを試したかったようだ。
バイト仲間はその実験台だった。
気づいても、もう遅い。
帰りの電車の中ではそんなことは忘れて、うとうと寝入ってしまった。
サイクリング道路は距離が短くなったとはいえ41年間も続いていることになる。
環境保護ということもあるのだろうが、なにはともあれ良いことである。
当時は皇居マラソンをしている人たちは現在ほどではなかったような気がする。
新緑の柳を見ながら、車を気にしないで、
ランニングをしても自転車で走っても気持が良い。
40年ぶりにでかけて走ろうとおもう。
これからもずっと続いてほしい。
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