ボクは小学生。
その日は家族で初めて由比ヶ浜に海水浴に出かける日だった。
ボクはうれしくってうれしくってしょうがなかった。
父の車の後ろの席で、さっき捕まえたシオカラトンボに
肉まんの切れ端をあげて、
後は母がくれば出発になる、そのときを待っていた。
シオカラトンボは肉まんに食らいつき
飛んで逃げるそぶりを、これっぽっちも見せず
結構な量を食べていた。
そんなことをしながら
何度か後ろを振り返るのだが
母がくる様子はなかった。
兄がちょっと見に行ってこようかというと
「いいっ」と父のいらついた声がした。
それからまたしばらく待った。
父は大きな声で
「なにやってんだ」と怒鳴るでもなく言うと同時に
車を発車させた。
と、そのとき
建物の影から母が現れた。
小走りに髪を少し乱れさせながら走って来た。
しかし
車は速力を増し、母との距離は開き
やがて母は見えなくなった
肉まんにとまったままのシオカラトンボは車の中で飛び立とうともせず
羽根をひろげたままであった。
浜で逃がしてあげた。
海水浴は楽しかった。
笑顔満面の浜での写真に、母の姿はなかった。
日焼け顔で戻った、その日の夕飯で
母は「海水浴楽しかったかい」ときいた。
ボクは浜で過ごしたことをあれこれと話した。
「そうかい、そうかい、それはよかったね」と
ふだん通りの母の声であった。
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