たった1年間の元治年間のあとは、いよいよ江戸時代最後となる慶応年間になります。
しかし慶応改元の記述は見られず、明治になってしまいます。
慶 応 四年 辰 年
けいおうよねんたつどし
改 明 治元 辰 年
あらためめいじがんたつどし
一 上野東叡山戦争、官軍様勝利、
ひとつ うえのとうえいざんせんそう、かんぐんさましょうり、
関東徳川様家来敗北の様子、
かんとうとうがわさまけらいはいぼくのようす、
五月廿三日飯能戦争、是も官軍様勝利、
ごがつにじゅうさんにちはんのうせんそう、これもかんぐんさましょうり
徳川様家来脱走人敗北、廿四・廿五日落人参ル
とくがわさまけらいだっそうにんはいぼく、にじゅうし・にじゅうごにちおちうどまいる
上野御本堂焼失、中堂共不残、飯能宿不残焼ル
うえのごほんどうしょうしつ、なかどうとものこらず、はんのうしゅくのこらずやける
一 七月十四日夜、徳川脱走と申新立江参り主侍三人、
ひとつ しちがつじゅうよっかよる、とくがわだっそうともうししんだてへまいりしゅじさんにん
源左衛門ニ用向次第申立候ニ付
げんざえもんにようむきしだいもうしたてそうろうにつき
参上致金子差出し可申事ニ付、
さんじょういたしきんすさしだしもうしべくことにつき
無之趣断候得ば大勢押而参ル趣ニ付、
これなくおもむきことわりそうらわばおおぜいおしてまいるおもむきにつき
無余儀、金□両差出し、
よぎなく、きん□りょうさしだし、
岩鼻様江御届ケ、金廿三両書上致、
いわはなさまへおとどけ、きんにじゅうさんりょうかきあげいたし
大難渋いたし申候
だいなんじゅういたしもうしそうろう
ここ上名栗・下名栗村は飯能村から20数キロ離れ、当時は米も育てられない山奥の僻地と言って良い場所でした。ところが林業は盛んで西川材という杉を筏を組んで江戸まで運び潤ってました。
江戸の材木商たちが集まる地域に店を持ち、そこから江戸や全国の政治経済や噂話などかなり正確な情報を得てもいました。
いつもどおり、改元についてはいたって事務的にしか記述されていません。
そんなことよりも、世情のほうがはるかに大事とばかり、結構詳しく状況を記しています。
ざっとこんな感じでしょうか。
上野の東叡山戦争は官軍様勝利であった。
関東徳川様家来は敗北の様子である。
5月23日の飯能戦争でも官軍様勝利だった。
徳川様家来の脱走・敗残兵が24,25日にここにもあらわれた。
上野の御本堂は焼失し中堂なども残らず焼けた。飯能宿も残らず焼けた。
7月14日夜、徳川脱走の侍3人が新立へあらわれ、
平沼源左衛門宅にお願いがあると一方的に押しかけ
お金を要求された。
もし断ったりしたら大勢で押しかけるぞと脅され
やむなく、金○両を出し
あとでその旨岩鼻代官所へ金23両渡したことを届けた。
大変に困った出来事であった。
とまぁ、敗残兵たちは押し込み強盗のようなことまでしていたことがわかります。
これらのことは飯能近辺のことではなく、江戸周辺のどの街々村々でも起こっていたとおもいます。
つづく