2019年1月11日金曜日

改元5

 辰九月廿二日の日付の次の頁にいきなりあらわれます。

一   明 治元 年 辰 年 と相 成 候
ひとつ めいじがんねんたつどしとあいなりそうろう

一  江戸表  東 京  府と相 成 候    古 道 具屋多 し 大 変 之事
ひとつえどおもてとうきょうふとあいなりそうろう ふるどうぐやおおし たいへんのこと

一  江戸表  武家之儀者駿 府行 被仰 付 、
ひとつえどおもてぶけのぎはすんぷゆきおおせつけ、

猶 又 朝  臣 ニ相 成 候   者 東 京  府住 居 候   、
なおまたちょうしんにあいなりそうろうものとうきょうふすみおりそうろう、

百  姓  町  人 ニ落 入 候   者 も有之  候   、
ひゃくしょうちょうにんにおちいりそうろうものもこれありそうろう、

外 くるハの御屋敷 取 払  御領  地上  知相 成
そとくるわのおやしきとりはらいごりょうちじょうちあいなり


明治元年辰年と相成った。
江戸は東京府と名前を変え古道具屋が繁盛し町は大変に騒がしいとのこと。
江戸にいた武士たちは駿府へ行くもの、
または新政府に使え東京に住むもの
百姓町人になってしまったものもいた。
城外の屋敷は取り払われ領地は没収された。

 武士社会は崩壊し、慶喜が駿府へ下り一緒に行動をともにしたものや、明治新政府で役人になったもの、または食い扶持が得られないものは百姓や町人になって食べてゆかねばなりませんでした。

 明治新政府が国造りのための根幹となる精神を国民に植え付ける上で、改元を天皇の代かわりとと結びつけ学制を整え皇国史観を全面に押し出して富国強兵を目指しました。

 慶応よりあとの改元はそれまでのものとは全く意味も概念も異なるものとなってしまいました。
さて、孫子の世代では元号の扱いはどうなるのでしょうか。
慶応以前と同じような至って事務的なものになる気がしますし、そうなってほしい。



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