ジジイの住んでおるところから山深く入ったところに、かって上名栗、下名栗村というところがあった。江戸時代後期、そこの平沼源左衛門さんという名主が「古今稀成年代記(ここんまれなるねんだいき)」という日記のような記録のようなものを書き残していた。代々引き継がれたようで弘化3年(1846)〜大正8年(1919)までの74年間ではあるが大きな時代の節目の記録として貴重なものだろう。
改元した年の記録だけを抜き出してみた。
一 万 延 元 年 と年 号 閏 三 月 一日 御府内 御触れ、
ひとつ まんえんがんねんとねんごううるうさんがつついたちごふないおふれ、
名栗 閏 三 月 十 六 日 拝 見 いたし候、
なぐりうるうさんがつじゅうろくにちはいけんいたしそうろう、
切 杉 八 寸 より九 寸 迄 長 サ弐丈 壱 丈
きりすぎはっすんよりきゅうすんまでながさにじょういちじょう
御本 丸 様 御普請 ニ付 お入 用
ごほんまるさまごふしんにつきおいりよう
あっさりとしたものだ。改元が特に珍しいものではなく、年がら年中行われていたためだろう。
明治政府から現在に至るまで国体護持を強調して年号の扱いを厳しく取り締まった。
公用文書は元号でなければならぬとか様々な混乱をみるなか法律で元号法を1979年にさせたりした。
時代の流れではなく、もともと押し付けたのが間違いだった。
今度は政府は免許証は西暦併記でもよいと言っているそうだ。
元号はそれぞれの時代を醸し出す表札のようなものでよろしい。
話をもとに戻す。
切杉云々は、前年の安政6年10月17日に江戸城出火、その本丸普請のために、西川材という杉が入り用になったということだ。名栗あたりは西川材の有力な産地で、現在でもその名残の製材所や材木屋さんがある。西川材のいわれは単純で、江戸の西からやってくる材木の総称。
つづく
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