2016年2月に購入したバッテリーが今月7月に「交換修理」表示されて、返品交換した。
水曜日にROWA JAPANのHPより連絡したら即、返信メールが入った。
メールで2度やり取りして、翌日木曜日の午後に発送したら2日後の土曜日夕方に交換品が到着した。
対応の速さは満点です。
保証期間3ヶ月は短いけど、6ヶ月後でもこちらが返送料負担したものの、交換してくれたのは
まぁよかったかな。
でも、充放電回数28回で「交換修理」表示は早すぎ。
当たり外れがあるような商品みたいだけど、今回はどうでしょうか、心配です・・・
2016年7月31日日曜日
2016年7月29日金曜日
高額すぎる退職金とお給料
SOFTBANKの前副社長アローラ氏の退職金が68億円だと!
2014年に入社してから氏に支払った合計額は400億円だと!!
最初から契約に入っていたということだが、
雇う方も雇われる方も狂っている。
自分とこの従業員のやる気をそぐだろうということがわからんのかね。
SOFTBANKの商品なんか金輪際、使うもんか。
日本は会社などの役員の報酬が諸外国に比べればまだましだといわれてるが
是非これからも、役員の高額報酬は真似しないでほしい。
いくら自分が起業し育て上げた会社だからといって、
天井知らずに報酬を上げ、ますます、鰻登り。
こちとらその鰻だって、この10年食ってない。
その会社で雇った従業員のモチベーションは下がるし、
まるで軍隊の歩兵と大将みたいでやだね。
歩兵は使い捨てか。
自分が使い切れないくらいの報酬をとるんだったら
その分を従業員に回してもいいし、もっと正社員を増やしてもいいじゃないか。
従業員の厚生に使ったっていいだろうし、いくらだって使い方はあるはずだ。
日本の国家公務員でも地方公務員でもいいけどそれらの公務員の給料体系程度の
給料差が妥当なところなんじゃないかな。
日産のゴーン氏も批判を受けているけど、あたりまえだ。
本人は教育援助に云々と言っているらしいけど、
報酬額を減らすなんて考えてもないようだ。
高額報酬の役員さん達は、給料伝票をみて
ふぅー、と溜息をついた頃をお忘れらしい。
彼らの会社や工場には、汗水流し、タダ働きしているような労働環境もあるとおもう。
えばっている居丈高な上司もたくさんいて、ぺこぺこコメツキバッタな従業員だっているだろう。
コメツキバッタはパッコンパッコンしながら最後は
パッコーーーンって
高く跳ね上がって、裏返ってたのが元に戻って、どこかに行くんだよね。
啖呵きって、去ってゆくなんて格好いい。
そのあとがどうなるかわからないところが
悲しいんだけどね・・・
官僚の天下りだって、喉元をすぎれば
あちことで行われている。
会社役員たちの報酬だって、いつからこんなになっちゃたんだろう。
みんな、お手盛りが大好きな人間だよ。
一緒に働く会社の仲間という感覚がないんだろうね。
一方じゃ、ノーベル賞をとるような人でも、
特許料で莫大な財産を得るようなことがあっても、
自身の生活は庶民生活そのもので、
余った財産はまわりの人たちに喜ばれるような諸活動にまわしている。
そういった人たちがいるってことで
いくらか、ボクの気持ちは救われるな。
異常に高額な報酬をもらっている役員のみなさん、
初めて給料伝票をもらったときのことを思い出してくださいな。
あっ、でもこれはダメか。
こんなはした金の給料なんて、いつか億を超える額を稼いでみせるっていうのが
動機になっているんだったら
今がその時なんだものね。
きっと幸せなんだ。
そのうち、そういった会社の
不買運動が起こるといいな。
まっ、ボクはSOFTBANKの商品は買わないよ。
2016年7月28日木曜日
昨日は誕生日でした
2016年7月27日 わたしの誕生日でした♪
何通かのおめでとうメールがありました。
うれしいね。
昼過ぎに四捨五入100歳の母から電話があり、
直々におめでとうと、元気な声をきかせてくれました。
枝豆を食べなさい、あれは栄養があるからいいのよ、と
とっくに60をこえたわたしをいつまでも心配してくれるのでした。
ありがたいね。
だけど
昨年はわたしの誕生日を間違えていて、正しい日を教えました。
学習効果はあったようで、今年はOK。
めでたしめでたし。
何通かのおめでとうメールがありました。
うれしいね。
昼過ぎに四捨五入100歳の母から電話があり、
直々におめでとうと、元気な声をきかせてくれました。
枝豆を食べなさい、あれは栄養があるからいいのよ、と
とっくに60をこえたわたしをいつまでも心配してくれるのでした。
ありがたいね。
だけど
昨年はわたしの誕生日を間違えていて、正しい日を教えました。
学習効果はあったようで、今年はOK。
めでたしめでたし。
2016年7月27日水曜日
息子の結婚式に参列した
2016年7月24日 日曜日
息子の結婚式でした。
その日にあわせて、まずはバス停まで歩いていかなければなりませんから
約10日前から、リハビリを開始しました。
初日は、両膝が痛くなるわ、半分くらいところでハーハーするわで、なんとか往復できました。
次の日は前日よりも少しは楽に、そしてその次の日は、また少し楽に歩けましたが、
膝や下半身の筋肉がこれほど衰えていることに、愕然としました。
1週間ぐらいしたら、筋肉痛や、膝の関節痛がではじめて、この先大丈夫かなとやや不安に。
2015年の2月と12月に発作性心房細動のカテーテルアブレーションの手術を行ったものの、
再発してしまい、現在は薬を服薬治療中で、体を動かすことと言えば
スーパーへ車で買物や図書館に行くくらい、あとは家の中での生活でした。
1回めの手術の後は、散歩などや汗をかく作業などできる状態になったのですが、
2回目以降は、あまり活動しなくなってしまいました。
なので、今回はまずはバス停までずっとゆるい坂道を歩き、
電車2本を乗り換えて、また歩いて式場へ
片道約3時間弱、不安でした。
どの駅にもエレベーターやエスカレーターが設置され、大助かりでした。
時代は変わったのだなぁと感じた次第です。
式は眺めの良い高層階にあるチャペルでした。
親族のみの、両家で10人程度のこじんまりとしたものでしたが、
あたたかい雰囲気の中でとり行われました。
神父さんがどこかで見た人だなとおもっていたら、
「所さんのニッポンの出番」にたまに出演する西洋人の方でした。
ちょっとしたサプライズでおかしかったなぁ。
それにテレビではわからないけど、
神父さんは長身で、履いている靴が40cmはあるのではないかとおもうくらいデカかった。
息子の靴は35cmくらいかなぁ。
式の中で賛美歌を2曲歌うのだけれど、
やはり歌えた。
子どもの頃の日曜教会を思い出しました。
披露宴も和やかに進み、お料理もおいしく量もたっぷりで
新郎新婦の心配りが感じられ、
父として静かに感じ入ること多かったのであります。
新婦のお父様の気持ちはいかばかりであったでしょう。
披露宴は無事終了し
礼服一式は宅配し、帰路に備えました。
日曜の夕方、どこも混雑していましたが、
なんとか帰宅して、下半身がジーンとして
やはり、疲れたのでした。
夜、休んでいると不整脈がでました。
ベッドに入るまでには止まり
充実した一日は終了しました。
息子夫婦のこれからの幸せを祈りました。
めでたしめでたし・・・
息子の結婚式でした。
その日にあわせて、まずはバス停まで歩いていかなければなりませんから
約10日前から、リハビリを開始しました。
初日は、両膝が痛くなるわ、半分くらいところでハーハーするわで、なんとか往復できました。
次の日は前日よりも少しは楽に、そしてその次の日は、また少し楽に歩けましたが、
膝や下半身の筋肉がこれほど衰えていることに、愕然としました。
1週間ぐらいしたら、筋肉痛や、膝の関節痛がではじめて、この先大丈夫かなとやや不安に。
2015年の2月と12月に発作性心房細動のカテーテルアブレーションの手術を行ったものの、
再発してしまい、現在は薬を服薬治療中で、体を動かすことと言えば
スーパーへ車で買物や図書館に行くくらい、あとは家の中での生活でした。
1回めの手術の後は、散歩などや汗をかく作業などできる状態になったのですが、
2回目以降は、あまり活動しなくなってしまいました。
なので、今回はまずはバス停までずっとゆるい坂道を歩き、
電車2本を乗り換えて、また歩いて式場へ
片道約3時間弱、不安でした。
どの駅にもエレベーターやエスカレーターが設置され、大助かりでした。
時代は変わったのだなぁと感じた次第です。
式は眺めの良い高層階にあるチャペルでした。
親族のみの、両家で10人程度のこじんまりとしたものでしたが、
あたたかい雰囲気の中でとり行われました。
神父さんがどこかで見た人だなとおもっていたら、
「所さんのニッポンの出番」にたまに出演する西洋人の方でした。
ちょっとしたサプライズでおかしかったなぁ。
それにテレビではわからないけど、
神父さんは長身で、履いている靴が40cmはあるのではないかとおもうくらいデカかった。
息子の靴は35cmくらいかなぁ。
式の中で賛美歌を2曲歌うのだけれど、
やはり歌えた。
子どもの頃の日曜教会を思い出しました。
披露宴も和やかに進み、お料理もおいしく量もたっぷりで
新郎新婦の心配りが感じられ、
父として静かに感じ入ること多かったのであります。
新婦のお父様の気持ちはいかばかりであったでしょう。
披露宴は無事終了し
礼服一式は宅配し、帰路に備えました。
日曜の夕方、どこも混雑していましたが、
なんとか帰宅して、下半身がジーンとして
やはり、疲れたのでした。
夜、休んでいると不整脈がでました。
ベッドに入るまでには止まり
充実した一日は終了しました。
息子夫婦のこれからの幸せを祈りました。
めでたしめでたし・・・
2016年7月23日土曜日
母とチャイナ・ドレス
写真館で撮ったのだろうか、白黒の写真がある。
キャビネサイズだ。
母がチャイナ・ドレスを着て、切れ味を感じる。
表情は自身にあふれ、目線はブレずにこちらを見ている。
その写真を初めて見たとき、
母はスパイだったのではないかとおもった。
実は今でも心の片隅にそうおもっている部分がある。
母は大東亜戦争以前から
中国は瀋陽で、日本軍の軍属が運営する病院で看護婦として働いていた。
中国語とは無縁の農家の長女が当時、外地で働くことに両親は心配したことだろう。
満州国で勤務しなかったのは何か訳があったのだろうか。
母は家では、戦争の時のことを普段と変わることなく、何でも話していた。
ところがボクがやや細かいことなどを聞くと、
いいの、いいの、と言ったりしてごまかすことがよくあった。
子ども心に
アヤシイと感じた。
全く中国語を解しなかった母は、病院で勤務しながら
診察に来る患者や、病院で勤務している中国人に教わった。
そこの病院で働いていた父が言うには、
母はあっという間に中国語をものにしてしまったという。
病院内だけでなく、中国語で困ったときには母に声がかかることが多かったそうだ。
日本の将校もやってきたが、そのときも通訳をした。
以前実家に帰っているときに、新聞の集金人がやってきた。
母が中国語を話し、玄関がにぎやかなので
ボクもいってみた。
集金人は若い中国人だった。
顔を真赤にして嬉々としていた。
母の両手を握り、上下に揺さぶりながら
大きな声で中国語をしゃべっていた。
「まるで中国にいるおばあちゃんとしゃべっているみたいです。
懐かしいです。おばあちゃんのしゃべっている中国語は少し古くって
ぼくのおばあちゃんやおじいちゃんがしゃべっている中国語なんですよ。
ほんとにお上手ですね、中国に帰りたくなってしまいます・・・」
きっと翻訳するとこんなことをしゃべっていたのだとおもう。
しかし、将校の中には中国語が堪能であっても、全くわからないふりをする者もいた。
通訳が違ったことを言っているのではないかどうか、チェックしたのだろう。
また、中国語がわからないとおもっている中国人のうわさ話などに聞き耳を立て、
情報収集をしていたかもしれない。
母はそのような将校から、秘密の指令を・・・
アヤシイ
父が軍歌を歌っているところを見たことも聞いたこともない。
しかし、ハーモニカはうまかった。
もしもし亀よ・・を伴奏入りで聞かせてくれたことがあった。
それまでに、そんな上手な演奏を聞いたことのなかったボクは
体が棒のようになったまま固まってしまった。
父がハーモニカを両手でくるむようにし、頭部をやや左側に傾けて演奏する姿は
格好良かった。
そんな父は
軍歌は、兵隊さん達の青春歌でもあるんだと言っていた。
内容がどうであれ、若い時に仲間と歌った歌はいくつになっても歌いたいもんだ
酔うとそんなことを父からよくきいた。
でも、父は軍歌を決して口にしなかった。
父は軍医として働くこともできたはずだが、しなかった。
母は、李香蘭の支那の夜をよく口ずさんでいた。
ボクも歌える。
母の歌ったように歌える。
他の軍歌も、何番までも続く歌詞をよどみなく歌っていた。
森村誠一が731部隊のことを、小説で発表したときのことだ。
恐ろしい狂気の蛮行をした日本軍のことが書かれていた。
新聞やマスコミなどいっときはずいぶんと放送された。
母はテレビやラジオの、やや眉唾ものの話題を
意外と信じてしまい、さらに自分で試さなくては気がすまないたちであった。
紅茶キノコの時は、台所だけでなく狭い廊下にも薄茶色のクラゲみたいなものが
梅酒用の広口な瓶の口を塞ぐぐらい大きく育っていた。
そんな瓶がゴロゴロしていた。
味見をさせられたボクは、酸っぱくって爽やかで気に入ったのだが、
こんなものがゴロゴロされたのではかなわないので、
できるだけ不味い表情を作って、
全部捨ててくれとお願いしたものだ。
「そうかい」と残念そうな母は
しばらくして、すべてを台所の流しにぶちまけて捨てた。
流しは詰まった。
あたりまえだ。
あんなものが流れるわけがない。
チョコレートを包んでいる銀紙にも凝ったことがある。
膝の関節にあてると、関節痛がよくなるというのである。
どの銀紙でも同じだろうとボクが茶々を入れると
ムッとした母は
「明治の板チョコの銀紙じゃなくちゃだめなのよ」
と返した。
なんともその先の言葉に詰まったボクは
中身のチョコレートをずっと食べるはめになってしまった。
そんな母は、731部隊の話題には反応しなかった。
無視しているというより、かたくなに強い意志で拒絶しているように見えた。
テレビでその話題が出るたびにチャンネルを変えていたのでは
鈍いボクにでも、感づかれてしまう。
当時の母の仲間であった看護婦の中には
敗戦時の場所が、ウランバートルにいた者もいたのだ。
好奇心の強い母が、それらの蛮行を知らなかったはずがない。
この頃には単に
あやしい
とおもうだけではすまなくなっていた。
しかし、時間にだらしがなく、数々の遅刻常習遍歴を持つ母が
スパイなど務まるわけがない、とも考えた。
本物のスパイは様々なカモフラージュを施す。
本物の凄さを知らないだけかもしれない。
いくら凄腕であっても、
ボクの結婚式にまで遅刻したのは、凄腕仲間トップ3に入ってこそ
できることなのだろうか。
中野のスパイ学校卒の将校に鍛えられると
そこまでできるのだろうか。
やがてマスコミもテレビでもそれらの話題はされなくなっていった。
母は内心、ホッとしていたかもしれない。
母が自分から話すのなら聞いてみたい気もしたが
わざわざボクから母の心を乱すような事柄を
つっこむこともあるまいと
今はおもっている。
キャビネサイズだ。
母がチャイナ・ドレスを着て、切れ味を感じる。
表情は自身にあふれ、目線はブレずにこちらを見ている。
その写真を初めて見たとき、
母はスパイだったのではないかとおもった。
実は今でも心の片隅にそうおもっている部分がある。
母は大東亜戦争以前から
中国は瀋陽で、日本軍の軍属が運営する病院で看護婦として働いていた。
中国語とは無縁の農家の長女が当時、外地で働くことに両親は心配したことだろう。
満州国で勤務しなかったのは何か訳があったのだろうか。
母は家では、戦争の時のことを普段と変わることなく、何でも話していた。
ところがボクがやや細かいことなどを聞くと、
いいの、いいの、と言ったりしてごまかすことがよくあった。
子ども心に
アヤシイと感じた。
全く中国語を解しなかった母は、病院で勤務しながら
診察に来る患者や、病院で勤務している中国人に教わった。
そこの病院で働いていた父が言うには、
母はあっという間に中国語をものにしてしまったという。
病院内だけでなく、中国語で困ったときには母に声がかかることが多かったそうだ。
日本の将校もやってきたが、そのときも通訳をした。
以前実家に帰っているときに、新聞の集金人がやってきた。
母が中国語を話し、玄関がにぎやかなので
ボクもいってみた。
集金人は若い中国人だった。
顔を真赤にして嬉々としていた。
母の両手を握り、上下に揺さぶりながら
大きな声で中国語をしゃべっていた。
「まるで中国にいるおばあちゃんとしゃべっているみたいです。
懐かしいです。おばあちゃんのしゃべっている中国語は少し古くって
ぼくのおばあちゃんやおじいちゃんがしゃべっている中国語なんですよ。
ほんとにお上手ですね、中国に帰りたくなってしまいます・・・」
きっと翻訳するとこんなことをしゃべっていたのだとおもう。
しかし、将校の中には中国語が堪能であっても、全くわからないふりをする者もいた。
通訳が違ったことを言っているのではないかどうか、チェックしたのだろう。
また、中国語がわからないとおもっている中国人のうわさ話などに聞き耳を立て、
情報収集をしていたかもしれない。
母はそのような将校から、秘密の指令を・・・
アヤシイ
父が軍歌を歌っているところを見たことも聞いたこともない。
しかし、ハーモニカはうまかった。
もしもし亀よ・・を伴奏入りで聞かせてくれたことがあった。
それまでに、そんな上手な演奏を聞いたことのなかったボクは
体が棒のようになったまま固まってしまった。
父がハーモニカを両手でくるむようにし、頭部をやや左側に傾けて演奏する姿は
格好良かった。
そんな父は
軍歌は、兵隊さん達の青春歌でもあるんだと言っていた。
内容がどうであれ、若い時に仲間と歌った歌はいくつになっても歌いたいもんだ
酔うとそんなことを父からよくきいた。
でも、父は軍歌を決して口にしなかった。
父は軍医として働くこともできたはずだが、しなかった。
母は、李香蘭の支那の夜をよく口ずさんでいた。
ボクも歌える。
母の歌ったように歌える。
他の軍歌も、何番までも続く歌詞をよどみなく歌っていた。
森村誠一が731部隊のことを、小説で発表したときのことだ。
恐ろしい狂気の蛮行をした日本軍のことが書かれていた。
新聞やマスコミなどいっときはずいぶんと放送された。
母はテレビやラジオの、やや眉唾ものの話題を
意外と信じてしまい、さらに自分で試さなくては気がすまないたちであった。
紅茶キノコの時は、台所だけでなく狭い廊下にも薄茶色のクラゲみたいなものが
梅酒用の広口な瓶の口を塞ぐぐらい大きく育っていた。
そんな瓶がゴロゴロしていた。
味見をさせられたボクは、酸っぱくって爽やかで気に入ったのだが、
こんなものがゴロゴロされたのではかなわないので、
できるだけ不味い表情を作って、
全部捨ててくれとお願いしたものだ。
「そうかい」と残念そうな母は
しばらくして、すべてを台所の流しにぶちまけて捨てた。
流しは詰まった。
あたりまえだ。
あんなものが流れるわけがない。
チョコレートを包んでいる銀紙にも凝ったことがある。
膝の関節にあてると、関節痛がよくなるというのである。
どの銀紙でも同じだろうとボクが茶々を入れると
ムッとした母は
「明治の板チョコの銀紙じゃなくちゃだめなのよ」
と返した。
なんともその先の言葉に詰まったボクは
中身のチョコレートをずっと食べるはめになってしまった。
そんな母は、731部隊の話題には反応しなかった。
無視しているというより、かたくなに強い意志で拒絶しているように見えた。
テレビでその話題が出るたびにチャンネルを変えていたのでは
鈍いボクにでも、感づかれてしまう。
当時の母の仲間であった看護婦の中には
敗戦時の場所が、ウランバートルにいた者もいたのだ。
好奇心の強い母が、それらの蛮行を知らなかったはずがない。
この頃には単に
あやしい
とおもうだけではすまなくなっていた。
しかし、時間にだらしがなく、数々の遅刻常習遍歴を持つ母が
スパイなど務まるわけがない、とも考えた。
本物のスパイは様々なカモフラージュを施す。
本物の凄さを知らないだけかもしれない。
いくら凄腕であっても、
ボクの結婚式にまで遅刻したのは、凄腕仲間トップ3に入ってこそ
できることなのだろうか。
中野のスパイ学校卒の将校に鍛えられると
そこまでできるのだろうか。
やがてマスコミもテレビでもそれらの話題はされなくなっていった。
母は内心、ホッとしていたかもしれない。
母が自分から話すのなら聞いてみたい気もしたが
わざわざボクから母の心を乱すような事柄を
つっこむこともあるまいと
今はおもっている。
2016年7月22日金曜日
オタフクソース 佐々木社長さんの記事にジンときた
広島のお好み焼きが、『原爆投下後の廃墟。がれきの中から鉄板を拾い、屋台で作り、育まれた』ことも知らずに、ウマイウマイとほおばっていた。
いっときはブルドッグソースを使っていたが、ここのところはもっぱらオタフクである。
『私は6歳でした。爆心地から1.6キロの自宅前。真っ青な空にキラキラと銀色に光る飛行機を見上げていたら黒い物体が落ちてきた。』
なんと鮮烈な光景だろう。
ボク自身は空から降ってきたものの記憶は、セスナ機からばらまかれた宣伝のビラしかない。
夏休みの宿題の絵日記にこんなこと書けやしない。
書くどころではない。
先日、米国大統領がやっと、広島を訪れた。
とても良かったことだとおもう。
まず来なければ次は始まらない。
広島からの平和を願って、2つの組織があった。
平和はひとつだろうに、それをめざしていさかうなんて
高校生のときのボクは彼らをひどく軽蔑した。
ふたつの平和なんてあるもんか。
右も左もない
上も下もない
いましていることの
何が戦争につながるのか
平和をおびやかすのかを
見きわめ
それらを断ち切る行動をしてゆくことが
肝心なことだとおもうのに
オタフクソースのキャラクターをまじまじと見たことはなかったが
ジッと見てみた。
これはお面ではないだろうが、この表情の下に広島の悲しみと平和の願いが隠されているのだろうか。
しばらくながめていると、
右目は静かにねむり、左目は微笑んでいる。
静かな悲しみと平和の願いなのかもしれない。
昨夜のおかずは豚肉小間切れとキャベツの炒めもの、仕上げはオタフクソースだ。
食べ始めると、そのうまさに
広島の悲しみも、平和もどこかにすっとんでしまう自分が情けない。
うまいものは幸せにしてくれる。
佐々木社長は『ヒロシマ平和記念資料館を見学できるようになったのは、つい数年前のこと』
と記事の中で語っている。
ボクが被爆者だったら・・・
きっと資料館の中に入れないだろう・・・とおもう
毎日をがむしゃらに働き、生き、そうすることによって
なんとか今を生きていることができているというのに
自分の心の中の鮮烈な記憶が展示されている資料など、見ることは耐えられない
とてもじゃないけど、自分を支えられない。
そうおもう。
ずっとと願いたいんだけど、欲張っちゃいけないので
食べている間だけでも、幸せにしてくれるおいしいものを
これからもずっと作り続けてください。
来月の6日はコロッケにオタフクソースをたっぷりかけて食べます
いっときはブルドッグソースを使っていたが、ここのところはもっぱらオタフクである。
『私は6歳でした。爆心地から1.6キロの自宅前。真っ青な空にキラキラと銀色に光る飛行機を見上げていたら黒い物体が落ちてきた。』
なんと鮮烈な光景だろう。
ボク自身は空から降ってきたものの記憶は、セスナ機からばらまかれた宣伝のビラしかない。
夏休みの宿題の絵日記にこんなこと書けやしない。
書くどころではない。
先日、米国大統領がやっと、広島を訪れた。
とても良かったことだとおもう。
まず来なければ次は始まらない。
広島からの平和を願って、2つの組織があった。
平和はひとつだろうに、それをめざしていさかうなんて
高校生のときのボクは彼らをひどく軽蔑した。
ふたつの平和なんてあるもんか。
右も左もない
上も下もない
いましていることの
何が戦争につながるのか
平和をおびやかすのかを
見きわめ
それらを断ち切る行動をしてゆくことが
肝心なことだとおもうのに
オタフクソースのキャラクターをまじまじと見たことはなかったが
ジッと見てみた。
これはお面ではないだろうが、この表情の下に広島の悲しみと平和の願いが隠されているのだろうか。
しばらくながめていると、
右目は静かにねむり、左目は微笑んでいる。
静かな悲しみと平和の願いなのかもしれない。
昨夜のおかずは豚肉小間切れとキャベツの炒めもの、仕上げはオタフクソースだ。
食べ始めると、そのうまさに
広島の悲しみも、平和もどこかにすっとんでしまう自分が情けない。
うまいものは幸せにしてくれる。
佐々木社長は『ヒロシマ平和記念資料館を見学できるようになったのは、つい数年前のこと』
と記事の中で語っている。
ボクが被爆者だったら・・・
きっと資料館の中に入れないだろう・・・とおもう
毎日をがむしゃらに働き、生き、そうすることによって
なんとか今を生きていることができているというのに
自分の心の中の鮮烈な記憶が展示されている資料など、見ることは耐えられない
とてもじゃないけど、自分を支えられない。
そうおもう。
ずっとと願いたいんだけど、欲張っちゃいけないので
食べている間だけでも、幸せにしてくれるおいしいものを
これからもずっと作り続けてください。
来月の6日はコロッケにオタフクソースをたっぷりかけて食べます
2016年7月21日木曜日
父とみかん
ボクが高校生時分の頃、父は毎週土曜日に帰宅していた。
週一回の家族そろっての夕食はにぎやかで豪華だった。
外食で行きつけの中華料理店にもよく行った。
そのお店に行くときはタクシーだったか歩いて行ったのかよく覚えていないが
帰りは、ほろ酔い気分の父と二人で歩いて帰ることがたびたびであった。
父が通った小学校脇の細い坂道を、父の背中を押しながら登ったものだ。
馴染みの寿司屋から、食べきれないのではないかとおもえるぐらいの
握りや巻物やおいなりさんがでかい寿司桶に入って出前をとった。
一人前ずつの寿司桶が段々に重ねられていたこともあったが
父はでかい寿司桶で豪華に盛られている握り寿司などを見るのが好きだったようだ。
その寿司屋に母はたまに、時期になると
家で取れた大葉を大量にあげていた、というよりも
出荷していたと言ったほうがよいくらいの量だった。
母はもともと農家の出身なので、シソを大規模に育てるなど朝飯前だったのだ。
母は何の見返りも考えずにそんなことをしていたのだが
ある日、寿司を配達してくれているお兄さんが出前のカブの後ろに
荷が崩れるくらいの量の砂糖袋を積んで我が家に持ってきた。
母は一度は断っていたが、お兄さんがどんどん玄関廊下に袋を積み上げてしまい
結局、廊下のすみにそのままになってしまった。
夕食後しばらくして、父は読書しながら就寝準備となる。
横になっている父のマッサージをボクは始める。
毎回、このマッサージは数時間続く。
数時間以上続くこともある。
翌日のボクの両肩両腕はパンパンになる。
その時の父の読書は
全集物の「日本の歴史」や「世界の歴史」が多かった。
ボクは揉む手を休めずに
後ろからその本たちを読んだ。
父はボクが一緒にそれらの本を読んでいるなんてこれっぽちも、おもっていなかっただろう。
おかげで日本史や世界史のテストの点数は
さほど勉強しなかったのに良かった。
父が亡くなる数年前に、父は自分の蔵書を整理したようだ。
所帯を構えたボクの住所にダンボールで結構な量の本が送られてきた。
その中に「日本の歴史」「世界の歴史」が、すべての巻がそろって入っていた。
ボクの本棚の一番上の段にそれらすべてを並べた。
その段に目をやるたびに、横になっている父の禿げている後頭部を思い出したものだ。
みかんの季節になると
マッサージをはじめてしばらくすると、
みかんが食いたいと父は言う。
「アッ、きたー」とボクはおもい、ちょっとドキッとする。
少しではあるが気持ちの整理が必要になるのだ。
初めてそれをおこなったときは
イヤをとおりこして不思議な感触にドキドキした。
父はみかんの一房を
ボクがはじっこをつまんで
そのまま父の口の中に入れろというのだ。
父はその一房をチュウチュウとすって実だけを食べ
ボクは抜け殻になった房を父の口の中から引き上げる。
要するにボクの指先は父の口の中でみかんの実と一緒に吸われ
ヌメヌメして生暖かい感触が指先に伝わるのだ。
あーなんとも言えないあの感触・・・
いったいなん房食べたら
父はもうイイって言うんだろう。
父がそう言うまで何度も同じことを繰り返した。
食べ終わっても
その手のまま、父の体を揉み続けた。
父が死んだとき
父の唇を、ボクの指先につけたお酒で湿らせてあげた。
その感触はみかんのときのそれと同じだった。
冷たかったがやわらかな唇だった。
週一回の家族そろっての夕食はにぎやかで豪華だった。
外食で行きつけの中華料理店にもよく行った。
そのお店に行くときはタクシーだったか歩いて行ったのかよく覚えていないが
帰りは、ほろ酔い気分の父と二人で歩いて帰ることがたびたびであった。
父が通った小学校脇の細い坂道を、父の背中を押しながら登ったものだ。
馴染みの寿司屋から、食べきれないのではないかとおもえるぐらいの
握りや巻物やおいなりさんがでかい寿司桶に入って出前をとった。
一人前ずつの寿司桶が段々に重ねられていたこともあったが
父はでかい寿司桶で豪華に盛られている握り寿司などを見るのが好きだったようだ。
その寿司屋に母はたまに、時期になると
家で取れた大葉を大量にあげていた、というよりも
出荷していたと言ったほうがよいくらいの量だった。
母はもともと農家の出身なので、シソを大規模に育てるなど朝飯前だったのだ。
母は何の見返りも考えずにそんなことをしていたのだが
ある日、寿司を配達してくれているお兄さんが出前のカブの後ろに
荷が崩れるくらいの量の砂糖袋を積んで我が家に持ってきた。
母は一度は断っていたが、お兄さんがどんどん玄関廊下に袋を積み上げてしまい
結局、廊下のすみにそのままになってしまった。
夕食後しばらくして、父は読書しながら就寝準備となる。
横になっている父のマッサージをボクは始める。
毎回、このマッサージは数時間続く。
数時間以上続くこともある。
翌日のボクの両肩両腕はパンパンになる。
その時の父の読書は
全集物の「日本の歴史」や「世界の歴史」が多かった。
ボクは揉む手を休めずに
後ろからその本たちを読んだ。
父はボクが一緒にそれらの本を読んでいるなんてこれっぽちも、おもっていなかっただろう。
おかげで日本史や世界史のテストの点数は
さほど勉強しなかったのに良かった。
父が亡くなる数年前に、父は自分の蔵書を整理したようだ。
所帯を構えたボクの住所にダンボールで結構な量の本が送られてきた。
その中に「日本の歴史」「世界の歴史」が、すべての巻がそろって入っていた。
ボクの本棚の一番上の段にそれらすべてを並べた。
その段に目をやるたびに、横になっている父の禿げている後頭部を思い出したものだ。
みかんの季節になると
マッサージをはじめてしばらくすると、
みかんが食いたいと父は言う。
「アッ、きたー」とボクはおもい、ちょっとドキッとする。
少しではあるが気持ちの整理が必要になるのだ。
初めてそれをおこなったときは
イヤをとおりこして不思議な感触にドキドキした。
父はみかんの一房を
ボクがはじっこをつまんで
そのまま父の口の中に入れろというのだ。
父はその一房をチュウチュウとすって実だけを食べ
ボクは抜け殻になった房を父の口の中から引き上げる。
要するにボクの指先は父の口の中でみかんの実と一緒に吸われ
ヌメヌメして生暖かい感触が指先に伝わるのだ。
あーなんとも言えないあの感触・・・
いったいなん房食べたら
父はもうイイって言うんだろう。
父がそう言うまで何度も同じことを繰り返した。
食べ終わっても
その手のまま、父の体を揉み続けた。
父が死んだとき
父の唇を、ボクの指先につけたお酒で湿らせてあげた。
その感触はみかんのときのそれと同じだった。
冷たかったがやわらかな唇だった。
2016年7月20日水曜日
父と西瓜
すっかりセピア色に変色した写真の中で、
たくさんの西瓜に囲まれ、まあるい眼鏡をかけた若い父が
ほがらかに笑っている。
この写真について、一度だけ父から
機嫌の良いときに、説明してもらったことがある。
父は、大東亜戦争のとき中国で
軍属として働いていた。
夏は暑い。
そして乾燥している。
そんなある日、地元の西瓜農家の中国人から
頼まれごとがあったという。
こんな内容だ。
今が食べごろの西瓜が見てのとおり
畑にたくさんある。
好きなだけ食べて良いから、その代わり
種だけは食べずに集めて欲しい。
どうやら現地の中国人たちは
種ごと食べてしまうらしいのだ。
また、種だけを取り出すのも大変な作業であるらしく
日本人は種を食べずに吐き出すということを
どこかで聞いてきたらしい。
父は仲間たちと、仕事の休みや合間に
来る日も来る日も西瓜を食い続けたらしい。
さぞかしうまかったのだろう。
父のこんな笑顔はめったに見たことがない。
この写真には、母も写っていた。
説明されるまで気がつかなかった。
母は職業婦人になるべく、看護婦になった。
看護婦の資格をとるまで、横になって寝たことはないとよく言っていた。
産婆さんの資格もそのときの猛勉でとったのだが、
一度も赤ちゃんは取り上げたことはないと笑っていた。
どのような経緯で中国戦線で働くことになったか聞いたこともないが
中国に渡り、一度日本に帰国して
また中国へ向かった。
瀋陽の病院で働いた。
いつだったか、グーグルの航空写真でその近辺の写真を見せたことがあった。
瀋陽の列車の駅を見せると、すぐにすべての記憶を蘇らせたようだった。
当時とほぼ同じ、そのままの建物が連なり、
母は、その建物の右側にこんな建物があり、
そこの通りをまっすぐ行くと、これこれの大きなビルがある、と
鮮明な記憶を披露した。
母が重篤な病気になったとき、満足な医療器具もない戦地の病院で
父からほぼ直結で輸血をし、命を救われたと
母の口から何度も父への感謝を聞かされた。
父母はここで知り合い、自由恋愛をした。
この自由恋愛という言葉を母はよく口にしたが
「お見合いではなく、自由恋愛なのよ」
と強調するのがいつものことであり自慢であった。
敗戦になり日本に戻った。
復員船などの船で博多に降りたのだが、
この復路の様子だけで、またひとつの物語ができる。
生活が落ち着いてきた頃、瀋陽の病院で勤務していた人たちで
「石門会」という同窓会のようなものを立ち上げ
数年ごとに、東京あたりで旧交をあたためていた。
我が家にも何人かその時の友人たちが泊まりにくることがあった。
しかし、全員が高齢になり、鬼籍に入る方も多くなり
石門会はなくなってしまった。
その石門会の同窓会誌に母が寄稿したものを読んだことがある。
母はよく、畳に置いた新聞を、正座のまま体を新聞に折り重ねるように読んでいた。
新聞の一角に、横浜の桟橋に帰還する船の日時が記載されたりしていたようだ。
また横浜駅にも汽車の同様の日時が記されていたらしい。
それで知ったのだろう。
会誌の中にこんな場面があった。
若い母が、入線してくる汽車の車両の窓を次から次へ
人混みに流されそうになりながらも、その人を探している。
いくつも流れてゆく窓の中に、その人を見つけ
今度はその窓の車両と一緒に、速さを合わせるように走り続ける。
窓の中の人も、汽車を追ってくる母に気づき、窓ガラスを上に開けた。
汽車は停車し、母は開け放された窓の向こうのその人へ
「婦長殿、◯◯であります。どうも長いことお疲れ様でした」と
母は旧姓を名乗るのだった。
背筋をピンと伸ばし、敬礼でもしてるかもしれない母の姿をおもった。
たくさんの西瓜に囲まれ、まあるい眼鏡をかけた若い父が
ほがらかに笑っている。
この写真について、一度だけ父から
機嫌の良いときに、説明してもらったことがある。
父は、大東亜戦争のとき中国で
軍属として働いていた。
夏は暑い。
そして乾燥している。
そんなある日、地元の西瓜農家の中国人から
頼まれごとがあったという。
こんな内容だ。
今が食べごろの西瓜が見てのとおり
畑にたくさんある。
好きなだけ食べて良いから、その代わり
種だけは食べずに集めて欲しい。
どうやら現地の中国人たちは
種ごと食べてしまうらしいのだ。
また、種だけを取り出すのも大変な作業であるらしく
日本人は種を食べずに吐き出すということを
どこかで聞いてきたらしい。
父は仲間たちと、仕事の休みや合間に
来る日も来る日も西瓜を食い続けたらしい。
さぞかしうまかったのだろう。
父のこんな笑顔はめったに見たことがない。
この写真には、母も写っていた。
説明されるまで気がつかなかった。
母は職業婦人になるべく、看護婦になった。
看護婦の資格をとるまで、横になって寝たことはないとよく言っていた。
産婆さんの資格もそのときの猛勉でとったのだが、
一度も赤ちゃんは取り上げたことはないと笑っていた。
どのような経緯で中国戦線で働くことになったか聞いたこともないが
中国に渡り、一度日本に帰国して
また中国へ向かった。
瀋陽の病院で働いた。
いつだったか、グーグルの航空写真でその近辺の写真を見せたことがあった。
瀋陽の列車の駅を見せると、すぐにすべての記憶を蘇らせたようだった。
当時とほぼ同じ、そのままの建物が連なり、
母は、その建物の右側にこんな建物があり、
そこの通りをまっすぐ行くと、これこれの大きなビルがある、と
鮮明な記憶を披露した。
母が重篤な病気になったとき、満足な医療器具もない戦地の病院で
父からほぼ直結で輸血をし、命を救われたと
母の口から何度も父への感謝を聞かされた。
父母はここで知り合い、自由恋愛をした。
この自由恋愛という言葉を母はよく口にしたが
「お見合いではなく、自由恋愛なのよ」
と強調するのがいつものことであり自慢であった。
敗戦になり日本に戻った。
復員船などの船で博多に降りたのだが、
この復路の様子だけで、またひとつの物語ができる。
生活が落ち着いてきた頃、瀋陽の病院で勤務していた人たちで
「石門会」という同窓会のようなものを立ち上げ
数年ごとに、東京あたりで旧交をあたためていた。
我が家にも何人かその時の友人たちが泊まりにくることがあった。
しかし、全員が高齢になり、鬼籍に入る方も多くなり
石門会はなくなってしまった。
その石門会の同窓会誌に母が寄稿したものを読んだことがある。
母はよく、畳に置いた新聞を、正座のまま体を新聞に折り重ねるように読んでいた。
新聞の一角に、横浜の桟橋に帰還する船の日時が記載されたりしていたようだ。
また横浜駅にも汽車の同様の日時が記されていたらしい。
それで知ったのだろう。
会誌の中にこんな場面があった。
若い母が、入線してくる汽車の車両の窓を次から次へ
人混みに流されそうになりながらも、その人を探している。
いくつも流れてゆく窓の中に、その人を見つけ
今度はその窓の車両と一緒に、速さを合わせるように走り続ける。
窓の中の人も、汽車を追ってくる母に気づき、窓ガラスを上に開けた。
汽車は停車し、母は開け放された窓の向こうのその人へ
「婦長殿、◯◯であります。どうも長いことお疲れ様でした」と
母は旧姓を名乗るのだった。
背筋をピンと伸ばし、敬礼でもしてるかもしれない母の姿をおもった。
2016年7月19日火曜日
母の悪い癖 その3
ボクは高校生。
父の趣味は写真であった。
写真を撮り現像してパネルにしたり、写真機そのものも好きであった。
京都・奈良へ一泊旅行でよく行った。
父の健康状態を心配して、母は父を一人で行かせることはなく
兄弟の誰かを必ず、お供にさせていた。
学校があっても、休ませる。
よく行ったので、誰かをガイドできるくらいに詳しくなっていた。
何度か行くうちに、父はボクに財布を持たせ
今で言う、ツアーコンダクターのようなことをさせるようになっていた。
無論、そうさせるまでには、いろいろなことを父に仕込まれたのだが。
父が自分ですることは
往復の新幹線の切符を買うくらいのことだけだったようにおもう。
ぎりぎりまで自分の仕事のスケジュールの都合だったのだろう。
その時の京都旅行は東京駅で父と待ち合わせた。
母とボクの切符は事前に母が受け取っていた。
家を出るとき、案の定なかなか出かける素振りを見せない母が心配だった。
せかせても、あー、とか うー、と言うだけである。
玄関の鍵をしめたのはよいが、
これではピッタシ乗り遅れてしまう。
東海道線に乗り、東京駅に着いた。
新幹線ホームまで急げばまだ間に合う。
母も急ぎ足になっていた。
ふっと、またあの時の光景が一瞬よぎった。
しかしである、
プラットホームに上がったときには、新幹線は走りだしたところだった。
ホームに父の姿はない。
母に
「次の新幹線は何時だい」と聞かれたものの、
またかっ とイラッとするよりも、体から力の抜けるほうが大きかった。
京都ではいつもきまった宿に泊まっていた。
そのホテルのレストランで、
母は好物のハンバーグをうまそうに食べていた。
父の趣味は写真であった。
写真を撮り現像してパネルにしたり、写真機そのものも好きであった。
京都・奈良へ一泊旅行でよく行った。
父の健康状態を心配して、母は父を一人で行かせることはなく
兄弟の誰かを必ず、お供にさせていた。
学校があっても、休ませる。
よく行ったので、誰かをガイドできるくらいに詳しくなっていた。
何度か行くうちに、父はボクに財布を持たせ
今で言う、ツアーコンダクターのようなことをさせるようになっていた。
無論、そうさせるまでには、いろいろなことを父に仕込まれたのだが。
父が自分ですることは
往復の新幹線の切符を買うくらいのことだけだったようにおもう。
ぎりぎりまで自分の仕事のスケジュールの都合だったのだろう。
その時の京都旅行は東京駅で父と待ち合わせた。
母とボクの切符は事前に母が受け取っていた。
家を出るとき、案の定なかなか出かける素振りを見せない母が心配だった。
せかせても、あー、とか うー、と言うだけである。
玄関の鍵をしめたのはよいが、
これではピッタシ乗り遅れてしまう。
東海道線に乗り、東京駅に着いた。
新幹線ホームまで急げばまだ間に合う。
母も急ぎ足になっていた。
ふっと、またあの時の光景が一瞬よぎった。
しかしである、
プラットホームに上がったときには、新幹線は走りだしたところだった。
ホームに父の姿はない。
母に
「次の新幹線は何時だい」と聞かれたものの、
またかっ とイラッとするよりも、体から力の抜けるほうが大きかった。
京都ではいつもきまった宿に泊まっていた。
そのホテルのレストランで、
母は好物のハンバーグをうまそうに食べていた。
2016年7月18日月曜日
母の悪い癖 その2
ボクは中学生。
そこそこ、お勉強のできる中学生であった。
2年生のとき、理科の先生が転任してきた。
噂では、前任校では名だたる進学校に成績の良い生徒を何人も合格させている
とのことだった。
本人もそれを自慢して、彼等は東大とか他の有名大学にいったぞと言っていた。
3年生のとき、その先生が担任になった。
時は1960年台後半、日本はこれから右肩上がりにグングン伸びていく時代だ
良い高校に入り、良い大学に進学し、大企業に就職し、高い給料を稼いで良い暮らしをする
先生はそんなことは言葉に出して言わなかったが、
伸ばせる才能は伸ばすのが自分の役目だという使命感にあふれた担任だった。
そのことを今でも特に批判する気にはなれない。
校外模試についても、その時期や回数を指導された。
模試のたびに結果を見せ、丁寧にいろいろと指導してくれた。
あるとき、その模試でボクはひどく遅刻をした
ボクだけではなく、家族皆んなが寝坊したのだ
あわてて、走って受験会場まで行った。
最初の科目はすでに始まっていて、
25分遅刻すると受験できない決まりだったが、
20分遅刻で、なんとか受験はできた。
科目は数学であった。
すべての問題を解くことができた。
終わって、5分ぐらいしたらチャイムが鳴った。
残り4科目は落ち着いて解けた。
終わったら腹がなった。
腹ペコだった。
担任に模試で遅刻したことを話したら
ひどく叱られた。
今回の模試は事前に受けないようにと言われていたのに
そのことも含めて、叱られた。
結果を見せなさいと言われ、ためらいがちにボクは机の上に並べた。
5科目の結果は県内でトップグループに入っていた。
数学は同順位がいたがトップだった。
しかし、この結果にボクは満足ではなかった。
自分でもその理由はわからない。
三者面談のときのことである
ボクはそのときも成績を維持していた。
ちょうどその頃学生運動が蔓延し、高校にもその影響が出始めている時期であった。
担任はS高校を勧めた。
理由は学園紛争が起こらなさそうという理由だったかとおもう。
ボクはためらわず拒否し、K高校を受検する意志を伝えた。
担任はボクの意志が固いことを確認すると、もう無理にS高校は勧めなかった。
母は終始無言であった。
帰宅して、母は言った。
「おまえは普段、自分の意志なんてそんなにハッキリ言わないのに
あんなときにはずいぶんとしっかりしたことを言うんだねぇ」
夕飯はいつもより、なんとなく豪華だった。
その後、ボクはその学校に合格した。
父が帰宅したとき、
その高校の制服を着て見せた。
父はしげしげと眺め、自分のときと何にも変わってない制服だなとポツリと言った。
父の卒業した旧制中学は、ボクが合格した高校だった。
うれしそうな父をみて、ボクはうれしかった。
生まれて初めて、父へ親孝行をしたとおもった。
三者面談のとき、
担任はもう一つの高校を受験してみないかと勧められた。
受験日は異なるので問題はない。
東京の、ある大学の附属高校だ。
東大にたくさん合格者を出して有名な高校である。
しかし、あまり受験に関心のなかったボクは
そんな学校は知らなかった。
自分の住んでいる周りの高校の名前も怪しいというのに、県外の学校なんて知るわけもない。
結局受検することにはなったが、その学校の傾向と対策など何もしなかった。
担任の俺の言うとおりにしていれば大丈夫だというのが頼りだった。
英語は長文が出るというので、その対策にずいぶんと読んだ。
これはその後、とても役に立っている。
英語を原文で読むことに何の違和感も感じることがなくなっていたのだ。
その高校の受験当日、ボクたちは寝坊した。
家をあわてて出て、ずっと小走りだった。
髪を乱し、はぁはぁと母は苦しそうだった。
子どもの頃の海水浴のことをボクは思い出していた。
駅につき窓口で切符を買うとき
ボクは「男一枚女一枚、◯◯まで」と言ってしまった。
駅員さんはずらっと並んだ切符の棚から、グリっとこちらに首をまわし、ボクの方を見た。
後ろにいた母があわてて、「◯◯まで二枚」と言い直した。
馬鹿だねぇとボクの耳元で大きな声でひとりごとのように言った。
なんか恥ずかしかった。
通勤時間帯で、受験校までの車内はひどく混んでいた。
蒸し暑く気分が悪くなってしまった。
降りるべき駅が近づいてきたとき、
ボクたちは車内の中ほどに押し込められてしまっていた。
駅に着いた。
母が、降ります降ります、すいませんすいません、とお願いし
ボクも人を押しのけながら出口へ向かったが、
ドアは締り、結局次の駅で降りた。
冷たい空気が気持ちよかった。
下りの電車を待ち、目的とする駅に向かった。
その駅に着いたものの、気がせいているためか道がよくわからない。
受験校に着いたときは、すでに最初の試験は始まってしまっていた。
遅刻である。
不合格であった。
小中と同じ同級生3人も一緒に受験したのだが、落ちてしまった。
後で聞いた話だが、どうやらボクは本命視されていたらしい。
あいつが落ちたなら、自分たちが落ちても当然だとそれほど落ち込まなかったらしい。
ボクにはそんなことはちっとも、慰めなんかにならなかった。
試験が始まるときにボクの席は空席だったから、
友達はどうかしたのかとおもったそうだが、
大事な試験で遅刻するなんてと笑われた。
担任にこの件を報告したら、顔色がさぁーっとかわり黙ってしまった。
母はボクが不合格になったことについて、何も言わなかった。
K高校の入学式は何時に始まるんだいと
聞かれたっきりであった。
そこそこ、お勉強のできる中学生であった。
2年生のとき、理科の先生が転任してきた。
噂では、前任校では名だたる進学校に成績の良い生徒を何人も合格させている
とのことだった。
本人もそれを自慢して、彼等は東大とか他の有名大学にいったぞと言っていた。
3年生のとき、その先生が担任になった。
時は1960年台後半、日本はこれから右肩上がりにグングン伸びていく時代だ
良い高校に入り、良い大学に進学し、大企業に就職し、高い給料を稼いで良い暮らしをする
先生はそんなことは言葉に出して言わなかったが、
伸ばせる才能は伸ばすのが自分の役目だという使命感にあふれた担任だった。
そのことを今でも特に批判する気にはなれない。
校外模試についても、その時期や回数を指導された。
模試のたびに結果を見せ、丁寧にいろいろと指導してくれた。
あるとき、その模試でボクはひどく遅刻をした
ボクだけではなく、家族皆んなが寝坊したのだ
あわてて、走って受験会場まで行った。
最初の科目はすでに始まっていて、
25分遅刻すると受験できない決まりだったが、
20分遅刻で、なんとか受験はできた。
科目は数学であった。
すべての問題を解くことができた。
終わって、5分ぐらいしたらチャイムが鳴った。
残り4科目は落ち着いて解けた。
終わったら腹がなった。
腹ペコだった。
担任に模試で遅刻したことを話したら
ひどく叱られた。
今回の模試は事前に受けないようにと言われていたのに
そのことも含めて、叱られた。
結果を見せなさいと言われ、ためらいがちにボクは机の上に並べた。
5科目の結果は県内でトップグループに入っていた。
数学は同順位がいたがトップだった。
しかし、この結果にボクは満足ではなかった。
自分でもその理由はわからない。
三者面談のときのことである
ボクはそのときも成績を維持していた。
ちょうどその頃学生運動が蔓延し、高校にもその影響が出始めている時期であった。
担任はS高校を勧めた。
理由は学園紛争が起こらなさそうという理由だったかとおもう。
ボクはためらわず拒否し、K高校を受検する意志を伝えた。
担任はボクの意志が固いことを確認すると、もう無理にS高校は勧めなかった。
母は終始無言であった。
帰宅して、母は言った。
「おまえは普段、自分の意志なんてそんなにハッキリ言わないのに
あんなときにはずいぶんとしっかりしたことを言うんだねぇ」
夕飯はいつもより、なんとなく豪華だった。
その後、ボクはその学校に合格した。
父が帰宅したとき、
その高校の制服を着て見せた。
父はしげしげと眺め、自分のときと何にも変わってない制服だなとポツリと言った。
父の卒業した旧制中学は、ボクが合格した高校だった。
うれしそうな父をみて、ボクはうれしかった。
生まれて初めて、父へ親孝行をしたとおもった。
三者面談のとき、
担任はもう一つの高校を受験してみないかと勧められた。
受験日は異なるので問題はない。
東京の、ある大学の附属高校だ。
東大にたくさん合格者を出して有名な高校である。
しかし、あまり受験に関心のなかったボクは
そんな学校は知らなかった。
自分の住んでいる周りの高校の名前も怪しいというのに、県外の学校なんて知るわけもない。
結局受検することにはなったが、その学校の傾向と対策など何もしなかった。
担任の俺の言うとおりにしていれば大丈夫だというのが頼りだった。
英語は長文が出るというので、その対策にずいぶんと読んだ。
これはその後、とても役に立っている。
英語を原文で読むことに何の違和感も感じることがなくなっていたのだ。
その高校の受験当日、ボクたちは寝坊した。
家をあわてて出て、ずっと小走りだった。
髪を乱し、はぁはぁと母は苦しそうだった。
子どもの頃の海水浴のことをボクは思い出していた。
駅につき窓口で切符を買うとき
ボクは「男一枚女一枚、◯◯まで」と言ってしまった。
駅員さんはずらっと並んだ切符の棚から、グリっとこちらに首をまわし、ボクの方を見た。
後ろにいた母があわてて、「◯◯まで二枚」と言い直した。
馬鹿だねぇとボクの耳元で大きな声でひとりごとのように言った。
なんか恥ずかしかった。
通勤時間帯で、受験校までの車内はひどく混んでいた。
蒸し暑く気分が悪くなってしまった。
降りるべき駅が近づいてきたとき、
ボクたちは車内の中ほどに押し込められてしまっていた。
駅に着いた。
母が、降ります降ります、すいませんすいません、とお願いし
ボクも人を押しのけながら出口へ向かったが、
ドアは締り、結局次の駅で降りた。
冷たい空気が気持ちよかった。
下りの電車を待ち、目的とする駅に向かった。
その駅に着いたものの、気がせいているためか道がよくわからない。
受験校に着いたときは、すでに最初の試験は始まってしまっていた。
遅刻である。
不合格であった。
小中と同じ同級生3人も一緒に受験したのだが、落ちてしまった。
後で聞いた話だが、どうやらボクは本命視されていたらしい。
あいつが落ちたなら、自分たちが落ちても当然だとそれほど落ち込まなかったらしい。
ボクにはそんなことはちっとも、慰めなんかにならなかった。
試験が始まるときにボクの席は空席だったから、
友達はどうかしたのかとおもったそうだが、
大事な試験で遅刻するなんてと笑われた。
担任にこの件を報告したら、顔色がさぁーっとかわり黙ってしまった。
母はボクが不合格になったことについて、何も言わなかった。
K高校の入学式は何時に始まるんだいと
聞かれたっきりであった。
2016年7月17日日曜日
母の悪い癖 その1
ボクは小学生。
その日は家族で初めて由比ヶ浜に海水浴に出かける日だった。
ボクはうれしくってうれしくってしょうがなかった。
父の車の後ろの席で、さっき捕まえたシオカラトンボに
肉まんの切れ端をあげて、
後は母がくれば出発になる、そのときを待っていた。
シオカラトンボは肉まんに食らいつき
飛んで逃げるそぶりを、これっぽっちも見せず
結構な量を食べていた。
そんなことをしながら
何度か後ろを振り返るのだが
母がくる様子はなかった。
兄がちょっと見に行ってこようかというと
「いいっ」と父のいらついた声がした。
それからまたしばらく待った。
父は大きな声で
「なにやってんだ」と怒鳴るでもなく言うと同時に
車を発車させた。
と、そのとき
建物の影から母が現れた。
小走りに髪を少し乱れさせながら走って来た。
しかし
車は速力を増し、母との距離は開き
やがて母は見えなくなった
肉まんにとまったままのシオカラトンボは車の中で飛び立とうともせず
羽根をひろげたままであった。
浜で逃がしてあげた。
海水浴は楽しかった。
笑顔満面の浜での写真に、母の姿はなかった。
日焼け顔で戻った、その日の夕飯で
母は「海水浴楽しかったかい」ときいた。
ボクは浜で過ごしたことをあれこれと話した。
「そうかい、そうかい、それはよかったね」と
ふだん通りの母の声であった。
その日は家族で初めて由比ヶ浜に海水浴に出かける日だった。
ボクはうれしくってうれしくってしょうがなかった。
父の車の後ろの席で、さっき捕まえたシオカラトンボに
肉まんの切れ端をあげて、
後は母がくれば出発になる、そのときを待っていた。
シオカラトンボは肉まんに食らいつき
飛んで逃げるそぶりを、これっぽっちも見せず
結構な量を食べていた。
そんなことをしながら
何度か後ろを振り返るのだが
母がくる様子はなかった。
兄がちょっと見に行ってこようかというと
「いいっ」と父のいらついた声がした。
それからまたしばらく待った。
父は大きな声で
「なにやってんだ」と怒鳴るでもなく言うと同時に
車を発車させた。
と、そのとき
建物の影から母が現れた。
小走りに髪を少し乱れさせながら走って来た。
しかし
車は速力を増し、母との距離は開き
やがて母は見えなくなった
肉まんにとまったままのシオカラトンボは車の中で飛び立とうともせず
羽根をひろげたままであった。
浜で逃がしてあげた。
海水浴は楽しかった。
笑顔満面の浜での写真に、母の姿はなかった。
日焼け顔で戻った、その日の夕飯で
母は「海水浴楽しかったかい」ときいた。
ボクは浜で過ごしたことをあれこれと話した。
「そうかい、そうかい、それはよかったね」と
ふだん通りの母の声であった。
2016年7月16日土曜日
皇居外苑パレスサイクリング
「1975年に皇居外苑の半周約5.5キロのサイクリング道路が毎週日曜日に開始された。」
と夕刊の記事にあった。
ボクは開始まもなくからアルバイトをした。
看護婦さんが常駐したのだが、その看護婦さんの紹介で始めた。
毎週日曜というのが少々つらかったが、休むことなく3年ちょっとお世話になった。
自転車は趣味の一つで、自分でもドロップハンドルのサイクリング自転車を所有していた。
バラシと組み立ては工具も自前で持ち、一通りのことはできていた。
運営は自転車振興会が行っており、もと競輪選手や現役の自転車屋さんから
たくさんのことを教わった。
自転車の修理を受け持つこともあったし、サイクリング道路を自転車に乗りながら巡回したり、
ポイントに立ち安全指導などがその仕事内容だった。
桜田門にある警視庁からおまわりさんが自転車を何台も修理で
持ってきたこともあった。代金を取ったかどうかは覚えていない。
朝一番は大変であった。
それぞれの持場で車両をサイクリング道路から追い出さないといけないからだ。
こちらに向かって走ってくる車両の中には、なるべく目的地に近いところまで行きたいので
誘導員の指示に従わずそのまま無視して走り抜けようとする車がいるのだ。
そのような車の前に立ちふさがり、交差点で追い出すのは勇気が必要であった。
少しでもためらうような素振りを見せると車はほとんどそのまま突っ込んでくる。
進行方向に立ちふさがり、片手を誘導する方向に示しながら、決して逃げてはいけない。
なので、朝一番の追い出しの仕事は、場数を踏んで慣れている経験者が行っていた。
受付でお客さんに対応することもあった。
あるとき帽子をかぶってややうつむき加減に歩いてきた外国のお客さんがいた。
ボクはハッとして心臓がドッキンドッキンした。
ジョン・レノンだった。
パレスホテルか帝国ホテルに泊まったのだろうか。
お忍びの散歩がてらにここまで来たようだった。
連れが一人いたような記憶があるが確かではない。
周りの仲間達は気づいていないようだった。
「ありがと」で日本語で言い、自転車乗り場の方へ歩いて行った。
顔色がやけに白かったのが印象的であった。
休憩時間が比較的長くとることができ、
バイト仲間には自転車に乗れない子どもやご婦人を手伝ったりしている者もいた。
ボクはよく芝生の上で、相撲をした。
相手はボクと互角で、何番も取ると、もうその後のバイトなんかできる状態ではなくなるくらい
力いっぱいやった。
芝生に仰向けに寝転がり、ハァハァーしながらみた青空、気持よかった。
巡回の担当になると、一日でだいたい100キロちかく走っていた。
真冬で空いているときなどは、寒いのでひたすらペダルをこぎ200キロ以上走ったこともある。
バイトをしているのか、遊んでいるのかわからないのだが、
別段とがめられることはなかった。
日当は4000円位ではなかったかとおもう。
昼食は食券がでたりした。
現金で500円くらいもらったこともあったかもしれない。
竹橋に毎日新聞本社がある。
昼食にそこを利用させてもらうことも多かった。
社員専用出入り口のドアーを入ると、右側に警備員の詰め所があった
本当はいけないのだが、社員の出入り口から警備員に断って利用していた。
当時は警備もおおらかだった。
バイトのときの服装は、上着だけ黄色いジャンパーみたいのを着て、腕章をしていた。
警備員の方はその服装がサイクリング道路のバイトと知っていたようだ。
セルフサービスの食堂で、働き盛りのやや年配の男性社員と知り合いになった。
その社員から話しかけられたのが発端だが、
ボクは新聞社の食堂をほぼ無断で使わせてもらっている引け目から、
その方の質問などにはすべて正直に答えていた。
学生生活のことやバックパックで欧州を貧乏旅行したことなど、
そしてボクが就職活動にそろそろ入る時期になっていたことも話した。
その方はとはナゼか食堂を利用するたびに顔を合わせることが多かった。
あるとき、その方はうちの新聞社を受けてみないかと、
封筒に入った応募用紙を手渡してくれた。
ボクは自分で稼ぐ社会人になるスタートラインにならばされた気分がして
ちょっとうろたえた。
そんな覚悟はまだできていなかったのだ。
お気楽な大学生であった。
その日、帰宅してからその応募用紙を封筒から出して、まじまじと見た。
名刺がはさんであった。
役職名を見て、ブルっとした。
今はもうなくなったかもしれないが、
楠木正成公の銅像のそばに、おみやげ屋さんをしながら、食事ができるお店があった。
ある時、そのお店が食中毒のために、何日か営業停止になってしまった。
12月も押し詰まった時だったとおもう。
後にも先にもあのとき1回きりだったが、その店で簡単な忘年会をすることになり
バイト仲間も無料招待された。
忘年会というとコース料理が通常だが、好きなものを好きなだけ食べて良いという。
遠慮なく、メニューにのっている料理を片っ端から注文した。
自転車振興会の人たちはビールを飲みながらであったが、バイト仲間たちはひたすら食った。
みんな食べ盛りである。
お店の人たちの会話が聞こえてきた。
どうやら大丈夫そうね・・・
なんのことだろうとおもったが、わからなかった。
満腹になり、ボォーとしていたら
気がついた。
営業許可が再びおりてお店は一通り、メニューすべてを試したかったようだ。
バイト仲間はその実験台だった。
気づいても、もう遅い。
帰りの電車の中ではそんなことは忘れて、うとうと寝入ってしまった。
サイクリング道路は距離が短くなったとはいえ41年間も続いていることになる。
環境保護ということもあるのだろうが、なにはともあれ良いことである。
当時は皇居マラソンをしている人たちは現在ほどではなかったような気がする。
新緑の柳を見ながら、車を気にしないで、
ランニングをしても自転車で走っても気持が良い。
40年ぶりにでかけて走ろうとおもう。
これからもずっと続いてほしい。
と夕刊の記事にあった。
ボクは開始まもなくからアルバイトをした。
看護婦さんが常駐したのだが、その看護婦さんの紹介で始めた。
毎週日曜というのが少々つらかったが、休むことなく3年ちょっとお世話になった。
自転車は趣味の一つで、自分でもドロップハンドルのサイクリング自転車を所有していた。
バラシと組み立ては工具も自前で持ち、一通りのことはできていた。
運営は自転車振興会が行っており、もと競輪選手や現役の自転車屋さんから
たくさんのことを教わった。
自転車の修理を受け持つこともあったし、サイクリング道路を自転車に乗りながら巡回したり、
ポイントに立ち安全指導などがその仕事内容だった。
桜田門にある警視庁からおまわりさんが自転車を何台も修理で
持ってきたこともあった。代金を取ったかどうかは覚えていない。
朝一番は大変であった。
それぞれの持場で車両をサイクリング道路から追い出さないといけないからだ。
こちらに向かって走ってくる車両の中には、なるべく目的地に近いところまで行きたいので
誘導員の指示に従わずそのまま無視して走り抜けようとする車がいるのだ。
そのような車の前に立ちふさがり、交差点で追い出すのは勇気が必要であった。
少しでもためらうような素振りを見せると車はほとんどそのまま突っ込んでくる。
進行方向に立ちふさがり、片手を誘導する方向に示しながら、決して逃げてはいけない。
なので、朝一番の追い出しの仕事は、場数を踏んで慣れている経験者が行っていた。
受付でお客さんに対応することもあった。
あるとき帽子をかぶってややうつむき加減に歩いてきた外国のお客さんがいた。
ボクはハッとして心臓がドッキンドッキンした。
ジョン・レノンだった。
パレスホテルか帝国ホテルに泊まったのだろうか。
お忍びの散歩がてらにここまで来たようだった。
連れが一人いたような記憶があるが確かではない。
周りの仲間達は気づいていないようだった。
「ありがと」で日本語で言い、自転車乗り場の方へ歩いて行った。
顔色がやけに白かったのが印象的であった。
休憩時間が比較的長くとることができ、
バイト仲間には自転車に乗れない子どもやご婦人を手伝ったりしている者もいた。
ボクはよく芝生の上で、相撲をした。
相手はボクと互角で、何番も取ると、もうその後のバイトなんかできる状態ではなくなるくらい
力いっぱいやった。
芝生に仰向けに寝転がり、ハァハァーしながらみた青空、気持よかった。
巡回の担当になると、一日でだいたい100キロちかく走っていた。
真冬で空いているときなどは、寒いのでひたすらペダルをこぎ200キロ以上走ったこともある。
バイトをしているのか、遊んでいるのかわからないのだが、
別段とがめられることはなかった。
日当は4000円位ではなかったかとおもう。
昼食は食券がでたりした。
現金で500円くらいもらったこともあったかもしれない。
竹橋に毎日新聞本社がある。
昼食にそこを利用させてもらうことも多かった。
社員専用出入り口のドアーを入ると、右側に警備員の詰め所があった
本当はいけないのだが、社員の出入り口から警備員に断って利用していた。
当時は警備もおおらかだった。
バイトのときの服装は、上着だけ黄色いジャンパーみたいのを着て、腕章をしていた。
警備員の方はその服装がサイクリング道路のバイトと知っていたようだ。
セルフサービスの食堂で、働き盛りのやや年配の男性社員と知り合いになった。
その社員から話しかけられたのが発端だが、
ボクは新聞社の食堂をほぼ無断で使わせてもらっている引け目から、
その方の質問などにはすべて正直に答えていた。
学生生活のことやバックパックで欧州を貧乏旅行したことなど、
そしてボクが就職活動にそろそろ入る時期になっていたことも話した。
その方はとはナゼか食堂を利用するたびに顔を合わせることが多かった。
あるとき、その方はうちの新聞社を受けてみないかと、
封筒に入った応募用紙を手渡してくれた。
ボクは自分で稼ぐ社会人になるスタートラインにならばされた気分がして
ちょっとうろたえた。
そんな覚悟はまだできていなかったのだ。
お気楽な大学生であった。
その日、帰宅してからその応募用紙を封筒から出して、まじまじと見た。
名刺がはさんであった。
役職名を見て、ブルっとした。
今はもうなくなったかもしれないが、
楠木正成公の銅像のそばに、おみやげ屋さんをしながら、食事ができるお店があった。
ある時、そのお店が食中毒のために、何日か営業停止になってしまった。
12月も押し詰まった時だったとおもう。
後にも先にもあのとき1回きりだったが、その店で簡単な忘年会をすることになり
バイト仲間も無料招待された。
忘年会というとコース料理が通常だが、好きなものを好きなだけ食べて良いという。
遠慮なく、メニューにのっている料理を片っ端から注文した。
自転車振興会の人たちはビールを飲みながらであったが、バイト仲間たちはひたすら食った。
みんな食べ盛りである。
お店の人たちの会話が聞こえてきた。
どうやら大丈夫そうね・・・
なんのことだろうとおもったが、わからなかった。
満腹になり、ボォーとしていたら
気がついた。
営業許可が再びおりてお店は一通り、メニューすべてを試したかったようだ。
バイト仲間はその実験台だった。
気づいても、もう遅い。
帰りの電車の中ではそんなことは忘れて、うとうと寝入ってしまった。
サイクリング道路は距離が短くなったとはいえ41年間も続いていることになる。
環境保護ということもあるのだろうが、なにはともあれ良いことである。
当時は皇居マラソンをしている人たちは現在ほどではなかったような気がする。
新緑の柳を見ながら、車を気にしないで、
ランニングをしても自転車で走っても気持が良い。
40年ぶりにでかけて走ろうとおもう。
これからもずっと続いてほしい。
2016年7月15日金曜日
ケヤキのお盆
欅の板をくり貫いて作ったお盆
もう5、6年くらいたったろうか
写真写りがよくないな・・・
もっとそるかとおもったのだが、それほどでもない。
予想したとおりなのは、ひねりが入って
角の一つを押さえたりすると、カタカタと音がする。
でも日常使っている分には、及第点というところ。
使い心地も色つやもよい。
しかしお盆としては、重すぎた。
手にしたときの質感は良いのだが
お盆自体が重いのはやはり、よろしくない。
もう5、6年くらいたったろうか
写真写りがよくないな・・・
もっとそるかとおもったのだが、それほどでもない。
予想したとおりなのは、ひねりが入って
角の一つを押さえたりすると、カタカタと音がする。
でも日常使っている分には、及第点というところ。
使い心地も色つやもよい。
しかしお盆としては、重すぎた。
手にしたときの質感は良いのだが
お盆自体が重いのはやはり、よろしくない。
2016年7月14日木曜日
鰻の産卵場所へのなが〜い旅 何故への仮説
こんな記事があった。
鰻は産卵場所へ何千キロも旅をするが、そのナゼに対しての仮説が面白い。
いつもは川で生活し、産卵する時は河口なりその近辺の海で産卵してたのが
1億年、2億年と時間が経過し、少しずつ産卵場所であったところが動いてしまった
というものだ。
今で言うプレートテクトニクス理論というものだろうか、
昔は大陸移動説といった。
小学生5、6年生のときに、「子供の科学」の愛読者だった。
そのときに大陸移動説というのを知った。
びっくりしたなんて言うもんじゃない。
そんな簡単に大陸が動くもんかとおもった。
透き通るくらいの薄い紙を地図帳の大西洋のところにあてがい
アフリカ大陸と南アメリカ大陸と北アメリカ大陸をなぞった。
ハサミでその3つの大陸を切り取り、ジグソーパズルのようにくっつけてみた。
あれ、本当だ!
なんとなく凸凹が合わさっている。
子ども心に、ハサミで切り抜き、合わせてみる、というなんでもないことでも
なんとなく科学をしているという気分になったものだった。
その後、両大陸の切り離された部分の地質が
同時代のもので、地質的にも同じものであるということがわかり
スゴイッスゴイとおもった記憶がある。
鰻の話に戻るが、
少しずつ産卵場所が移動していったというところの「少しづつ」というところがミソだ。
いきなりとんでもないところへ産卵場所が移動してしまったり、消滅してしまったりでは
鰻はとっくに滅びてしまったに違いない。
そのような地殻の大変動で滅びてしまった生き物はたくさんいたことだろう。
渡り鳥も何千キロも飛翔する。
10年前くらい、渡りをする前の白鳥がどうしても見たくて北上川の河畔を訪れたことがあった。
白鳥の大きさに驚いた。
こんなに大きな鳥が高空を群れになり羽ばたいて渡ってゆく姿を想像したら、涙があふれた。
そのときの写真を見ると、今でもじーんとする。
渡りをする鳥たちも、鰻と同じで
昔はもっと近いところで行ったり来たりしていたのかもしれない。
少しづつ地面が動いちゃったもんだから、
「しょーがないなぁ」とか「面倒くさいなぁ、あと少し」とか励まし合いながら
「ふーっぅ、やっと着いた」なんていう会話が聞こえてきそうだ。
これだって、避寒したり避暑したりで渡る先が突然
すっごく遠くになちゃったら、翔ぶ気力がなくなっちゃうってもんだ。
「少しずつ」がやはりミソだ。
鮭もそうだろうか。
ダムが現在のように山奥までたくさん建設される以前は
信州など上流でも鮭の遡上があり、大変なごちそうであったという。
昔は素直な急流だけのところが、地殻変動で段差ができ、小さな滝のようになった。
そこを遡上する魚たちは以前の段差のない急流を上っているのと、気持ちは変わらないのかもしれない。
しかし、彼等はなんとなく
地殻が移動しても、自分たちの普段の川近くの河口近辺、プラスもう少し広い海原で
生活していたような気がする。
クジラも大回遊するが、やはり地殻の移動がその原因だろうか
興味は尽きない。
大陸の移動という考え方は、
難しくいうと、いやそんなに難しいことじゃないけど
座標軸の移動ということと同じだろう。
座標軸の目盛りが変化してしまうといってもよい。
だから、鰻自身は去年と同じとこへいくのに
どうして今年はくたびれるのだろうとくねくね身をよじらせ、
若い白鳥は「なんか去年より遠い〜なぁ ねっ お父さん ふぅ〜」なんて感じるくらいかもしれない。
「A Universe From Nothing」 より引用しよう。
『ある時点で、われわれの観測可能な宇宙となる領域は、光の速度を突破して膨張するだろう。それは、なにものも光の速度より大きな速度で進むことはできないという、アインシュタインの特殊相対性理論に反しているのではないか、と思うかもしれない。だが一般相対性理論によれば、そのような膨張が起こってもかまわないのである。ここはひとつ法律家にでもなった気分で、この点について少々注意深く調べてみよう。特殊相対性理論は、光の速度よりも大きな速度で空間の中を進むことはできないと述べている。しかし、空間そのものは、少なくとも一般相対性理論によれば、その制約を課されていない。そして空間が膨張すると、遠くはなれた二つの天体は空間に乗ったまま運ばれてゆく。天体はそれぞれ元の位置に静止しているのだが、相手に対して超光速で遠ざかるのである。』
いきなり話が鰻から宇宙へとんでしまったが、
座標が変化するという肝心な点は同じだ。
鰻では動かないはずの地殻(座標)が動くこと、宇宙では不変だと考えていた空間(座標)が伸張してること。
どちらも
動かない、変化しない、などを基準に考察するが、その基準自身を疑って考える必要があることを
教えてくれる。
鰻は産卵場所へ何千キロも旅をするが、そのナゼに対しての仮説が面白い。
いつもは川で生活し、産卵する時は河口なりその近辺の海で産卵してたのが
1億年、2億年と時間が経過し、少しずつ産卵場所であったところが動いてしまった
というものだ。
今で言うプレートテクトニクス理論というものだろうか、
昔は大陸移動説といった。
小学生5、6年生のときに、「子供の科学」の愛読者だった。
そのときに大陸移動説というのを知った。
びっくりしたなんて言うもんじゃない。
そんな簡単に大陸が動くもんかとおもった。
透き通るくらいの薄い紙を地図帳の大西洋のところにあてがい
アフリカ大陸と南アメリカ大陸と北アメリカ大陸をなぞった。
ハサミでその3つの大陸を切り取り、ジグソーパズルのようにくっつけてみた。
あれ、本当だ!
なんとなく凸凹が合わさっている。
子ども心に、ハサミで切り抜き、合わせてみる、というなんでもないことでも
なんとなく科学をしているという気分になったものだった。
その後、両大陸の切り離された部分の地質が
同時代のもので、地質的にも同じものであるということがわかり
スゴイッスゴイとおもった記憶がある。
鰻の話に戻るが、
少しずつ産卵場所が移動していったというところの「少しづつ」というところがミソだ。
いきなりとんでもないところへ産卵場所が移動してしまったり、消滅してしまったりでは
鰻はとっくに滅びてしまったに違いない。
そのような地殻の大変動で滅びてしまった生き物はたくさんいたことだろう。
渡り鳥も何千キロも飛翔する。
10年前くらい、渡りをする前の白鳥がどうしても見たくて北上川の河畔を訪れたことがあった。
白鳥の大きさに驚いた。
こんなに大きな鳥が高空を群れになり羽ばたいて渡ってゆく姿を想像したら、涙があふれた。
そのときの写真を見ると、今でもじーんとする。
渡りをする鳥たちも、鰻と同じで
昔はもっと近いところで行ったり来たりしていたのかもしれない。
少しづつ地面が動いちゃったもんだから、
「しょーがないなぁ」とか「面倒くさいなぁ、あと少し」とか励まし合いながら
「ふーっぅ、やっと着いた」なんていう会話が聞こえてきそうだ。
これだって、避寒したり避暑したりで渡る先が突然
すっごく遠くになちゃったら、翔ぶ気力がなくなっちゃうってもんだ。
「少しずつ」がやはりミソだ。
鮭もそうだろうか。
ダムが現在のように山奥までたくさん建設される以前は
信州など上流でも鮭の遡上があり、大変なごちそうであったという。
昔は素直な急流だけのところが、地殻変動で段差ができ、小さな滝のようになった。
そこを遡上する魚たちは以前の段差のない急流を上っているのと、気持ちは変わらないのかもしれない。
しかし、彼等はなんとなく
地殻が移動しても、自分たちの普段の川近くの河口近辺、プラスもう少し広い海原で
生活していたような気がする。
クジラも大回遊するが、やはり地殻の移動がその原因だろうか
興味は尽きない。
大陸の移動という考え方は、
難しくいうと、いやそんなに難しいことじゃないけど
座標軸の移動ということと同じだろう。
座標軸の目盛りが変化してしまうといってもよい。
だから、鰻自身は去年と同じとこへいくのに
どうして今年はくたびれるのだろうとくねくね身をよじらせ、
若い白鳥は「なんか去年より遠い〜なぁ ねっ お父さん ふぅ〜」なんて感じるくらいかもしれない。
「A Universe From Nothing」 より引用しよう。
『ある時点で、われわれの観測可能な宇宙となる領域は、光の速度を突破して膨張するだろう。それは、なにものも光の速度より大きな速度で進むことはできないという、アインシュタインの特殊相対性理論に反しているのではないか、と思うかもしれない。だが一般相対性理論によれば、そのような膨張が起こってもかまわないのである。ここはひとつ法律家にでもなった気分で、この点について少々注意深く調べてみよう。特殊相対性理論は、光の速度よりも大きな速度で空間の中を進むことはできないと述べている。しかし、空間そのものは、少なくとも一般相対性理論によれば、その制約を課されていない。そして空間が膨張すると、遠くはなれた二つの天体は空間に乗ったまま運ばれてゆく。天体はそれぞれ元の位置に静止しているのだが、相手に対して超光速で遠ざかるのである。』
いきなり話が鰻から宇宙へとんでしまったが、
座標が変化するという肝心な点は同じだ。
鰻では動かないはずの地殻(座標)が動くこと、宇宙では不変だと考えていた空間(座標)が伸張してること。
どちらも
動かない、変化しない、などを基準に考察するが、その基準自身を疑って考える必要があることを
教えてくれる。
2016年7月13日水曜日
ケヤキの入り皮
普段なら捨ててしまうようなところだが
入り皮の部分が大きく、面白そうだったので
飾り台のようなものに仕上げた。
もう6年以上はたっているとおもう。
玄関に置きっぱなしで
あばれるとおもったが
ほとんど作ったときのままで、そりはでていない。
入り皮なので
木裏側に木の皮がきている。
普段はこちら側を裏にして使っているので
見えないのがちょっと残念だなぁ
入り皮の部分が大きく、面白そうだったので
飾り台のようなものに仕上げた。
もう6年以上はたっているとおもう。
玄関に置きっぱなしで
あばれるとおもったが
ほとんど作ったときのままで、そりはでていない。
入り皮なので
木裏側に木の皮がきている。
普段はこちら側を裏にして使っているので
見えないのがちょっと残念だなぁ
2016年7月12日火曜日
戦争のできる国
現政権はウハウハだろうな。
ほぼすべて、おもったとおり。
何もかもほったらかしにして
三分の二、三分の二と新聞テレビ・マスコミ皆んな
そればっか
野党はかねてから
戦争のできる国と現政権のことを
批判ばっか
じゃぁ
どんな国にするんだと
耳を傾けても
しーん
どうして
自給自足のできる国と声高に吠えてくれないんだ
セメントだけじゃ
死んじゃうぞ
ほぼすべて、おもったとおり。
何もかもほったらかしにして
三分の二、三分の二と新聞テレビ・マスコミ皆んな
そればっか
野党はかねてから
戦争のできる国と現政権のことを
批判ばっか
じゃぁ
どんな国にするんだと
耳を傾けても
しーん
どうして
自給自足のできる国と声高に吠えてくれないんだ
セメントだけじゃ
死んじゃうぞ
2016年7月11日月曜日
ロングビットを買った
長らく品切れになっていたロングビットを予約して約1ヶ月。
入荷の知らせがあり、注文した。
刃長が63.5mmもいらないし、長くて恐ろしいので
本当はもっと短い50mm前後ので充分だったのだけど
現在はこの長さしか販売してなくて
これを購入した次第。
以前はロングビットも数種類販売していたはずだけど
現在はこの長さだけのようだ。
箱物でくり抜く作業のとき
充分安全に作業しなくちゃならないけど
これで設計した深さまで掘ることができるようになった。
めでたしめでたし なんだけど
送料がやはり高いなぁ・・・
電車か車で買いに行くことを考えれば、はるかに安いのですが。
5000円以上送料無料なら
あと2000円分くらいかそれ以上買ったとおもいます。
ところで
このブログのファビコンの背景が透明になりました。
これは
めでたしめでたし
です
入荷の知らせがあり、注文した。
刃長が63.5mmもいらないし、長くて恐ろしいので
本当はもっと短い50mm前後ので充分だったのだけど
現在はこの長さしか販売してなくて
これを購入した次第。
以前はロングビットも数種類販売していたはずだけど
現在はこの長さだけのようだ。
箱物でくり抜く作業のとき
充分安全に作業しなくちゃならないけど
これで設計した深さまで掘ることができるようになった。
めでたしめでたし なんだけど
送料がやはり高いなぁ・・・
電車か車で買いに行くことを考えれば、はるかに安いのですが。
5000円以上送料無料なら
あと2000円分くらいかそれ以上買ったとおもいます。
ところで
このブログのファビコンの背景が透明になりました。
これは
めでたしめでたし
です
2016年7月9日土曜日
日曜教会
幼稚園に行かなかった。
いや、行かせてもらえなかった。
いやいや、家には僕を幼稚園に通わせる余裕がなかった。
これが一番正確な表現だろう。
兄は、幼稚園に通った。
通園カバンは、なんとランドセルであった。
ランドセルを背中にしょった、兄の笑顔の写真がまぶしい。
その兄が通った、幼稚園は日曜教会を開いていた。
母は僕のことをかわいそうだとおもったのだろう。
試しに一度行ってみて
イヤじゃなかったらいってごらん
という。
最初の日は
兄か母に連れられていったはずだが
覚えていない。
やや薄暗がりの広い部屋に椅子がずらっと並んでいて
真ん中に人が通れるくらいの通路がつくってあり
その前方は演壇みたいのがあった。
毎回、園長先生か牧師さんのお話があり
それが終わると、
長い柄の先に虫取り網を小さくしたような
黒いベルベットのような生地でできている袋が
中央の通路から、柄を伸ばして
一人ひとりの前にまわってくる。
参列者は少しのお金をその袋に入れるわけだ。
母はそうすることを知っていたのだろうか。
小銭など持たせてもらえなかった。
家に帰って、そんなことを兄に話すと
こうすればいいのだと教えてくれた。
袋の中に手を入れて
小銭を取り
その取った小銭を袋の中で落として
チャリンと音をさせれば
入れたことになると。
その儀式が終わると
幼稚園の先生なのだろうか
若い女の先生たちが、いくつかのグループに分かれて
一人ひとりに参加した印に
かわいらしい天使の銀色のシールを貼ってくれた。
それが夏休みのラジオ体操の出席印より多かったということは
ずいぶんとまじめに通ったことになる。
兄のお古の賛美歌の歌集を持って通い
楽しく歌ったことはよくおぼえている。
だから、いまでもいくつかは
歌える。
そしてその歌集は今でも手元にある。
そんなにまじめに通ったのには訳がある。
寄付を促す例のベルベットの黒い袋。
毎回チャリンと音をさせていたのだが
神様許してくださいと、子ども心に祈りながら
10円玉をかすめとっていた。
ギュッと握り、汗でヌルンぬるんになった10円玉で
帰りに駄菓子屋により
真っ赤な苺の飴を買っていた。
飴玉には長めの糸がついていて、
口の中でなめては、その糸で飴玉を空中でクルクル回し
家に着くまで
そんなことを何度も繰り返した。
ある時、家について
母がエーってしてごらんという
舌を出してエーってやった
お前、買食いしたねといわれ
しらばっくれたが、バレてしまった。
神様は許してくれていたようにおもえたが
母は許してくれなかった。
お灸をすえられた。
言葉でお灸をすえられたのではなく
本物のお灸を
親指と人差し指の間にてんこ盛りのお灸を盛って
すえられた。
その後もお灸をすえられたためか
この歳になっても
そのときのお灸の跡が残っている。
日曜教会は行かなくなった。
いや、行かせてもらえなかった。
いやいや、家には僕を幼稚園に通わせる余裕がなかった。
これが一番正確な表現だろう。
兄は、幼稚園に通った。
通園カバンは、なんとランドセルであった。
ランドセルを背中にしょった、兄の笑顔の写真がまぶしい。
その兄が通った、幼稚園は日曜教会を開いていた。
母は僕のことをかわいそうだとおもったのだろう。
試しに一度行ってみて
イヤじゃなかったらいってごらん
という。
最初の日は
兄か母に連れられていったはずだが
覚えていない。
やや薄暗がりの広い部屋に椅子がずらっと並んでいて
真ん中に人が通れるくらいの通路がつくってあり
その前方は演壇みたいのがあった。
毎回、園長先生か牧師さんのお話があり
それが終わると、
長い柄の先に虫取り網を小さくしたような
黒いベルベットのような生地でできている袋が
中央の通路から、柄を伸ばして
一人ひとりの前にまわってくる。
参列者は少しのお金をその袋に入れるわけだ。
母はそうすることを知っていたのだろうか。
小銭など持たせてもらえなかった。
家に帰って、そんなことを兄に話すと
こうすればいいのだと教えてくれた。
袋の中に手を入れて
小銭を取り
その取った小銭を袋の中で落として
チャリンと音をさせれば
入れたことになると。
その儀式が終わると
幼稚園の先生なのだろうか
若い女の先生たちが、いくつかのグループに分かれて
一人ひとりに参加した印に
かわいらしい天使の銀色のシールを貼ってくれた。
それが夏休みのラジオ体操の出席印より多かったということは
ずいぶんとまじめに通ったことになる。
兄のお古の賛美歌の歌集を持って通い
楽しく歌ったことはよくおぼえている。
だから、いまでもいくつかは
歌える。
そしてその歌集は今でも手元にある。
そんなにまじめに通ったのには訳がある。
寄付を促す例のベルベットの黒い袋。
毎回チャリンと音をさせていたのだが
神様許してくださいと、子ども心に祈りながら
10円玉をかすめとっていた。
ギュッと握り、汗でヌルンぬるんになった10円玉で
帰りに駄菓子屋により
真っ赤な苺の飴を買っていた。
飴玉には長めの糸がついていて、
口の中でなめては、その糸で飴玉を空中でクルクル回し
家に着くまで
そんなことを何度も繰り返した。
ある時、家について
母がエーってしてごらんという
舌を出してエーってやった
お前、買食いしたねといわれ
しらばっくれたが、バレてしまった。
神様は許してくれていたようにおもえたが
母は許してくれなかった。
お灸をすえられた。
言葉でお灸をすえられたのではなく
本物のお灸を
親指と人差し指の間にてんこ盛りのお灸を盛って
すえられた。
その後もお灸をすえられたためか
この歳になっても
そのときのお灸の跡が残っている。
日曜教会は行かなくなった。
2016年7月6日水曜日
ファビコン画像の背景を透明にした
画像の背景を透明にする、これもまた簡単でした。
プレビューで、その画像を16×16にサイズ変更し
Microsoftアイコンのフォーマット(optionキーを押す)で書き出し
bloggerのレイアウトのファビコンでその画像を読み込みこんで
アップロードして、完了。
簡単だなぁ。
おや?
キャッシュがきいているのか、すぐには変わってないな。
一日たっても、変化なし。
ブラウザーのキャッシュはクリアーしたし・・・
う~~~ん
プレビューで、その画像を16×16にサイズ変更し
Microsoftアイコンのフォーマット(optionキーを押す)で書き出し
bloggerのレイアウトのファビコンでその画像を読み込みこんで
アップロードして、完了。
簡単だなぁ。
おや?
キャッシュがきいているのか、すぐには変わってないな。
一日たっても、変化なし。
ブラウザーのキャッシュはクリアーしたし・・・
う~~~ん
2016年7月4日月曜日
ファビコンという言葉を初めて知った
Favorite+icon = Favicon なんだそうだ。
ブラウザーのタブ部分に表示されるちっこいアイコンのことをファビコンという、のです。
知らなかった。
Macならアイコンを作るのも簡単で、すぐにできた。
Blogger に設定するのも、えっ ていうくらいこれまた簡単にできた。
なんかうれしい拍子抜け。
普段使っている Safari には、通常の状態では表示されなので
Firefox で確かめてみた。
うん、確かに表示されている。
悪くない。
アイコンの背景が白になってしまっているのを、透明にできれば
もっとよさそうだ。
やってみるか。
ブラウザーのタブ部分に表示されるちっこいアイコンのことをファビコンという、のです。
知らなかった。
Macならアイコンを作るのも簡単で、すぐにできた。
Blogger に設定するのも、えっ ていうくらいこれまた簡単にできた。
なんかうれしい拍子抜け。
普段使っている Safari には、通常の状態では表示されなので
Firefox で確かめてみた。
うん、確かに表示されている。
悪くない。
アイコンの背景が白になってしまっているのを、透明にできれば
もっとよさそうだ。
やってみるか。
2016年7月3日日曜日
新生姜の甘酢漬け
いつも適当に作っていたのだけど
NHKの料理番組で見たのをやってみた。
おいしいね
・新生姜500g
・砂糖190g
・お酢2.5カップ(ごく普通のお酢でよさそう、わたしは一番安かった穀物酢)
新生姜は皮を(スプーンで)むき、塩45gでもみ、熱湯をかける。
(冷まさないで)よく絞り、つくっておいた甘酢へいれる。
冷蔵庫で2,3日なじませてから、1ヶ月位は大丈夫。
わたしは、ちょうど1ヶ月で食べ終わった。
今回はじめて、その甘酢を水で薄めて飲んでみた。
おいしいね。
いままで捨ててしまっていたのが、トホホです。
ジンジャーエールなんです。
あたりまえか。
炭酸でわってみよっと。
NHKの料理番組で見たのをやってみた。
おいしいね
・新生姜500g
・砂糖190g
・お酢2.5カップ(ごく普通のお酢でよさそう、わたしは一番安かった穀物酢)
新生姜は皮を(スプーンで)むき、塩45gでもみ、熱湯をかける。
(冷まさないで)よく絞り、つくっておいた甘酢へいれる。
冷蔵庫で2,3日なじませてから、1ヶ月位は大丈夫。
わたしは、ちょうど1ヶ月で食べ終わった。
今回はじめて、その甘酢を水で薄めて飲んでみた。
おいしいね。
いままで捨ててしまっていたのが、トホホです。
ジンジャーエールなんです。
あたりまえか。
炭酸でわってみよっと。
2016年7月2日土曜日
郵便局に行った
記帳するために郵便局へ行った。
ATMが並んでいたので、窓口へ行った。
待っている人が0人でも
受付カードを取ってくれというので取った。
わたしを待たせて、その方は硬貨の枚数カウント機械へ
行ってしまった。
その仕事は後回しにして、並んでいる人をなくすべく仕事をするというのが
第一にすべきことだろう。
その郵便局の局長さんの教育が悪いのか、対応してくれた方がお客さんの気持ちになれないのか
どちらにしても、いけないね。
わたしの不満そうにして突っ立って待っている姿に気づいたのか
やや年配の方が対応してくれた。
少しは気持ちがなだらかになりました。
ATMが並んでいたので、窓口へ行った。
待っている人が0人でも
受付カードを取ってくれというので取った。
わたしを待たせて、その方は硬貨の枚数カウント機械へ
行ってしまった。
その仕事は後回しにして、並んでいる人をなくすべく仕事をするというのが
第一にすべきことだろう。
その郵便局の局長さんの教育が悪いのか、対応してくれた方がお客さんの気持ちになれないのか
どちらにしても、いけないね。
わたしの不満そうにして突っ立って待っている姿に気づいたのか
やや年配の方が対応してくれた。
少しは気持ちがなだらかになりました。
2016年7月1日金曜日
2016年7月現在、稼働原発は2基だけ
今夏は国からの節電要請はないらしい。
猛暑になったとしても、
この6年間くらいの、企業や個人の節電が功を奏したようだ。
わたしも、せっせせっせと節電に励んでいる。
ここ2年間は病気になってしまい、冬場の暖房が節電しているとは言えないが
節電して病気がひどくなるのは本末転倒なので、仕方がない。
原発を稼働してなくても、なんとか生活できていたのに
再稼働するなんて、歯ぎしりしすぎて、顎が痛い。
原発反対は従来のデモなど、方法はいろいろあるだろうが
一番いいのは、徹底した
節電による電力供給過剰状態を起こすこと
のような気がしてきた。
国は徹底した節電要請の先行きを危惧したのかもしれない。
電力供給が余り出せば
賢くない国民の矛先は、いくらなんでも国に向いてしまう
これはマズイ。
原発を1基も稼働させないための
節電攻撃の良い所は
取り締まりができないところだね。
まさか
指定した電力量以上を使わない家庭や事業所は
監獄行きなんて、しないとはおもうけど
するかもしれない。
福島原発が再度震度6程度の地震におそわれたら
今度は持ちこたえられずに、放射能が拡散し
本州半分以北は生活できなくなるというのに
現在の参院選では、これっぽっちも争点になってない。
選挙権のある人は
選挙権のない子どもたちの将来を考えようよ。
ねっ!
猛暑になったとしても、
この6年間くらいの、企業や個人の節電が功を奏したようだ。
わたしも、せっせせっせと節電に励んでいる。
ここ2年間は病気になってしまい、冬場の暖房が節電しているとは言えないが
節電して病気がひどくなるのは本末転倒なので、仕方がない。
原発を稼働してなくても、なんとか生活できていたのに
再稼働するなんて、歯ぎしりしすぎて、顎が痛い。
原発反対は従来のデモなど、方法はいろいろあるだろうが
一番いいのは、徹底した
節電による電力供給過剰状態を起こすこと
のような気がしてきた。
国は徹底した節電要請の先行きを危惧したのかもしれない。
電力供給が余り出せば
賢くない国民の矛先は、いくらなんでも国に向いてしまう
これはマズイ。
原発を1基も稼働させないための
節電攻撃の良い所は
取り締まりができないところだね。
まさか
指定した電力量以上を使わない家庭や事業所は
監獄行きなんて、しないとはおもうけど
するかもしれない。
福島原発が再度震度6程度の地震におそわれたら
今度は持ちこたえられずに、放射能が拡散し
本州半分以北は生活できなくなるというのに
現在の参院選では、これっぽっちも争点になってない。
選挙権のある人は
選挙権のない子どもたちの将来を考えようよ。
ねっ!
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