2018年4月11日水曜日

司馬「江漢西遊日記」の旅 その16

 江漢はどうして、北斎のほの字も日記にも手紙にも他の書物などにも残さなかったのだろう。
江漢生存中に北斎が単純に有名でなかったことだけなのだろうか。

 江漢先生、銅版画に成功したし、油絵だって先駆的に取り組み、
その作品だって上手でたくさん残っている。

 北斎も油絵に関心高くみずから描いているし、西洋画の陰影法だって、
あっさり描ききっている。

 ふたりの接点は十分すぎるほどあるとおもうんだけれど、
何も記録が残ってないのが不思議で変なんだよな。


 江漢1747〜1818、北斎1760〜1849 なので
北斎生まれてから江漢亡くなるまで、58年も重なっているのだから
お互いが名前くらい知っていて、どこかに記録が残っていてもよさそうなものだが
なさそうなのだ。

 もっとも一説として、北斎が江漢の冨士の画を見ていただろうというのがある。
証拠はないが、江漢があれだけ冨士を描いたのだから、
北斎がそれを見ていたってなんら不自然ではない。
それをもって、影響を受けたかどうかなんてわからんけどね。

 江漢はあんな性格で人付き合いも苦手だったが、良いものは良いと認めることができる人だった。
北斎も江漢以上に世間との付き合いはヘタで気位の高い人だった。
でも、二人ともひとの能力を妬むような人ではなかったようにおもう。

 ふたりのことは研究しつくされているようだが、
例えば、同時代の円山応挙については、
天明8年11月26日に
「坐しき四枚襖、京都の画師応挙なり。鯉二つ、藻也。亦たかわせみの飛びたる図なり。誠に上手なり。」
のように、ただ「上手」ではなく「誠に」と最上級の褒めようである。

 こんなふうに、江漢先生どこかに北斎のことを記したものがあることを期待するな。


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