古松軒「東遊雑記」に、天明8年7月9日巡見使一行と久保田(秋田)に入るところ、
「人びとこの辺りの風俗を論じ見る所、この方のおもうよりも農業のいたしかた不調法にて、強いて地の利をとるのの心もなく、生まれながらにして鈍才愚物の百姓ゆえに、自分貧賤を招くように思われ侍ること多し。衣服のつづれしも、屋宅の見ぐるしきもいとわず、米のたくさんなるままに、平生遊び暮らしにてすむことなるによって、それに応じて心も遣うことなれば、見る体いずれにても鈍に思われ侍るなり。上方筋の人物とは大いに異なる。・・・」
と記した。
此処まで書くかというほどに、けなしている。
それにしても、旅の紀行に「生まれながらにして鈍才愚物」はなかろう。
この手前のところで、通り過ぎてきた街をほめそやしているので、なお一層この部分が際立つ。
東遊雑記をとおして古松軒の人柄が浮かぶのだが、
気位が高いというより面子を潰されることがなによりも嫌だった、
巡見使随行であるからその土地々々の評価をするのは仕事の役目とはいえ、
上中下、大中小、松竹梅、貧富の差などそれら言葉の端々に偏見が見える、
を感じる。
わかりやすくいうと、
当時、家の屋根は西国では瓦、東国では藁が多かったわけだが
藁の屋根→貧しい→卑しい、と
古松軒の見方は単純なのだ。
「東遊雑記」が世に出て30年ほど後に、菅江真澄がこれを読む機会を得た。
そしてこう批判し、嘆く。
「天明のころ、御巡見使にやしたがい来りけむ、備中の国の古松吉辰が記し『東遊記』といふものを見れば、久保田をあしざまに言ひ、亀田をことごとほめたり。何か心にかなはぬ事ありしにや。さりけれど、ふみは千歳に残るものなり。心にかなはぬとて、いかりのまにまに筆にしたがふものかは」
なんと的を得て、相手を思いやりながらも、あんな風にかくことはしないほうがよいのにと
静かだが言うべきことはしっかりと記している。
真澄は随筆集「久保田の落穂」に上記の文章を認めたが、
それを読んだ古松軒の感想が気になる。
うーん、残念ながら古松軒1807年に亡くなってしまっていた。
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