おもな内容は、小栗忠順従者 佐藤藤七の記録、「渡海日記」と「諸用留」が読める。
1860年遣米使節団としてポーハタン号に乗船し、いざアメリカへ。
護衛艦として咸臨丸が従う。
咸臨丸艦長勝海舟、出発前から体調を崩し、航海中はまったく役立たず、
米国へ往く舟を待っていたブルック中尉を助太刀にやっとこさサンフランシスコへ入港した。
このあたりのことは此の本にはなく、此の本の著者のホームページに詳しい。
艦長としての勝の情けなさ、乗船した日本人たちのやる気のなさ、いい加減さ、身分差に安住している様など、とにかくひどいもんだ。
咸臨丸で往復した勝の大ぼら吹きと、小栗の日本自身で造船するという構想を頭から批判する先見性のなさが際立つ。
洋行して同じものを見てきたはずなのに、小栗はとにかく先進諸国に追いつけとあれもこれもと構想し奔走するが、一方、勝といえば何のことはない、のらりくらりしているだけ。
これからの日本などどうでも良かった感じだな。
勝の不甲斐なさは此のへんでおしまいにして、此の本のことへ戻ります。
日記は事実を淡々と記しているだけ。
藤七の考察とか感想はない。
なので、タイムマシンにのり1860年のアメリカ東海岸の様子を見ている感じがしておもしろい。
ドキュメンタリー映画みたいだな。
当時西海岸や内陸ではまだまだ、バキュンバキュンやっているところもたくさんあって無法地帯なんていっぱいあった。今では全米でそうだけど。
藤七が訪れたところは、米国でももっとも文化文明科学技術その他すべてにおいて最高な地域だった。158年前とはいえ、宿泊した旅館に驚く。蛇口をひねれば流れ出る水道施設、水洗便所が各部屋にあり、内線電話だってある。
街路にはガス灯があり、ほとんど現代と変わらない。
後に遣欧使節団に随行した福沢諭吉が一緒に行った殿様が水洗便所を使うさまを日誌に記している。
洋式便所の周りの縁に両足をのせまたがり、和式スタイルでなおかつこちらを向いて、さらに
刀持ちのお小姓を便所前に侍らせていたらしい。当然ドアは開けっ放し。
これを見た諭吉、腹立ちまぎれにドアを蹴飛ばし閉めたらしい。
ホラを吹いたかどうかはわからぬが、
遣米使節団の皆さん、どんなふうに洋式水洗便所を使ったのだろう。
使い方の説明は必ずあったはずだ。
ジジイにはこんなことしか興味がわかぬ。
小栗と米国の役人との外貨交換率の交渉場面は有名だが、
懐から取り出したそろばんに驚き、その他も詳しく書かれ興味深い。
小栗の風采が記され、なんか身近に感じられる。
随行した者に、肥前藩の出が多いのだがなぜなのだろう。
藩が先々のことを考え、多額の出資をしたのだろうか。
藤七を含め、70名ほどの日本人が世界一周をして帰国したが、
其後の彼らはどのように生きたのだろう。
この経験を生かして活躍したのだろうか。
帰国に際して乗船したナイアガラ号は、其後の活躍がこれまた興味深い。
話がどうもどんどん膨らんできた。
此のへんでおしまい。
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