2019年12月31日火曜日

ショック 甘酒失敗

 近所の造り酒屋で年末年始自分用に日本酒を数本購入した。
おまけでまだ絞れるくらいの酒粕を頂いた。
このままかじっても口の中が旨味でなんとも言えぬ味が広がる。

 半日水に漬け置きしてなじませた。
あとは砂糖を大さじ3杯いれて火にかけるだけ。
今日は冷え込んでいるし、甘酒なんて久しぶりだなと、気分はちょっとウキウキ♪


 3杯入れたところで、アッと気づいた。
塩だった。

 本年最後のゴミ出しで処分した。
なんか、すっきりしないので
酒屋にでかけて、再度酒粕買って、作る、ことにした。


2019年12月30日月曜日

発作性心房細動と腱鞘炎

 2015年12月、二回目のカテアブ手術前ころから、両手の指関節がおかしくなった。
強く握ってグーができなくなってきた。
年が明け、5月に手の外科専門へ行った。
そのころには、自分の手首をやっと握る程度にしかできなくなっていた。
キーボードの操作もブラインドタッチはできなくなった。
アランフェスを弾くことができるくらいの腕前だったが、まったくだめになってしまった。
これはこたえた。
車のハンドルの部分を握ることはできなくなっており、斜めに手のひらをしなければハンドル部分の握りを持てなくなっていた。

 レントゲンでは異常がなく、両手とも腱鞘炎だという。
治療の注射がとても痛いのだという。
それを何本か射つと言われた。
カテアブの術後の調子も良くないので、心臓がびっくりするとおもい、治療はしなかった。

 2,3回かよったが、治療(激しく痛い注射)しないなら、通院しないでくださいといわれ、もっともなことだとおもった。

 その病院の待合室に来るほとんどの人は手のひらの病気で、知り合い同士がいたり、または同じ病気同士で病気の状態を話し合っている人たちが結構いた。
ジジイは耳をすましてそれらをきいた。

 比較的若い女性が力仕事もしてないのに、急になってしまったという人が数名いた。
ある女性がホルモンのせいじゃないかしらというのが、耳に入った。

 帰宅してネットで調べると、女性ホルモンのせいでそのようになることが多いという。
知らなかった。

 心臓からはいろいろな種類のホルモンがでているらしい。
心房細動がおこると膀胱がすぐにパンパンになって尿意が甚だしくなる。
これは心臓のポンプ機能低下してしまうため血液を送れなくなり、心房に水がたまりすぎるのを心臓自身が回避するためにANP(心房性ナトリウム利尿ペプタイド(atrial natriuretic peputide: ANP)という心臓ホルモンが大量に分泌され、これが利尿作用があるために尿意がひどくなったり多汗になったりする。結果、体液量が減ると、血圧が下がって心臓の負担が減るという仕組みです。

 腱鞘炎は子育てのときに手首が炎症を起こしたくらいで、その後はまったく起こったことはなかった。心房細動がきっかけではないかと考えるようになった。

 2017年7月下旬ころからやっと心房細動もなくなりはじめ、それにつれて、手を握ることが少しずつだが回復してきているのを自覚できた。
手首は楽に強く握ることができるようになり、指部分もやっと握ることができるくらいになっている。

 たまたまなのだが、心臓の薬ビソプロロール服薬をやめて11日たった。
そんなにすぐ効果は現れるはずはないが、ハンドルの細い部分を、手のひらを斜めにしなくても握れるようになっていることに気づいた。

 グーを握るようにしてみると以前より深くできている。
ギターを弾くにはまだまだだが、心臓が回復してきているのと一致して、手のひらの状況も良くなっているのは、やはりなんらかの心臓から出るホルモンと関係があるのではなかろうかと想像してしまう。

 このことを研究テーマに選んでくれる医学者はいないものだろうか。



2019年12月29日日曜日

「北天の星」吉村 昭を読んだ

北天の星 上・下 新装版 講談社文庫 大きな文字で読みやすい
講談社 2000.4
吉村 昭 著

 日本で初めて種痘を実施した五郎治のはなし。
また五郎治は日本人で2番めにスキーをした人(かもしれない)。日本人で初めてスキーをした人は、漂流民でロシアのイルクーツクで日本語学校教師をしていた伝兵衛さん。

 上下とあり、長い歴史小説である。
しかし、読み出すととまらない。
深く深く感動した。

 五郎治の強靭な精神力と潔癖感、それを支えた恵まれたこれまた強靭な体躯。
驚嘆した。

 字が大きいので、読みやすさの効果は「大きな文字で読みやすい」という宣伝文句の
何倍も何倍もあります。

 講談社さん、他の作品もみなこうしてください。

2019年12月28日土曜日

windows10 1909 をインストールした

 1803のupdateが次のような赤字のメッセージが出て、よろしくありません。



 数度試行錯誤したのですが、あきらめて
いっきに1909をインストールすることに。
ここから始まって、



最後のこの画面に成るまで



4時間40分かかりました。
本を読みながらしたので別にいいのだけど、かかりすぎだよ。

で、確かに1909になっている。



 updateするたびに、スクロール方向がmacと逆になるのをなおしていたけど、
もう面倒くさいからやめました。

 それにしてもwindowsのupdateはいらつくし、方法としてもダメだな。
windowsの開発者たちは自分でupdateしたことがないにきまっている。


2019年12月27日金曜日

いじめた人たちへ

 今どうしてますか?
いじめられた人たちは、自分から死んじゃった人もいるし、あるときあのときを思い出して怖くなる人もいるし、もしかしたらいじめにまわっている人もいるかもしれません。

 新聞やその他マスコミはいじめられた人ばかりの内容、いじめた人はその何倍もいるだろうに。
された方は、ころんでできた傷ならかさぶたができて治ればもとどおりになるけれど、
心の傷は外からは見えません。一生の傷。
した方は、いじめたことなんかいちいち覚えてなんかいませんよね。

 いじめた人たちの、そうしていたときの気持ちをどこかにかいてほしいです。
今はいっぱいそのような媒体があるんですから。
別に反省なんかしてなくてもいいんです。

 聞かせてほしい。


2019年12月26日木曜日

なにが「お・も・て・な・し」だっ!

 贈収賄の片割れじゃねえか!!!

 2020年はあと一週間で、その夏には東京オリンピックが開催される。
だけど、盛り下げるようで申し訳ないが、ジジイはオリンピック反対なのです。

・もう役目は終わっている。
・運動選手はそれぞれの種目に世界大会などがある。
・オリンピック委員会はもう利権団体そのもので委員会や委員たちは当然のように視察と称して開催国候補をのし歩きうまい汁を吸っている。放送権も高額で一手に仕切っている。
・開催国の新建設された施設はその維持に莫大な費用がかかり、無駄。

 オリンピックをやめるのは簡単で、開催国候補にどこの国も手を挙げなければ良いだけです。
委員会はあせって、あちこち働きかけてくるかもしれないけど、それも無視。

 もうやめよう、オリンピック。


2019年12月25日水曜日

今日はクリスマス

 すっかり定着した様子。
鶏肉七面鳥を頬張り、ケーキを食べ、美味しいものを飲み食いする。
それにクリスマスカラーの白緑赤は料理の基本、和食はそれに黒と黄色が入るんだっけ?
年末、大晦日や正月まえの、美味しいものを食べる前夜祭だな。
ジジイはそれほど偏屈ではないので、まぁ楽しくやってくださいという感じ。

 クリスマスがここまで受け入れられたんだから、
是非、アルコールOKのラマダンもやってほしいな。

昼間は熱中症と戦いながらヒーヒー頑張って、夜はどんちゃん騒ぎする。
ね、やってみようよ。
ラマダンも。


2019年12月24日火曜日

残秋

 近くの土管公園のそのまたそばの散り残りの葉たち。



 もう冬に違いないのだけれど、まだ秋が残っている。
枯れ木も山の賑わいというほどの寂しさは感じられない。



2019年12月23日月曜日

輪切り大根の甘酢付け

 千枚漬けのように輪切りにして甘酢に漬けただけです。
千枚漬けは聖護院かぶを約2mmの厚さで輪切りにして塩をふり、昆布を数枚載せ、重しをのせて漬けます。
しばらくして、桶ごとひっくり返し余分な水分を切ります。
あれ、なんか順番が違ったかな・・・

 ジジイは青首大根の上半分を切り分けたものを購入、90円。
これを薄切りの輪切りにします。
ジジイはこの薄切りは得意技、あちらか透けるくらいにできます。



 この画像ではうまさはつたわりそうもないけど、ジジイは自画自賛です。

 ハンバーグ屋さん、この大根をピクルス代わりにのせるとうまいですよ。
サンドイッチにもどうぞ。



2019年12月22日日曜日

かまきりがまだいた

 この画像は一昨日12月20日のもの。
暖かい日はあるものの、0℃近くになるときもある12月なのにまだカマキリがいた。



 栄養状態はよさそう。
正月すぎても、頑張るのかな。


 こちらは軒下にずっといるジョロウグモ。



 結構大きくおしりの部分だけで3cmはありそう。
家周りの蜘蛛はこの一匹になってしまった。



2019年12月21日土曜日

来年度国家予算

 狂ってるな。
ジジイはもう先が見えたから良いとして、
これからの若者たちはどうなるのだ。

 自分も含めて先人が残すものが借金とは。
情けぬ。


2019年12月20日金曜日

桜田門外ノ変 上・下 吉村昭 を読んだ

桜田門外ノ変 下 改版 新潮文庫
新潮社 2009.12
吉村 昭 著




 読みごたえたっぷり。
面白く、ためになる。

 何を隠そう、ジジイの父方の祖母は彦根藩武家の娘でござった。
なのでジジイには彦根の血が四分の一流れている。
しかし、せゐばあちゃんはなんにもそれらにかかわるはなしはしてくれんかった。
うーん、残念。
しかし、父からはいろいろ聞いている。

 ジジイは横浜生まれで、通学した中学校の近くに掃部山公園があった。
付近に住んでいる人以外はなかなか読めない。
地元の人には県立音楽堂or県立図書館or県立青少年センターの裏といえばすぐにわかる。



 それにしても斉昭公は将来に禍根を残したな。
よいこともたくさんしているのに・・・

 彦根と水戸の方たちは今でもきっと感情的にまずいのだろうな。
どちらかが歩み寄ろうとしても、断るだろうな・・・

 水戸藩では斉昭公が唱えた尊王攘夷論が途中から変質して、結局は藩内で分裂して異論者同士が殺し合って、明治維新を迎えたら、有能な若者たちはほとんど死に尽くしていたんだから、
ため息もでない・・・

 襲撃の合図に放った一発の弾丸が井伊掃部守直弼の太腿から腰を貫通していたという検視報告には驚く。直弼は駕籠の中であぐらをかく姿勢でいるしかなく、銃弾は駕籠の下部から入ったことがわかる。勿論重傷でこの一発で直弼は動くことはできなくなり、気を失っていたかもしれない。

 ピストルを発射した本人は前日か前々日にわたされ、練習も何もしていなかったろうし、ピストルだって初めて撃ったに違いなかった。緊張で震えていただろうし、念入りに狙う暇などない。
懐から速やかに出して、駕籠に向けてズドン。たった一発が見事に命中したのだから、スゴイ。

 関鉄之介は斬首(1862年)になったが、孫の関勇氏は昭和58年に病没していると吉村昭氏のあとがきにある。明治は遠くになりにけりなんて呑気に言っているが、そんなのは嘘っぱちだということが実感できるではないか。ましてや江戸時代のこと。

 産業革命から科学技術はすこぶる発展してきているが、人の方は遅々として変わらぬようだな。
なんせ縄文時代は一万年間ほとんど人々は変わらぬ生活を送っていたというではないか、一万年ですよ。

 話が迷走してしまった。
許されよ。


2019年12月19日木曜日

かんぽ保険不正販売

 なんてこった。
郵政が民営化されたとはいえ、少し前までは国営事業。

 国が爺さん婆さんを騙して勧誘するんだからな。
オレオレ詐欺よりなんかあくどい。
悪さを比べてもどうしようもないんだけど・・・


2019年12月18日水曜日

定期検診

 発作性心房細動の定期検診に行ってきた。
寒くもなく助かる。

 2017年7月下旬から突然、あれほどしつこかったカテアブ後ずっと続いていた期外収縮や頻脈がピタリととまった。原因は不明。
それから約2年と半年弱、なんとか日常生活を過ごすことができている。
ありがたいことだ。

 しかし、今朝も服薬したが、ビソプロロールフマル酸塩錠2.5mgを毎朝飲んでいる。
これをやめてみたいと主治医に相談した。

 1,2週間やめて様子を見てみましょうかということになり。
明日よりやめてみることにした。

 頻脈があったりしたら、服薬を再開し一日おきにして、様子を見る。


2019年12月17日火曜日

板矧ぎのこと

 「漂流」吉村 昭 著 の中に、年に1度程度の割合で、それもほそぼそと流れ着く流木で和船を作るところがある。また、和船の板を矧ぐには縫い釘が必要なのだが、それも作る。鉄を加工するにはフイゴがなけれなならないが、それも作る。原料の鉄がそこらに転がっているわけがない。なんせ火山で無人島だ。しかしあるとき偶然か執念か、磯に岩にしては不自然な岩の塊を発見する。よくもまぁ見つけることができたとおもう。

 それは碇が流れつき岩場に絡まっていたものだった。そしてこれを苦労して引き上げる。
フイゴでその碇の表面を真っ赤にし、斧でこそぎとるという作業を繰り返し、釘を作った。

 和船の板矧ぎのことをネットで調べてみた。
「姫路藩和船建造委員会」HPにこの画像を見つけた。(不許可で掲載して申し訳ありません)



 説明文に
「数枚の板を横に並べて接合し航(かわら)とします。接合部から水が漏れないように接合面がぴったりと合わせられるように、薄いのこぎりで二枚の板を合わせて間を鋸で挽きます。『矧(は)ぎ合わせ』という作業です。電動鋸を使うことはできません。矧(は)ぎ合わせには専用の薄い鋸が使われます」とあります。

 前置きが長くなってしまった。ジジイになるとどうもイカン。
この矧ぎ合わせの方法を以前椅子の座面が割れたときの修理方法でジジイは得意になって画期的な技だと自画自賛したことがあった。



 お恥ずかしい限りである。
弁解だけはしておきたい。
ジジイは独力でこの技を見つけた。今でもこの技は今後も使えるし有用な方法である。
ちょっとした板矧ぎならばこの方法が簡単確実でこれで十分である。
実際この椅子の座面はもうじき一年たつがなんともない。

 家具製作をする木工職人たちは板矧ぎとなるととても神経質になる。
まぁ当然のことなのだが、命をかけるわけではない。
でも和船の船大工さんは、船乗りの命を守るため、命がけで板を矧ぐのだ。
板の矧ぎがきれたら、船は沈む。

 縫い釘で打ち付ける前に、矧面にダボを入れたり、溝を堀り木の皮から作った繊維状の詰め物を入れる。水を含むと膨張して水漏れを防ぐ。

 和船の構造やその制作過程はとても興味深い。




2019年12月16日月曜日

「漂流」吉村 昭 を読んだ

漂流 新潮文庫
新潮社 1980.11
吉村 昭 著


 ちょっと年代物の文庫本なので活字のポイントがちっこい。
しばらく読んでは目を休めねばならない。

 感動ものだな。
あほうどりの繁殖地、鳥島に流れ着いた漂流民の凄まじい話。


2019年12月15日日曜日

「歴史を記録する」吉村 昭 を読んだ その5

河出書房新社 2007.12
対談集。

 ここの対談は現在から将来に通じる。

○元禄以降は公共投資に税金を使わなかった。

吉村 このあいだ大石慎三郎さんの書いているものを読んでいたら、元禄時代までに幕府は道路や港湾の整備を完璧にやっちゃったというんですね。すると、今度は税の取り立てを緩めて、いまでいう減税をした。藩もあまり徴収しなくなった。その結果、商人が力をつけ、庶民も豊かになってゆく。

 幕府は、元禄時代までは橋をつくったり、街道を整備したり一生懸命にやってます。でも、そのあとは何もしていない。その代わり、道路は大切なものであるということを教えるわけ。だから、街道では大八車を走らせなかった。

半藤 江戸の町では走ってもいけなかった。下駄を履いて走ったら、道を大事にしない不届き者といわれた。例外として許されたのは飛脚と火消しぐらいです。

吉村 街道を大八車は通れないというのは『生麦事件』を書いてわかったんです。荷は牛や馬の背に載せて運んだ。当然、牛糞や馬糞が落ちるわけですが、街道沿いの住民がそれを畑のほうへ放り投げてきれいにし、そのあと水を打った。ところが、戊辰戦争のとき、西軍が武器や弾薬を大八車で運んだから、街道がメチャメチャになっちゃった。

半藤 そうか、道を大事にするという発想から華道とか茶道が生まれたのではないか。みんな「道」がつく。県道や柔道と呼び出したのは最近の話で、昔は剣術、柔術でしたからね。

吉村 元禄時代に公共投資が終わったあと、藩校が全国各地にできて、文化活動が盛んになる。

 いろいろおもしろい対談なのに、これらの内容が世間一般に広まらないのは何故なのか?
広まりだせば一気にそうなるものなのか?

 ジジイが知らなさすぎるのか?
うーん、わからん。


2019年12月14日土曜日

「歴史を記録する」吉村 昭 を読んだ その4

河出書房新社 2007.12
対談集。


 この部分の対談も愉快。

半藤 明治政府になったら、彼らがいっていたような天皇親政の国家は無理だとわかった。だから天皇を上に戴きながら、官僚国家をつくるわけです。つまり、古代日本のように天皇が自ら政治を執り行うという国家形態が不可能になったとき、日本人の心の奥底に尊王の精神が深く沈んだ。同じように攘夷の精神も、開国せざるをえないことがわかったとき、地の下に抑えられちゃった。しかし何か事があると、その尊王の精神が戦前昭和の時代には、ちょこちょこ地べたから顔を出す。
革新将校や革新官僚は、その類だったのではないか。

 それから攘夷の精神も、太平洋戦争のときに噴出する。大東亜共栄圏とか鬼畜米英とか一億一心とか、あの時代のスローガンはすべて攘夷の精神の現れなんですね。
というのは私だけの説ではなくて、亀井勝一郎氏が、昭和16年12月8日を迎えたときにいっている。これこそ幕末以来の尊王攘夷運動の発露であるって。

つづく


2019年12月13日金曜日

「歴史を記録する」吉村 昭 を読んだ その3

河出書房新社 2007.12
対談集。

『徳川幕府は偉かった』 半藤一利v.s.吉村昭 がおもしろいし今までの疑問が解けた。

○尊王攘夷倒幕の薩長が明治になって手のひらを返したように攘夷とは正反対に外国の文化を受け入れだすのは何故か?

半藤 西郷隆盛は希代の革命家です。鳥羽伏見の戦いの直前に、
岩倉具視が薩摩の中村半次郎(桐野利秋)に向かって、
「幕府討伐が終わったら、いよいよ次は攘夷だね」というんです。
すると中村半次郎が驚いて、「えっ岩倉公はご存じなかったんですか」
「なんだ?」
「攘夷なんて全然するつもりはありません。できません」
「ええっ!」って岩倉はおったまげちゃう。
それでそれをそばで聞いていた有馬藤太が岩倉邸を辞去したあと、中村半次郎に
「さっき、あんたはあんなことをいったけど、ほんとうか?」
「なに! おまえも知らんのか。攘夷なんか考えていないよ、おまえ」。

 それでたまげた有馬が西郷隆盛のところに聞きにいく。ほんとうに攘夷はしないんですかと。
すると、西郷隆盛が
「あら、おまえにはまだいわんかったかなあ。攘夷は倒幕の方便よ」って。攘夷なんかできるはずないじゃないか、今日から頭を切り替えろといわれたと有馬が書き残しているんです。


 いやぁ、ここも痛快痛快。


2019年12月12日木曜日

「歴史を記録する」吉村 昭 を読んだ その2

河出書房新社 2007.12
対談集。

『徳川幕府は偉かった』 半藤一利v.s.吉村昭 がおもしろいし今までの疑問が解けた。

○坂本龍馬は歴史を動かした人ではない
吉村 生麦事件の賠償金を薩摩藩が拒否したためイギリス艦隊7隻が鹿児島で砲撃した薩英戦争は
5.5対4.5ぐらいの差で薩摩が勝っていた。なぜかというと英国は旗艦の艦長も副長も戦死している。
英国のほうが多くの人命を失った。結果は薩摩の勝ちだったが、薩摩はそうとらなかった。

半藤 このあと薩摩は攘夷から開国へいっぺんに変わった。

吉村 攘夷と叫んでもとても太刀打ちできないことがわかり、長崎の税関を通して武器を輸入した。
そのあと、今度は長州が下関で四国連合艦隊にやられる。
こてんぱんにやられて、長州も目覚めた。ところが長崎に行ってもグラバーをはじめ、長州には武器を斡旋してくれない。
 ちょうど長州征伐(1864年)がはじまるころで、幕府は長州だけには武器を売るなと長崎の外国商人たちに通知を出していた。
 そのときに伊藤俊輔(博文)と桂小五郎(木戸孝允)が買いに行ったのだが、そのときにたまたま長崎に薩摩藩家老の小松帯刀がいた。そこで彼らは小松に薩摩の名義で買ってくれないかと頼んだところ、小松は快諾した。喜んだ長州藩の藩主は薩摩藩の藩主に礼状を出した。
斡旋していただいてありがとう、これからともに手を組んでいきましょうって、これが薩長同盟なんです。

半藤 その過程で坂本龍馬はどこにも出てこない。

吉村 彼は土佐の郷士で、当時、薩摩と長州は強大な藩。その藩を他藩の郷士がまとめるなんてできっこない、常識的に。薩長同盟の根本は武器なんです。

半藤 坂本龍馬は少し丁寧に幕末を調べた人からは評判が悪い、何もしていないと。しかも彼の思想は他人の受け売りばっかり。だからくるくる変わる。最初は強烈な攘夷論者だったのが、たちまち開明派になったのは勝海舟の影響だし、船中八策は横井小楠のおかげ、薩長同盟は中岡慎太郎と土方久元のおかげ、大政奉還は海舟と大久保一翁のおかげと、ほとんど自分の発想じゃない。そういう意味では変わり身の早い、身軽な人であり、フィクサーとしての能力はあったと思う。

吉村 もともと歴史というのは一人の人間が動かせるものではない。薩摩と長州がともに外国と大戦争をやって、その教訓から「ああ、武器だ」とわかって結びついた。つまり、藩という大きな体制によって歴史が動いたわけで、一人の個人が動かせるほど軽いもんじゃないですよ。

 いやぁ、痛快痛快。

つづく


2019年12月11日水曜日

コスモ石油のバカヤロー

 今年の秋よりスマホのコスモ石油配布アプリでQRコード読み取りすることにより5円引きなどを始めた。
それまでは4桁の暗証コードが携帯に送られてきて、それをガソリンスタンドで入力し同じことができた。
新方式になって、携帯に暗証番号が送られてはくるのだがそれだけでは2円しか割引にならず、
さらにスマホでQRコードを読み取ると5円引きとなる。

 ジジイはスマホをもっておらんのだよ。

 本日34.25リットル入れた。
5円引きのサービスがあれば170円もする。

 こんなしちめんどくさいことをするなら、コスモザカードで支払ったら同じようにすればよいではないか。

 頭にきている。
カードも解約しようかと考え始めた。
ほかのスタンドにしようかと付近のスタンド情報を集めだした。

 バカやろー コスモ石油。


2019年12月10日火曜日

「歴史を記録する」吉村 昭 を読んだ その1

河出書房新社 2007.12
対談集。

『徳川幕府は偉かった』 半藤一利v.s.吉村昭 がおもしろいし今までの疑問が解けた。

○尊王攘夷論はなぜ水戸藩に生まれたか?
茨城県の鹿島灘こそ、あの広い海岸線から異国船が上陸してくるという脅威のため。

吉村 水戸藩の会沢正志斎(あいざわせいしさい)と藤田東湖(ふじたとうこ)は、外国が日本を侵略する場合、あの広い海岸線に必ず船できて上陸すると考えた。現に、沖には二百隻以上の捕鯨船が漁をしており、地元の漁師はそれをみてたまげるわけです。

半藤 尊王攘夷運動は水戸から始まって、その教えを受け継いだのはみんな海岸線をもつ藩でした。薩摩藩の場合は密貿易をやっていたから、外国に邪魔されるのがいやだった。


 この二人の対談ではないところで、こんな話にいたく教えられ納得した。
尊王攘夷イコール倒幕ではない。
水戸藩は終始一貫、尊王敬慕、または尊王佐幕。水戸藩はずっともう最後まで倒幕ということは考えていなかった。

 要点だけ抜き出しているので、ちょっとわかりにくいかな。


つづく

2019年12月9日月曜日

崎陽軒真空パックシウマイの包み紙

 1パック15個入りのものを8パック、栄養をつけよ、とのことでお歳暮にもらった。
15コ食べると、それが主食になる。
電子レンジより、手間をかけて蒸したほうが数段うまく食える。

 包み紙がおしゃれだね。



「横濵波止場ヨリ海岸通異人舘之真図」とある。
元の錦絵を調べるとあった。
せっかくの精細な画像なので3つにわける。
この錦絵は明治3年(1870年)のもの。





 手前の石積みの突堤は現在の大桟橋。
海岸通りは外国人居留だった。
右端には神奈川運上所上屋(税関)と英国壱番館がある。
丘の上の奥に「フランス山」があり、現在もフランス山公園としてある。
この海岸通り公園前に現在の山下公園が関東大震災の瓦礫を埋め立て作られた。
氷川丸が固定されて停泊している。
たかだか149年前頃の風景。

 それにしても詳しく書き込まれていて、虫眼鏡片手に見ていて飽きないな。


2019年12月8日日曜日

トーベ・ヤンソンあけぼの子どもの森公園 へ行った その3

 もう一方の端っこに来た。
瓦が魚の鱗(うろこ)みたいでヌメヌメしてそう。



 ここの右側にももうひとつ建物があるのだけど撮り忘れた。
これはダースベーダーのヘルメット。



 こっちは縁無しヘルメット、こんな東屋、庭にほしいな。



 東屋の中に入って出入り口方面を見てみると



 おっ!いたずらっ子がズラッといるぞ。



 赤鬼青鬼?
でも晩秋初冬の空気になじんでるな。



 さて、次はキノコハウスの暖炉に火をくべるときに行ってみよう。


2019年12月7日土曜日

トーベ・ヤンソンあけぼの子どもの森公園 へ行った その2

 公園は山の斜面にあって細長い。
画像の突き当りがもう端っこでそこでぐるりと廻る。



 途中、ワンコの撮影会。
可愛いね。



 端っこから反対側の入り口方向を見る。
この画像の突き当りがこの公園の端っこで、とても細長く狭いことがわかります。
でも雰囲気あるんだなぁ。



 グルっと廻ってキノコハウスに戻ってきた。
屋根に雑草が生えていて、おもむきがあるな。




 雪が積もって、煙突からモクモク煙がでて・・・
もうおとぎ話の世界。

つづく



2019年12月6日金曜日

トーベ・ヤンソンあけぼの子どもの森公園 へ行った その1

 昨日12月5日晴れ、午前中遊んできました。
前回11月中旬に来たときは紅葉にちと早すぎたので再訪です。

 平日なのに、あれれ混んでる。
駐車場が7,8割埋まってた。



 アプローチのメタセコイア並木がきれいだな。



 おなじみ、キノコハウス。
レンズのせいでゆがんでいるのではなく、建物自体がそうなっているのです。



 中から外を見てみる



 いい感じ。

 ここのHPによると、週末にこのキノコハウスの暖炉に火を入れるそうだ。
何の変哲もない暖炉だがおもしろそうだな。

 キノコハウスの煙突からモクモク煙も出る。

つづく

2019年12月5日木曜日

「ふぉん・しいほるとの娘 上・下」吉村昭 を読んだ

 感動したな。
とても長編だけど内容はぎっしり詰まっていて、
腹いっぱい胸いっぱい心もいっぱい涙もいっぱいになった。

 ジジイが若かりし頃、まだ地球の歩き方などの旅行本などないとき、リュックを背負って
西欧を貧乏旅行していたときがあった。
正確には1974,75,76年の、7,8,9月頃だったようにおもう。1973年も旅したがこのときにはオランダへはでかけていない。
もう45年前にもなるのか。

 シーボルトに興味があって、アムステルダムとライデンを訪れ、博物館や植物園を見て回った。
シーボルトが日本から持ち帰ったものが暗い室内に雑然と並べられ、狼の剥製などもあったが、
どれもこれも手入れは悪く、博物館にとってはシーボルトなどはどうでもよい扱いであることがわかった。シーボルトが持ち帰ったといわれる、銀杏の木があったようにおもうが、記憶違いかもしれぬ。
 彼の生地、ヴュルツブルクへも行った。きれいな街だった。


 それにしても、シーボルトの娘のお稲さん、波乱に満ちた生涯だった。
亡くなる直前まで意識も体もしっかりしていて、大好物のうな重を食って、デザートがスイカだったという。あっぱれだな。

 父親のシーボルトはどうしようもないな。
能力はあったようようだが、自己顕示欲が強く、感情は瞬間湯沸かし器、下半身は暴れん坊で誰彼構わずの種まきおじさん。
でも、自分の持っている知識や技術は当時の勉学熱心な日本人たちにわけへだてなく与えた。
彼本人はそんなだったけど、お稲を始め、息子たちも真面目に生きたようだ。腹違いの兄弟姉妹だったが彼らの結びつきがこれまたよい。ジーンときた。

 濃いお話であった。


2019年12月4日水曜日

飯能市 あさひ山展望公園

 朝、快晴に誘われて美杉台にある「あさひ山展望公園」へ行ってみた。
9年前くらいに、まだ元気に働いていたときに工事をしてたっけな。











 ぐるりと一周撮影してみた。
朝9時過ぎではちと遅かった。雲が結構出てしまっていた。
富士山はみえても先っちょがチラッとしか見えないのだが、本日は雲の中です。

 北側に山がなければ、浅間山や日光方面男体山がよく見えるはず。

 よい公園です。


2019年12月3日火曜日

ガッツ石松さん

 最近テレビに出てないねとヤフートップで近況を語っていた。
お元気そうで何よりです。

 ジジイはガッツさんのこんな話が好きで好きでたまらない。

ガッツさん、国から出てきたのはいいけどボクシングやらバイトやらで厳しい生活でまた貧しい。
食べるのもやっと。
食べないときも多かった。
でも、国を出るとき母親からもらった千円札をお守りのように大事にしていて、どんなに腹減っても困ったときがあっても、絶対に使うことはなかった。
だって、お守りだからな。
しかし、使うことはなかったけど、使いたい。
悩んだ。
悩んで、思いついた。
夜、寝る前に枕の下に寝押しするみたいに、そのお守りの千円札を敷いた。
そして、願いをかける。
明日の朝にはきっともう一枚増えているはずだ。
朝目が覚めると、恐る恐る枕の端からそぉーっと持ち上げて見た。
千円札が見えた。
ドキドキする。
でも、その千円札はお守りの千円札で、増えてはいなかった。
ガッツさん、日頃の頑張りが足りないから、願いが届かないのだと落ち込んだ。
毎日必死に働きボクシングに打ち込んだ。
明日はきっと増えていると、千円札を枕下に敷くのは眠る前の儀式のように続けた。
それでも、増えなかった。
お守り千円札は寝押しがきいて、全面に細かいシワが入ってしまったが、ピンとしていた。
どんなに疲れてくたくたになっても、寝る前のこの儀式だけは欠かさなかった。
朝、増えてはいないだろうとわかっていても、ドキドキしながら枕を持ち上げ続けた。
ボクシングも目の前が真っ暗になり水をぶっかけられて、やっとそこがリングの上だと気づくくらい打ち込んだ。

頑張って頑張って世界チャンピオンになった。
お守り千円札は額の裏にしまった。
千円札の何百倍ものお金を母親に渡した。

千円札は本物のお守りになっていた。


2019年12月2日月曜日

ダイアル式金庫の仕組み

 ずっとずっと気になっていた。
ググってみるとあるある。

 しかし、わかったことは次のようなことのみ。
回転する軸に固定してあるのは一枚のプレート(羽根)のみで、あとは空回りする。
プレートの表面には突起があって軸に固定してあるプレートがそのすぐ隣のプレートの突起とぶつかって回転させる。2枚めと3枚めも同様に突起によって回転させる。

 と、ここまでは理解したが、やはり現物を見ながらではないと、どうもわからぬ。
作ってみるか。


2019年12月1日日曜日

ハンガー 修理した

 今朝の外気温は1℃だった。
車は真っ白。きっと建物の屋根も真っ白。

 ハンガーを使えるようにした。
とても修理とは言えぬ。



 割れてしまったハンガーの?部分を取り外すことが出来なかった。
百均で買ったと思ったが、とても頑丈に作られている。
恐れ入った。
ハンダコテで溶かしながら外そうともおもったが止めた。

 外したら、傘の手で握る部分?のように、きれいに仕上げるつもりだった。
割れてしまった部分を取り外すことが出来なかったので、一気にやる気がダウン。
栗の薄板端材を?型に切り抜いて、タコ糸で結んでごまかした。

 こんなんでも使えます。