2019年12月12日木曜日

「歴史を記録する」吉村 昭 を読んだ その2

河出書房新社 2007.12
対談集。

『徳川幕府は偉かった』 半藤一利v.s.吉村昭 がおもしろいし今までの疑問が解けた。

○坂本龍馬は歴史を動かした人ではない
吉村 生麦事件の賠償金を薩摩藩が拒否したためイギリス艦隊7隻が鹿児島で砲撃した薩英戦争は
5.5対4.5ぐらいの差で薩摩が勝っていた。なぜかというと英国は旗艦の艦長も副長も戦死している。
英国のほうが多くの人命を失った。結果は薩摩の勝ちだったが、薩摩はそうとらなかった。

半藤 このあと薩摩は攘夷から開国へいっぺんに変わった。

吉村 攘夷と叫んでもとても太刀打ちできないことがわかり、長崎の税関を通して武器を輸入した。
そのあと、今度は長州が下関で四国連合艦隊にやられる。
こてんぱんにやられて、長州も目覚めた。ところが長崎に行ってもグラバーをはじめ、長州には武器を斡旋してくれない。
 ちょうど長州征伐(1864年)がはじまるころで、幕府は長州だけには武器を売るなと長崎の外国商人たちに通知を出していた。
 そのときに伊藤俊輔(博文)と桂小五郎(木戸孝允)が買いに行ったのだが、そのときにたまたま長崎に薩摩藩家老の小松帯刀がいた。そこで彼らは小松に薩摩の名義で買ってくれないかと頼んだところ、小松は快諾した。喜んだ長州藩の藩主は薩摩藩の藩主に礼状を出した。
斡旋していただいてありがとう、これからともに手を組んでいきましょうって、これが薩長同盟なんです。

半藤 その過程で坂本龍馬はどこにも出てこない。

吉村 彼は土佐の郷士で、当時、薩摩と長州は強大な藩。その藩を他藩の郷士がまとめるなんてできっこない、常識的に。薩長同盟の根本は武器なんです。

半藤 坂本龍馬は少し丁寧に幕末を調べた人からは評判が悪い、何もしていないと。しかも彼の思想は他人の受け売りばっかり。だからくるくる変わる。最初は強烈な攘夷論者だったのが、たちまち開明派になったのは勝海舟の影響だし、船中八策は横井小楠のおかげ、薩長同盟は中岡慎太郎と土方久元のおかげ、大政奉還は海舟と大久保一翁のおかげと、ほとんど自分の発想じゃない。そういう意味では変わり身の早い、身軽な人であり、フィクサーとしての能力はあったと思う。

吉村 もともと歴史というのは一人の人間が動かせるものではない。薩摩と長州がともに外国と大戦争をやって、その教訓から「ああ、武器だ」とわかって結びついた。つまり、藩という大きな体制によって歴史が動いたわけで、一人の個人が動かせるほど軽いもんじゃないですよ。

 いやぁ、痛快痛快。

つづく


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