2020年2月19日水曜日

「クレットマン日記」を読んだ その2

 おもしろそうなところを抜書きしてみる。

1877年9月13日
 芝の寺院[増上寺]で、先々代の大君[14代将軍家茂]の奥方親子内親王[和宮]の葬儀。最近、宮ノ下で逝去された。仏教による葬列。昨年見たミカドの内親王の葬儀は神道によるものであった。そもそも、昨年の葬列のほうが今回より遥かに立派であった。これは、国庫金の現在の貧窮状態によりものと思われる。白い紙の提灯を数えると42個あり、数人の僧侶が金銀の紙を載せた盆を持ち、この紙を群衆に配った。白木の棺にはミカドの紋が付いていた。旗はない。葬列の一行は薄汚れていて、うまく行進していない。・・・。車と衣服はいつものようにグロテスクである。僧侶は薄汚れたスリッパ[草履]と靴下[足袋]を履き、馭者は形をなしていないシルクハットを紙の端で固定して被っている。大僧正の馬車の鞭差しは青いフンドシで止めつけられている。その馭者はネクタイの代わりに婦人用ブローチをつけ、提灯の中にマッチ箱を置き忘れている。別当は醜い鳥打ち帽を被っている。


1877年12月5日
 フランス行使邸で夕食。よそよそしく退屈なディナー。会食者:大久保[利通]、伊藤[博文]両大臣。後者は英語を話す。私は彼の隣の席に付かされた。
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東京府知事、頭のよさそうな顔をしている。
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 皇女和宮が脚気で亡くなった話は有名である。
脚気に根絶については、高木兼寛(海軍)と石黒・森(鴎外)(陸軍)の対立もまた有名である。
このBlogでも以前に取り上げた。

 明治時代のいわゆるお雇い外国人の給料はべらぼうに高給であった。
高いなりにその効果があった分野も多かったのではないだろうか。
大久保・伊藤の隣に座りディナーに招待されている。
クレットマンの地位・立場がわかる。


 当時の訓練の様子。





(つづく)

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