2020年2月23日日曜日

「クレットマン日記」を読んだ その6

 おもしろそうなところを抜書きしてみる。

1878年5月14日
 日本歴史上、大変重大な事件が起こった。今朝8時、大久保[利通]氏が仮皇居に向かう途中、暗殺されたのである。卿は、出羽屋敷と皇居の前に出る門の間の城壁の内側に沿った、人出のない通りで追い詰められたのだ。
 暗殺者は6人で、日本刀で馬と御者を斬りつけた。彼らは仮皇居内に逃走したようで、加賀藩のサムライだという。大きな動揺。城の周辺は見張りが二倍に敷かれた。日本人はヨーロッパ人に比べ、全然驚いていない。
 ド・ローゼン氏は遺体を見たが、西郷[従道]中将と野津大佐が遺体を大久保邸に移した。暗殺者は車中にいた大久保氏の腹を刀の先端で突き刺した。卿は車から外に飛び降りようとし、左手をドアの外に出して肘まで斬り裂かれ、同時に刀で喉を突かれ、頭には多くの傷を負った。遺体は首、手、額が覆われて安置された。暗殺者は遺体を通りに置き去りにし、暗殺に使った刀は地面に残されていた。別当は命が助かり、宮中にこのニュースを伝えに走った。暗殺者は徒歩で、斬奸状を携えて、非常に落ち着いて、裁判にかけられるよう自首した。真の日本人がするように、何も感動の表情を表さず、暗殺の成功に満足の様子を呈していた。彼らは祝祭の日のように、羽織を身に着け、礼服を着ていた。そして、刀を背に背負い、人力車に繋がれて、刑務所に連れて行かれた。翌日、7人目の謀反者が自首してきた。


5月16日
 大久保氏の葬儀。神道による儀式。遺体は長い棺に水平に安置されていたのが注目された。外交官は式服で参列するようにと指示があった。私は用事でどうしても横浜に行かなければならず、列席できなかった。上野のレストランで和食のディナー。概してまずかった。・・・。


P.354 幕末維新期の軍事改革とフランスの役割 保谷徹(東京大学史料編纂所)
・・・
P.375
 体操術は仏式調練の中に明確に位置づけられていた。1873年に国民徴兵制度ができると、日本人の身体を兵士の身体に変えていくために、フランス式の体操調練は重要な役割を果たしていくことになった。田辺は『新兵体術教練』を子ども向けに書き直し、1874(明治7)年、『小学必携体操図解』として刊行した。これを新政府が兵式体操として学校教育に持ち込んだため、フランス顧問団が導入したこの体操訓練は、現代に至るまで初等中等学校の体育教育に大きな影響を与えているのである。


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 「仮皇居」とあるのは「赤坂仮御所」のこと。
5年前の1873(明治6)年5月5日に皇居が焼失したため、明治11年頃に赤坂仮御所に移っていました。
大久保利通暗殺の生々しい当時のニュースとなってます。

 葬儀は実質国葬扱いのようでした。座棺が普通でしたが「長い棺に水平に」とありますから、西洋流にしたのでしょう。

 上野のディナーは相変わらずまずかったようです。和食とありますけど・・・

 巻末の「幕末維新期の軍事改革とフランスの役割 保谷徹(東京大学史料編纂所)」が大変に興味深かった。この部分だけを新書にして再編して出版してほしいくらい。おもしろい。


 当時の訓練の様子3。




(おわり)

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