2020年2月3日月曜日

「戦艦武蔵」吉村昭 を読んだ

 戦艦大和はドック式の呉造船所、戦艦武蔵は進水式の長崎造船所。
武蔵の進水式のときの緊張がヒシヒシと伝わってくる。

 零戦は当時の最高レベルの新鋭機でその製作技術等も一級のものであった。
敗戦後、米国より日本の航空技術開発は一切禁止されてしまい、彼ら技術者はそれ以外の分野に散らばったわけだが、自動車産業にだんだん集まるようになってきてしまった。エンジン開発とボディー開発は確かに飛行機開発と似ている。飛ぶか飛ばないかの差だけだ。
日産にスカイラインという車種があったが、車なのに空へ向かっての車種名がついている。
かっての航空産業技術者の空へのこだわりなのだろう。

 皮肉なことに、米国が日本に航空産業を禁じたことにより技術者たちは自動車産業に流れ、米国は日本車により打撃を受けることになってしまった。

 造船については米国は航空産業のように足かせはなかったので、戦前当時の造船技術はそのまま数十万トンクラスの超大型タンカーに発展することができた。

 武蔵(大和も)の開発中の情報漏れについては滑稽さがつきまとうくらいに徹底していたのには驚きを通り越す。進水式のときさえ巨大なカーテンを作って隠すことに努めた。

 かって横須賀に住んでいたとき、子どもを乳母車にのせ買い物によくいった。
一家でやっている八百屋さんにお爺さんが元気に店先や配達にと働いていた。
あるとき、何かの拍子に戦争のときの話になった。
お店のおばさんが、お爺さんは戦艦武蔵の乗組員だったんだよ、と世間話のように教えてくれた。
お爺さんは野菜をもちながら動く手をハッととめ、一瞬にして表情が変化した。


あのときは・・・、船が・・・、そして・・・ちがう戦地へむかって・・・。
今は・・・、え〜っと、今は・・・・

 やだ、お爺さんたら戦争はもうとっくに終わっているんだよ、大丈夫だよ。

そうか・・・そうだよな・・・


 お爺さんの目の輝きが現在に戻ってきた。
手にしていた大根をギュッと握り震えていた。

 お爺さんの表情が変わってしまったとき、
その周りだけ、戦中に時間が戻ってしまったかのようだった。

 おばさんは、お爺さんは戦中のこと武蔵のことを思い出すと、いつもこうなっちゃうんだよ、ごめんね、びっくりさせちゃってさと、
どこか申し訳なさそうに説明してくれた。

 お爺さんのはなしを詳しく聞いてみた衝動にかられたが、そんなことをすればきっとお爺さんの人格を壊してしまうだろうとおもい、とてもじゃないができなかった。


 米軍は他の艦船には目もくれず武蔵だけを繰り返し航空機だけで攻撃し沈めた。
乗組員の半数以上は救助され助かったのだが、参謀本部は彼らを別の陸上の激戦地へ向かわせる。
武蔵が撃沈されたことの口を塞ぐためだ。

 武蔵の場合だけでなく、これは参謀本部の常套手段で、ある作戦が失敗した部隊はその部隊が消滅するまでより激戦の前線へと送られてゆく。

 八百屋のお爺さんは、そんなふうに前線をまわされて、あのとき店先で働いていた。
無謀な作戦でたくさんの兵隊さんが亡くなっているわけだが、そんなことがなければ八百屋のお爺さんと同じように、それぞれの生活をしていたはずなのにと、悔しさと悲しみがこみ上げてくる。


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