12月10日
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ヤシキと麹町を結ぶ通りの地下の木製下水管の洗浄。つまり、あちらこちらで下水管の上部に穴を開け、竹の薄片の端を次から次へと結び付けて作られた非常に長い細紐をそこに通していた。この紐はとても柔軟性があり、上方下方交互に引っ張り、詰まった下水管を通すのである。
12月24日
士官学校の歩兵科と騎兵科の卒業生が、士官学校の校庭で、我々列席のもと、曾我少将から卒業証書を受け取った。証書は大きな字で書かれているのは、非常に丁重である。生徒たちは各人、お辞儀をしてそれを受け取り、読むふりをする。これもまた非常に礼儀正しい。
12月29日
一年以上前に我々と別れて長崎に行っていたプーセ氏が戻ってきた。
陸軍卿が今年もまた我が家の家の門前に竹と稲の藁でできた凱旋門のようなものを、真ん中に大きなザリガニをつけて立ててくださった。
1878年1月1日
正午45分、ミカドに謁見。謁見者は昨年より少ない。政府は雇われているヨーロッパ人の数が減っている。それに、300円以下の俸給を受けている者は外されたようだ。式典は昨年と同じ広間で行われた。ただ、今年は皇后陛下も伝統的な髪を結ってご臨席なさった。数人の女官と宮廷の高官たちが背景を成していた。
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木製下水管の内側洗浄の工事の様子が興味深い。
チェーンの丸長い部分が竹薄片でそれを麻か木綿の編んだものにくくりつけたのだろう。
貴重な記録です。
クレットマンが勤務してはずの頃の学校。(1874年撮影)
正月飾りの門松を陸軍卿が気をきかすほどの人でした。
ザリガニはもちろん伊勢海老。
そして1878年の新年、天皇陛下に謁見するのだから、やはりその地位待遇は別格だった。
ちょっと詳しく調べてみる。
明治7年の官員録を調べると、前年11月5日に会食した時の伊藤博文、大久保利通がのっている。
俸給も調べてみると、伊藤博文が500円。
お雇い外国人のクレットマンは400円くらいだったはずです。
一旦フランスへ帰ったのですが、再来日の希望があったのもうなずけます。
本国ではその何十分の1だったでしょうから。
しかし、彼はのちにエコール・ポリテクニークの学長になっている。
(つづく)
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