わたしの父方の祖父は、明治11(1879)年生まれである。
明治政府は西欧化に邁進していたが、まだまだあちこち江戸時代の名残以上のものが随所に残っていた頃である。
明治の世になったとはいえ、江戸時代後期といってもなんらおかしなことはない。
祖父は当たり前なことだが、江戸時代に生まれ育った人を親に持ち、そして育てられた。
わたしはその祖父に普通に接していたから、考えてみれば祖父を通して江戸時代の空気を吸っていたことになる。
すっかり枯れ葉の落ちた山の枝ぶりをながめ、庭に落ちたその枯れ葉を踏みしめながら思いにふけった。
祖父が15歳のとき1894年、日清戦争が始まった。
それから10年後祖父25歳のとき、日露戦争が始まった。
そしてさらに祖父35歳のとき1914年には第一次世界大戦である。
さらにさらに、1923年祖父44歳、関東大震災である。
祖父は横浜の繁華街で紙工店を経営していたが、一瞬にして全てを失った。
使用人を何人も雇い、住み込みの従業員も数名いたという。
ちなみにわたしの本籍はいまだその会社のあったところの住所になっている。
しかし、祖父は踏ん張った。
並大抵の苦労ではなかったろう。
会社を再興し、以前にも増して立派な紙工店を経営した。
このときの古地図を見ると、商店街の一角に祖父の名前を店名にした紙工店がある。
ところが1941年祖父62歳のとき第二次世界大戦が始まり、
祖父66歳のときに横浜大空襲で、横浜の繁華街は一夜にして焼け野原になってしまった。
もう祖父に再び立ち上がる気力は残っていなかった。
わたしが小学校1年生の頃、おじいちゃんは何でこんなに腑抜けたように気力がないんだろうと
子ども心に会うたびにおもっていた。
いつも和服姿におしゃれな下駄履で、寒くなってくるとマントをはおり、帽子と杖はセットであった。身なりはいつだって格好良かったのに、祖父に精気は感じられなかった。
帰るときは市電の駅まで見送り、祖父は宝くじを買うついでに、小銭をわたしにくれた。
なくなるまで、祖父の洋装とにこやかに笑う顔を見たことはとうとうなかった。
祖父の妻、つまりわたしの祖母が昭和37年に亡くなった。
お葬式のとき祖父がお寺で、祖母のお棺の前で声を上げて泣いている姿をよく覚えている。
子どもの目は残酷だ。
歳をとると、声だけはかすれてヒィーヒィー聞こえるのに、涙は枯れてでないものだと
祖父の泣き顔を観察するように見たことを思い出す。
それから2年後、祖父が亡くなった。
父はなぜか、母も孫のわたし達も呼ばずにさっさと葬式を済ませお骨にしてしまった。
わたしは今、祖父祖母父が入っている墓のすぐそばで生活している。
元旦に花を持って墓参りをした。
花を枯れさせてはいけないとおもい、昨日水やりにいった。