2016年8月31日水曜日

父が帰ってくるとき  その5

 ボクの家には風呂がなかった。
歩いて1分のところの銭湯が、うちの風呂だった。
銭湯は同級生の友達の家でもあったので、
営業前の銭湯の脱衣場や材木のまき置き場などで、よく遊んだが
おばさんに叱られることも多かった。

 ボクはたらいの中で産湯を使った。
使ったのはボクだけではない。
父方の祖母が、一緒に生活しているとき、銭湯代ももったいないと惜しみ
風呂代わりの行水にずっと使っていたと、
母がさすが明治生まれの武家の血筋は
たいしたもんだねとよく言っていた。

 このたらいは、その後ずっとあったのだが、
アパートの建て替えの引っ越しのときに、捨ててしまった。
そしてボクが赤ちゃんのときから結婚して家をでるときまで、
何十年も自分ちの風呂のようにお世話になったのが、銭湯である。

 それほどに親しんだ自分ちのような銭湯に
ボクは一生、心の傷になるようなひどいことをしてしまった。

 銭湯の裏にある、薪になる材木置場で遊んでいるときのことだった。
ボクはマッチを手にしていた。
一体どこで手に入れたのだろう。今でもわからない。
材木の隙間に入り込み、材木の切れ端を集めてボクは火をつけた。
いきよいよく燃え出して、慌てて消した。
手のひらでバンバンたたいてけした。
心臓がドキドキして、立てかけてある材木の隙間からあちこちぶつけながら出た。
汚れた手のひらを立てかけてある材木でぬぐい、走ってその場所から逃げた。

 しばらくして、ボヤで大騒ぎとなり、
消火器でなんとか消し止められた。
銭湯のおじさんが見つけてくれて、火事一歩手前ですんだのだった。
ボクは、母に連れられてあやまりにいった。
母は、菓子折りと消火器の代金を持っていった。

 いつもなら、厳しくしかられたあとは必ず、手の甲の親指と人差し指の間に
お灸をすえられていたのだが、このときは叱られたものの、
静かな能面のような母親であった。
それは、こわいを通り越し恐怖であった。

 その日の夕方、いつものように一人で銭湯にいった。
ついさっき母と謝りに来た同じ脱衣場で、
そんなことはなかったかのような顔をして衣服を脱ぎ、
湯船につかり手足を伸ばしていた。

 そのときのボクは、少しでも反省しているような表情や態度があったのだろうか。
いくら小学校低学年のときの事とはいえ、今でも恥じ入ることをしたものだとおもう。
この歳になっても、ときたま思い出すほどに悔い、今でも頑張って営業している幼馴染のHちゃんに、申し訳ない気持ちでいっぱいである。



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