わたしが子どもの頃、母方の祖父が、埼玉県と群馬県の境近辺から電車に揺られながら
玉子を持ってきてくれたことがあった。
玉子たちは籾殻に大事に包まれてかなりな個数、
モナカでも入っていたような紙箱に入れられていた。それが二箱あったような気がする。
かさばるそれらの箱を風呂敷に包み、手にぶら下げながら持ってきてくれたわけだが、
横浜駅で下車すべきところを乗り過ごしてしまい、大変なおもいをして育ち盛りのわれわれ孫達に運んできてくれた。
玉子はそれくらい貴重品であった。
「第10章 庶民の生活文化」で速水氏の「江戸時代は卵焼きが案外食べられていた」という話題から宮本常一氏が、その鶏や玉子のことにふれている。
○ニワトリは時間を知るためにみんな飼った。
○小型の日本系のチャボみたいのは、必ず一番鳥・二番鳥と啼いてくれた。
○ところが啼くのは1、2年で3年ぐらい経つと時を告げなくなった。
◎そうするとそれを大抵、お宮の森へ捨てに行ったものだった。
○それは食べなかった。
○なので明治の中頃までは、少し大きい森をもったお宮さんはすごいほどニワトリがおった。
興味深い話はさらに続き、
これ以上詳しくは本を読んで下さいとしてきたところだが、
今回は特別にもう少しつづける。
速水氏が「卵は生食や否や」とつっこむ。
宮本氏求められた以上にサービス精神を発揮し答えている。
○卵焼きにしている。
○卵を生産するためにニワトリ飼育したのは九州西方で、これは江戸時代かなり早くからあった。
◎それが実は長崎カステラの原料になった。
○もう一つ、伊予が大きな中心地でカステラに似た、中にあんこの入ったタルトがある。
○瀬戸内海の西からずっと九州の西までの北側にかけて、その間に早くから卵を菓子にして食べるという食文化があった。
○その地帯では、卵を売るためにニワトリを飼っている。
このあと、サツマイモと塩の話になり、
衣食住と対談してきて、最後の住のはなし「小さくても家」へと続いてゆく。
宮本氏のニワトリは食べなかったという点については、
ジジイの意見は、そんなことねぇだろうだ。
だってみんな食わずにお宮の森へ持っていっていたら、
お宮というお宮がニワトリだらけになっちまうじゃねぇかだよな。
祭りは頻繁にあったわけだげ、ニワトリだらけだったらお祭りどころではあるまい。
お宮で喧嘩をしようが、逢引をしようが、
ニワトリがしょっちゅうコッコッってないてうじゃうじゃいたら、それどころじゃあるまいよ。
わたしは幼稚園に入れなかった。
そのかわりよく母の実家であるじいちゃん家にあずけられていた。
思い出しみると、そういえば近所のお宮さんにニワトリが必ずいたな。
あれって、その名残だったかもしれない。
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