講談社 1994.5
石川 英輔 著
石川氏がこの本を執筆された経緯をあとがきで述べられている。
「歴史の中の江戸時代」速水融 著 の中で、宮本常一氏の泉光院日記の話が発端となり、
8年以上を費やし出版された。
わたしもこの本を手にしたのは、おなじである。
まぁ、わたしの場合は原本にあたらずに、石川氏の執筆によるものとなったのだが。
200年も前に、すごい人がいたもんだとおもう。
60歳近いというのに超人的な体力脚力、立山・鳥海山・富士山など難なく登頂を果たす。
6年と2ヶ月、ほとんど農家や庵に泊めてもらい、托鉢をして生きてゆく。
その間、一度も野宿しなかった。
泊めてもらったところでは、夜になると旅の話や、
ときには四書五経を講じたり、土地の修験者に様々な秘宝を伝授したりしている。
また連歌や茶道華道弓道など守備範囲は広い。
俳句が日本の津々浦々に浸透している様子も改めて驚いた。
スーパーマンに四書五経を講ずることはできまい。
200年前を生きた泉光院は、スーパーマンを超えていたな。
許可なく泉光院の足跡地図を載せてしまうが、お許しください。
この足跡、五街道などのいくらか整った街道を歩いたのではない。
街道筋では托鉢の結果がよくないので街道からそれたところや、
泉光院自身が悪路難儀したと記した高低差のある山道であるとか、
いずれも歩きづらいような道の連続の足跡である。
足跡だが托鉢経路跡といってもよかろう。
そしてそれら街道では、お遍路や札所めぐりなど諸国行脚している様々な人達と会う。
途中の関所や番所の様子も愉快だ。
司馬江漢が西遊日記で歩いた街道を数年後に歩いたようなところも部分的にある。
江漢も百姓農民にいつも温かく優しくよりそい、文章にもそれらがにじみ出ている。
しかし、泉光院とは立ち位置というか、仰角俯角の角度が異なり、二人の日記で目線が重なるところがない。
200年前の貧富にかかわらず百姓農民たちのやさしさあふれるふれあい、
泉光院の人柄ももちろんあったのだろうが、それらがたっぷりつまった日記、
200年後の現代でも伝わってくるな。
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